焼き菓子の秘密
最近、エルーテには楽しみにしていることがある。
それは仕事をしているラルケスの執務室へ、お茶と焼き菓子を届けることだ。仕事の邪魔をしたくないので、彼の顔を見て満足した後はすぐに部屋を出るようにしている。そして少し時間を置いてから再び執務室へ行き、カップや焼き菓子を載せていた皿を下げに行くのだ。
そんなエルーテは、近頃気づいたことがある。
それは、エルーテが作った焼き菓子のときは必ず、ラルケスが残さず食べてくれているということ。逆に、エルーテ以外が作った焼き菓子のときは、手をつけずに残すことが多い。試しにエルーテは、自分が作ったとは言わずに、数日間ラルケスへ焼き菓子を出してみた。すると彼は、焼き菓子を全て綺麗に平らげたのだ。
(なぜ……。料理長や、皆にも口止めをしたのに……)
シャルにもラルケスには絶対に言わないようにと、約束をさせたのだ。そしてその日は、二種類の焼き菓子を用意した。一つはエルーテ自身が作った焼き菓子、もう一方は料理長が作った焼き菓子だ。なぜこのようなことをしたのかというと、本当に彼が見分けているのか、知りたかったからだ。
エルーテがお皿を片付けに彼の執務室へ行くと、そこで驚いた。というのも、彼はエルーテが作ったほうの焼き菓子は全て食べ、料理長の焼き菓子には殆ど手をつけていなかったのだ。
(どうして……)
思わず不気味なものを見るような目でラルケスを見れば、その視線に気づいたラルケスが書面から顔を上げた。最初は訝しんでいたが、やがて何かに気付いたのか、フッと笑う。
「なにか、ご質問でも?」
「……ラルケス様は、私が作った焼き菓子のときだけ、いつも残さず食べてくれますよね? どうしてですか?」
思い切って、質問をした。ラルケスは笑みを湛えたまま答える。
「偶然でしょう。あなたが作った焼き菓子のときだけ、私が残さず食べているだなんて……」
「で、でも、でも! 私、何度か試したんです! 自分が作ったときと、そうでないときと。ラルケス様は、私が作った焼き菓子のときは、いつも必ず食べてくれていました!」
「気のせいですよ。さ、用が済んだなら、そのへんで遊んできなさい。泥遊びでも、かけっこでも、水遊びでも」
「わ、私は、そんなことをして遊ぶような、幼い子供ではありません!」
「わかっていますよ。幼い子供だなんて、思っていません。よく吠えてじゃれて走り回る犬だとは思っていますが」
「犬でもありません!」
「ではカエ……」
「カエルでもありません!」
ラルケスはエルーテの頭から足の先まで、ゆっくり見た。そしてやれやれと言わんばかりに首を振る。
「その男装姿も、すっかり板につきましたね。今ではあなたがその姿でうろついても、誰も不思議に思いません……。よくお似合いですよ」
笑顔とともに厭味な言い方をされ、むっとした。だがエルーテも負けじと、輝かんばかりの笑顔を浮かべてみせる。
「ありがとうございます。私も気に入っているので、とても嬉しいです。……あぁ、そういえば、私の部屋から女性ものの服が全部どこかへ消えて行方不明になっているのですが、ご存じありませんか? 女性ものの服が着れなくて、とても困っているんですが」
「おや……、それは困りましたね? 私の城に泥棒でも入ったんでしょうか。警備を厳重にするよう、通達をしておきます」
「私は、どこかの誰か様がしたのでは、と考えているんですが」
「おや、どこかの誰か様とはどなたのことでしょうね?」
証拠がないので、ラルケスをこれ以上問い詰めるのは無理そうだった。だがエルーテの部屋から女性ものの服を全て持ち出すなど、この城の関係者以外には無理だ。しかも城にいる者たちは全員、エルーテがラルケスの婚約者だと知っている。ゆえに、勝手に誰かが服を盗むなど有り得ない。
「私だって女性だから、たまには女性らしく着飾りたいときだって、あるのに……」
「私の目の前でだけなら、構いませんよ。私の目の保養として、是非着飾ってください」
「意味がわからないです。ラルケス様の、バカッ! 意地悪! 陰険! 無神経!」
エルーテはむっとすると、執務室を後にした。
ラルケスへ向かって罵倒したエルーテは、心底落ち込んでいた。そばには休憩中のアルディがいる。城へ戻ってきてからは監視役の任を解かれ、接触する機会が以前よりも減った。だがエルーテはわりと頻繁に、アルディの元へ通っている。
「ラルケス様がね、すっごく子供っぽい意地悪をするの……」
庭の木陰に腰を下ろして、二人で話をしていた。アルディははいはいといった様相で、話をきいている。少し前に彼は顔や体が痣だらけだったことがあるのだが、彼曰く転んだらしい。
(どう見ても転んだ怪我じゃなかった)
エルーテも人から殴られた経験があるので、転んだ怪我かそうでない怪我なのかはすぐにわかった。だが何度きいても、アルディは転んだ、としか言わなかったのだ。シャルにそのことを相談をしたのだが、『あれは男の勲章です。大丈夫ですよ』としか言わなかった。どうして怪我をしたのかシャルは事情を知っているらしいが、教えてくれなかったのだ。
「まぁ……、ラルケス様が大人げない方っていうのは、知ってるけどさ……」
「そうなの?」
「うん。まだエルーテがこの城へ来る前、ある使用人が掃除をしている最中に、ラルケス様がとても大切にされていた異国の壷を割ってしまったんだ」
「うん」
ラルケスは珍しいものを蒐集するのが好きであり、エルーテもよく見せてもらう。
「そのときは、怒りはしたけど、使用人に罰を与えなかったんだ。噂では、家が一つ建てられるぐらいの、とても高価なものだったらしいんだけれど……。このときのことは、皆ラルケス様はとても偉大なお方だ、って褒めちぎってた」
「そうだったんだ……」
エルーテはほっとした。ラルケスは外見が少し冷たい印象だが、実際はとても思いやりがあり、優しいところがある。
(ラルケス様のそういう懐が深いところ、好きだなぁ……)
ほのぼのしたエピソードを聞かされ、エルーテは和んだ。
「でも、この前エルーテがラルケス様に作ったお菓子を、うっかり全部食べちゃった使用人や料理人、あと兵士たちがいてさ。そいつら全員解雇にしてた」
「……え?」
エルーテは硬直し、頭の中が真っ白になった。
「さすがにハンナや家令、兵士のお偉いさんたちが抗議して、大変な事態になったんだよ。ラルケス様もあれで結構頑固なところがあるから、全然発言を撤回しなくて……。最終的にシャル様がエルーテに報告してくる、って言ったことで、やっとラルケス様が折れたんだけれど……」
エルーテはなんだかとても、悲しい気持ちになった。
「それは……、作り話じゃないんだよね?」
「うん。先週の出来事だったかな……。冗談みたいな話で、笑えるだろ? でもラルケス様、本気だった。これまで皆はラルケス様のことをとても立派で欠点なんてない、って言っていたのに、今じゃエルーテのことに関してだけは、子供っぽくて短気で心が狭いって言ってる」
「……私、あとで皆に謝っておくね」
非常に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分のせいでラルケスの評価が下がるのは、とてもつらい。
「そういえば、お前がナントカ愛好会の件で落ち込んでいた時期があっただろ?」
ナントカ愛好会とは、偽造事件のことだ。ラルケスは詳しく語らなかったが、家政婦長のハンナや女性使用人たちがこっそり教えてくれたのだ。愛好会に所属していた一部の者たちが密会に使っていた古い家屋に、エルーテの下着や服などが見つかった、と。それらはいずれも、盗まれたものらしい。その話をきいて、エルーテは相当なショックを受けて寝込んだ。いくら鈍いエルーテでも、一部の男性たちから自分がどういう目で見られていたのか、わかったからだ。
「うん……」
「あのときのラルケス様、すっごく不機嫌でさ。怒らせたらまずいと、皆腫物を触るような感じだったんだ。でもとある地方の豪族が、ラルケス様に失礼な態度をとったらしくて……。領地を出禁になった、って聞いたよ」
「失礼な態度……?」
「うん。ラルケス様を接待しようとして、いかがわしい感じの女性をたくさん連れてきていたみたいで……。その女性たちに、ラルケス様を誘惑させようとしたんだってさ。……まぁ、ラルケス様ってそういう魂胆、すぐ見抜くからさ。とてつもなく不機嫌になって、すぐ追い返してた」
エルーテは複雑な心中になった。男性が女性たちに囲まれる接待を喜ぶ、という話は噂で聞いたことはあるが、実際にその光景を見たことはない。
(そういえばラルケス様、私が寝込んでいるときに一度部屋にやってきたっけ……。なんだかとても機嫌が悪かったけど、理由をきいても教えてくれなくて……。しかも急に私の隣りで寝始めたかと思ったら、抱き着いてきて……)
そのときのラルケスの顔色は悪く、エルーテは早く元気にならなければ、と思ったのだ。
「アルディも、女の人たちに囲まれる接待、されてみたいの?」
アルディは頬を赤くして首を振った。
「バッ……、バカ! 俺は別に、そんなのに興味なんて……。大体俺には、その……、……きな奴……いるし……」
エルーテは首を傾げた。
「きな……? え? なんて? 声が小さくて聞こえなかったから、もう一度言ってくれる?」
アルディは顔が真っ赤だった。エルーテと視線を合わせようとせず、横を向く。
「騎士になるために訓練している最中だから、女にかまけてる暇なんてない、って言ったんだよ!」
「わぁ……、ストイックだね?」
アルディはなぜか落ち込み、今にも泣きそうになっていた。エルーテはどうしたのだろう、と戸惑う。
「……なんか、目にゴミが入ったっぽい。……お、俺、そろそろ訓練に戻るよ。お前も、あんまり拗ねるなよ。お前が拗ねると、ラルケス様は機嫌が悪くなって、周囲に八つ当たりをするんだから……」
「う、うん、ありがとう、アルディ」
アルディは走り去っていった。エルーテもそろそろ自分の部屋へ戻ろうとするのだが、そこでシャルがいることに気づく。
「シャル?」
シャルはエルーテのそばまでやってきた。どうしたのだろう、と彼を見ながら首を傾げる。
「ラルケス様からこっそり様子を見てきてください、という命令を受けた、ような気がします」
「え?」
「……私の独り言です」
「シャル……?」
「エルーテ様が怒っていたことを、気にしておられるようでした。落ち込んでいた、と言うべきでしょうか」
ラルケスの最もそばで仕えているのは、シャルだ。彼はいつも、ラルケスの機嫌をそれとなく宥めたり、主人のことを思って行動している。
「ごめんなさい……。私も、子供っぽかったと反省をしています」
「いえ、エルーテ様は悪くありません。エルーテ様は年頃の女性です。着飾っておしゃれをしたいでしょう。ごくごく自然な感情です。街を歩けば、エルーテ様ぐらいの年頃の女性は皆、綺麗にしていますからね」
派手に着飾りたいというわけではない。だが、たまには可愛らしい髪飾りをつけて、女性の衣服を着たいときがあるのだ。ラルケスの前でドレス姿を披露し、彼に喜んでもらえるのは嬉しい。だがそれとは別で、エルーテは自分自身のために、女性らしい格好をしたいときがあるのだ。ラルケスの城に来てからは男装ばかりしているが、女性の衣服が嫌いというわけではない。むしろ好きだ。以前は父の領地の仕事を代理で行っていたので、必要にかられて男装をしていることが多かった。だが今は、必ずしも男装が必要というわけではない。
「……この前、仲のいい使用人の女性たちと、お忍びで街に出かけたんです。使用人の皆さんは私服で、凄く可愛くて……。すれ違う同い年ぐらいの女性も、皆すごくおしゃれな服を着ていたんです。……私、そのとき男物の服装で……。なんだか、ちょっとやだな、って初めて思ったんです。今まではあまり、気にしたことがなかったんですけど……」
「そんなことが……」
「普段は別にいいんです。私も動きやすい服装のほうが好きなので。でも、街へお買い物をしたり、遊びに行くときまで、男装をする必要はないんじゃないか、って……」
エルーテの姉たちは皆おしゃれが好きであり、自分で選んだ服を着て、お気に入りのアクセサリーをつけていた。だがエルーテはというと、これまでそういうことする機会があまりなかったのだ。
「エルーテ様……」
「ご、ごめんなさい。こんな風に羨むなんて、みっともないですよね。忘れてください」
シャルは首を振った。
「ラルケス様に、それとなくお伝えしておきます。……申し訳ありませんでした。エルーテ様がそのような悩みを抱えていたとは、気づけず」
「こちらこそ、不満を言ってしまい、ごめんなさい……。あの、ラルケス様にはお伝えしないでください。私が、自分で言いますから……」
気まずくなり、エルーテはシャルの前から立ち去った。そうして一人で庭園の奥へ向かうと、東屋にある石の椅子へ座る。
(そういえば私、おしゃれというおしゃれをした記憶がない……)
唯一着飾った覚えがあるのは、昨年祭りで行われたコンテスト。
(姉さまたちからは、可愛らしい小箱や下着などを贈られたことがあるけれど、姉さまたちが着用していたような可愛いドレスとかは、持っていない……)
兄や姉から貰ったドレスは、どれも地味なものばかりだった。明るい色のドレスよりも、地味な色のドレスのほうが似合うと言われたのだ。装飾品も地味なものしか持っていない。
(もしかして、私には可愛い服装は似合わないのかな……?)
それならば、地味な服装ばかり似合うと言われてきた意味が、わかった。
(じゃあ、人には可愛い服を着た姿を見せないから、自分の部屋で一人で楽しむ分にはいいかな?)
思いつめるあまり、マイナス思考となった。どうしても可愛い服装をしてみたいが、人の迷惑になるならば、着ないほうがいいのでは、という気さえしてくる。
「はぁ……。いっそ、男だったらよかったのに……」
大きな溜息をついたとき、人の気配を感じた。驚いて振り返ると、そこにラルケスがいた。
「男だったら? なにを妙なことを考えているんです」
エルーテは、どんよりとした暗い表情をした。一人でいたい気分だったというのに、よりによって今一番会いたくない人物と会ってしまったからだ。
「……なんでもありません」
エルーテはぷい、とつい素っ気ない態度をとってしまった。ラルケスは構わず、エルーテの隣にある石の椅子へ座る。
(うぅ……、ラルケス様、どうしてここに……。この時間はいつも、お仕事をしているのに……)
非常に気まずいが、走って逃げだすわけにもいかない。エルーテはただただじっとして、彼の反応を探る。
「最近、貴族の若い女性の間では、花の形をしたレースを裾につけたドレスが流行っているそうですよ。髪にパールの髪飾りをつけるのも、好まれているそうです」
エルーテはラルケスの方へは、振り返らなかった。
「へ、へー……、そうなんですね」
「あなたも、そういうドレスが着たいんですか?」
「……どうせ似合わないので、着たいと思いません……」
「似合わない? どうしてですか?」
「私には地味なドレスのほうが似合うって、兄様たちが言っていたからです」
声が沈むのが、はっきりとわかった。
「そうですか……。まぁ、イザールたちがどうしてそんな発言をしたのか、その理由はわかりますけどね」
やはり似合わないのだ、と思った。エルーテは泣きそうになる。だがぐっと堪えると、一度呼吸を整えた。そして笑顔でラルケスの方へ振り向く。
「さっきはすみませんでした。子供じみた態度をとってしまって……。もう平気です」
これまで兄や姉たち、そして周囲にいる者たちを困らせないよう、笑顔を努めてきた。自らが暗い表情をすれば、周囲の者たちが心配をする。そう考え、エルーテはできるだけ明るく振る舞ってきたのだ。
「また、その顔ですか……。私はあなたのその顔は、嫌いです。嘘をついているときの顔ですからね」
「え?」
「あなたがこの城へ来たばかりの頃、よくそんな顔をしていたでしょう」
「それは……」
ラルケスには、見透かされてしまうようだ。しかしながら、エルーテは構わず笑顔を浮かべた。そんな姿を見た彼は、神妙な表情となる。
「……私も、少しやり過ぎました。あなたを心配するあまり、女性らしい服装をさせないなどと……」
「……、ラルケス様……?」
「あなたは、とても魅力的な女性ですからね。着飾れば、また妙な男性が手出しをする可能性があります。なので、あなたの衣服を隠しました」
「そんな、大げさな……」
着飾った程度で、男性が手出しをしてくるとは思えなかった。しかしながら、彼はそうは考えてはいないようだ。
「大げさではありませんよ。……私は、あなたがあんな風に落ち込む姿は、もう見たくないんです」
ラルケスはエルーテの手に、自らの手を重ねた。そして、包み込むように両手で握る。
(私がショックを受けて寝込んでいたとき、ラルケス様はずっと心配をしてくれていた。私が部屋から出るのが怖かった気持ちも、全部察してくれていて……)
また、彼を不安にさせてしまった。エルーテはラルケスの手を、そっと握り返す。
「もう大丈夫です。あのときは驚いてしまって、暫く気が塞いでいましたが……。ラルケス様がずっとそばにいてくれたので、もう大丈夫です」
「あんなことがあっては、落ち込むのは当然です。男の私でさえ、身の毛がよだつ思いだったんですから……」
ラルケスは落ち込んでいたエルーテに対し、とても優しくしてくれたのだ。隙があったからこんなことになった、と責められても仕方がなかったというのに。
「……私は、強くならなければ、と思ったんです。私も、ラルケス様が悲しい顔をするのを、もう見たくないので」
「エルーテ……」
「これから私は、ラルケス様の妻になるんです。私がラルケス様を幸せにしたいんです」
そう言えば、ラルケスは優しい笑みを浮かべた。
「あなたが私の妻になるならば、いつまでも男装をさせるわけにはいきませんね。これからはもっと、女性の服を着てください」
「ラルケス様……」
ラルケスはエルーテの頬に手を添え、優しく撫でた。
「あなたはもっと、自分を大切にするべきです。明日にでも、あなたが着たいドレスを、仕立てましょう。私の意見としては、あなたは地味なドレスよりも、花のようなイメージをした可憐なドレスが似合うと思いますよ」
エルーテはつい、疑いの眼差しを彼に向けてしまった。機嫌を取ろうと、わざとそう言っているのではないかと。
「私には、地味なドレスのほうが、似合うのでは?」
「おや、私の審美眼が信じられないのですか? これでも私は、美的感覚はいい方だと自負しているのですが」
「確かに、ラルケス様の見る目はいいですけど……」
「これからは、華やかなドレスでも、魅惑的なドレスでも、あなたが着たいものを用意しましょう。でも、一つだけ、私と約束をしてください」
「……はい?」
唐突に真顔になったラルケス。エルーテはなんだろう、と表情を強張らせる。
「もしも綺麗に着飾っても、私以外の男性を誘惑しない、と」
そう言われ、つい笑ってしまった。彼は本当に心配性だ、と。
「当然です。私がラルケス様以外の男性を自発的に誘惑するなんて、絶対に有り得ません」
「笑わないでいただけますか。私は真剣に言っているのですから」
「ごめんなさい」
ラルケスはエルーテの唇へ、そっとキスをした。触れるだけのものだったが、甘くて心が溶けそうになる。
「やはり、あなたの着飾ったドレス姿を他の者に見せるのは、惜しいです」
「もう、ラルケス様ったら……」
「……こんな風に嫉妬深い私のことは、お嫌いですか?」
躊躇いつつも質問をしてきた彼に対し、エルーテは首を振った。
「いいえ。大好きです」
そう伝えれば、彼はほっとしたように微笑んだ。その笑みがなんだかくすぐったく、照れてしまう。
「これからもずっと、私のそばにいてください」
「はい。もちろんです」
エルーテとラルケスはもう一度、唇を重ねた。
――二日後。
エルーテは手作りのお菓子を、ラルケスがいる執務室まで運んだ。やはり彼は、エルーテが作った焼き菓子と、そうではない焼き菓子を区別しているらしく、残さず食べる。
(昨日の焼き菓子は料理長さんが作ったものだったけれど、ラルケス様はあまり食べてくれなかったんだよね)
その謎は、未だに解明されていなかった。
「どうして私が作った焼き菓子と、料理長さんが作った焼き菓子がわかるんですか?」
ラルケスは書類から顔を上げず、返事をした。
「さぁ、なんのことやら……」
エルーテはシャルが、ラルケスにこっそり教えているのだろうか、と疑いの目を向けてしまった。彼は心外そうに、ゆっくり首を振る。
「私は何もお伝えしておりません」
「えぇ? でも……、それじゃあどうして……」
ラルケスはシャルに、五冊ほどの本を渡した。そして彼に、図書室へ返却してほしい、と頼む。
(シャルが伝えていないのだとすれば、いったい誰がラルケス様に……)
エルーテが悩んでいると、シャルとすれ違った。彼は部屋を出る間際、エルーテへ話しかける。
「その答えは簡単です。エルーテ様が焼き菓子を作ったときは、エルーテ様の体からとてもおいしそうな甘い香りがしていますから。ラルケス様はエルーテ様の香りを覚えていて、その香りと同じ焼き菓子を召し上がっているのです。後は……、味で区別をされているんでしょうね」
ラルケスがシャルを無言で睨んだ。シャルは礼儀正しく頭を垂れてから、部屋を出ていく。エルーテはというと、腕の裾に鼻先を近づけて、匂いを確認した。
(本当だ……。自分では気づかなかったけれど、甘くていい匂いがしてる……)
味で区別している、という回答はなんとなく予想できたが、匂いで区別しているとは予想外だった。ラルケスを見れば、彼は普段と変わらぬ様子で仕事を続けている。
「ラルケス様。私の匂いで、お菓子を区別していたんですか?」
「なんのことです」
「今、シャルが教えてくれました」
「シャルが勝手に、そう言っているだけです」
エルーテはラルケスの傍へ行くと、彼の顔を覗き込んだ。明らかに仕事の邪魔だが、彼は無視する。
「私の手作りのお菓子は、おいしかったですか?」
「えぇ。とても」
「本当に? 私も味見をしていいですか?」
エルーテは彼の頬に両手を添えると、自分のほうへ向かせた。そして彼の唇へキスをする。
「……、なんです、急に」
「ラルケス様の唇に残った焼き菓子の残り滓を、私がいただきました。とてもおいしいですね」
ラルケスはエルーテを見て、大きな溜息をついた。そして額に手を当てて項垂れる。
「あなたはいったいどこで、こんな技を覚えてくるんです」
「こんな?」
「……、もういいです……」
ラルケスの頬が、うっすら赤くなっている気がした。
「ラルケス様、もしかして、顔が赤くなっていますか?」
「……、なっていません」
顔を見せてもらおうとしたが、彼は背を向けてしまった。エルーテはラルケスの背中に抱き着く。
「ラルケス様、見せてください。私に確かめさせてください」
「嫌です。仕事の邪魔なので、泥遊びにでも行ってきなさい」
「ラルケス様の顔を見てから、外へ行きます。だから」
「お断りします」
「もう、どうして断るんですか。未来の妻からの、可愛いお願いなのに」
「そう言うのなら、未来の夫が嫌がる行為を、しないでいただけますか」
エルーテはラルケスの顔を見ようと、何度か挑戦した。だが悉く躱されてしまう。
「ラルケス様、意地悪しないでください。私に見せてください」
「見せません」
その後二人は飽くことなく、シャルが戻ってくるまでこの攻防戦を続けた。