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​第一話

 人口が三千人ほどの小さなその村は、山間の奥深くにある。昔ながらの古民家も多く、長閑な田園風景が広がっている。
 村の西側には風目渓谷という谷があり、その真下には隠川(かくれがわ)という渓流がある。村の出入り口はこの風目渓谷の上に架けられた風目橋だけであり、村へ出入りするときは必ずここを通らなければならない。
 ――群狼(ぐんろう)村。
 その村へ葉上リアが戻ってきたのは、およそ九年ぶりのことだった。リアは群狼村生まれであり、七歳まで暮らしていたのだ。だが事故で両親を亡くし、やむを得えず引っ越しを余儀なくされた。その群狼村へ戻ることになったのは、彼女を引き取ってくれた後見人の都合だ。リアには両親以外に親族がおらず、本来ならば施設へ送られるはずだった。だが両親が生前に親しくしていた友人の男性が未成年後見人になってくれたことから、その男性と一緒に暮らすようになったのだ。
(カイお兄ちゃんが戻ってくるまで、しっかり頑張らないと)
 後見人の灰瀬カイは、年に何度か出張をする。だが今回は珍しく、長期間海外へ行くことが決まったのだ。その間リアを一人で残すのは心配だということになり、カイは一緒に行こうと言った。だがリアは海外暮らしをするよりも、住み慣れた環境で暮らすことを選んだのだ。カイも、群狼村ならば事件に巻き込まれることもないだろうと、一人暮らしをすることを了承してくれた。
「片付けはこんなものかな」
 引っ越しの後片付けが大体終わり、リアは家の中を見回した。引っ越しをする前に内装をリフォームしたため、壁紙や床は新品だ。以前はシャワーがなく、しかも薪で焚かなければならなかったお風呂も、今はボタン一つで湯が浴槽に溜まる。改装前は全て和室だったのだが、一つを残して全て洋室にした。ちなみにカイの部屋は一階で、リアの部屋は二階にある。リアは自室へ戻ると、テレビをつけた。丁度報道番組をしており、それを聞き流しながらまだ本棚へ収めていない雑誌や写真集を手にする。雑誌の表紙を飾っているのは、ヴォルフという名の男性だ。流れるような銀髪に、水色と紫のオッドアイ。主にモデル活動をしており、その容姿の美しさから神秘の妖精とも呼ばれている。そのヴォルフの映像が、突如テレビ画面に映し出された。高級ブランドの広告塔を務めたり、俳優活動や作曲などマルチな才能を発揮する、世界的有名モデル。その彼が出演した映画の紹介であり、近日来日するという情報だ。ヴォルフは出身国不明であり、年齢や血液型など、全てが秘密にされている。元々の外見がミステリアスで美しい顔立ちをしているので、世界中に女性ファンが多い。リアはヴォルフの特集を見終わると、机の上に花柄の額縁に収められた写真を飾った。それは今しがたテレビに映っていたヴォルフと、一緒に撮った写真だ。
「エーレンフリート、頑張るから応援しててね」
 謎に包まれている筈のヴォルフの本名を呟き、リアは懐かしく思った。彼とは幼い頃から親交があり、今でも電話でよく話す仲だ。彼が仕事で忙しい毎日を送るようになってからは会えていないが、友人関係にある。リアは木目調の壁掛け時計を見上げると、夕方の四時だと気付いてハッとした。今夜食べるものがないことを思い出したからだ。しかも明日からは、転入する学校へ登校しなければならない。
「近所のパン屋さんと、スーパーに行かないと」
 リアは室内にある姿見の前に立つと、容姿をチェックした。マロン色のロングヘアに、ヘーゼルの瞳。肌は白く、陶器のように滑らか。まるで外国人のような色合いだが、間違いなく日本人だ。母も似たような容姿をしていたので、おそらく遺伝だろうとリアは考えている。リアは薄手の水色のカーディガンを羽織ると、同じ色合いをしたショルダーバッグを持って家を出た。なだらかな坂道を下ると、小さな公園が見えてくる。幼い頃、よく遊んだ場所だ。
「ミシェルとラウル君、元気かな……? まだこの村にいるのかな?」
 ミシェルは幼馴染の少年であり、ラウルはリアが群狼村から引っ越す半年前に知り合った少年だ。ミシェルとは引っ越しをした後も六年間手紙のやり取りをしていたが、三年前、突如連絡がとれなくなった。理由はわからない。だが、リアの誕生日とリアの両親の命日には花が届くので、おそらく嫌われてはいないと考えている。
 ラウルとも手紙のやりとりがしたかったので、引っ越す前に彼の住所を聞いたのだが、教えてもらえなかったのだ。
 ブランコと鉄棒があるだけの小さな公園を真っ直ぐに通り過ぎると、パン屋がある道へ出た。ぱん田という名前のパン屋であり、石窯で焼いた天然酵母のパンが売りだ。
「懐かしいな。ここのパン、おいしいんだよね」
 両親とよく買いに来たのを思い出しつつ、ぼんやりと歩く。すると、前方にいた人物に正面からぶつかってしまった。背後へよろけるが、腕を掴まれて転ぶのを免れる。
「ご、ごめんなさい、ぼーっとしてて……」
 すぐに顔を上げて、相手へ謝罪をした。
「いえ、大丈夫ですよ」
 そう言ったのは、金色の髪にくっきりとした二重と青い瞳を持つ少年だった。まるで童話の世界から出てきたかのように、整った顔立ち。白の半袖のシャツに黄土色のネクタイ、そしてグレーのスラックス姿。すらりとした体型であり、腰の位置が高い。そのスタイルから、外人だとはっきりとわかる。
「……ミーシャ?」
 ぶつかった相手は、記憶に残っている思い出の少年とそっくりだった。
「え?」
 九年前に別れたきり、ずっと会えていなかった幼馴染、ミシェルだと思った。愛称はミーシャであり、リアはよくそう呼んでいたのだ。
「ミーシャ!」
 リアは目を潤ませ、彼に抱きついた。
「えと……」
「ずっと心配してたんだよ……。急に連絡をくれなくなったから」
 急に抱きついては彼も驚くとわかっていたが、そうせずにはいられなかった。
「……、あの、君は……」
 リアは抱きついたまま顔を上げた。彼はかなり困惑した様子であり、表情が強張っている。
「私のこと、覚えてない? 葉上リアだよ。昔、よく一緒に遊んだの、覚えてない? 手紙のやりとりだって、してたじゃない!」
 そう言うと、少年は困ったように微笑んだ。そして、非常に申し訳なさそうにする。
「すみません、人違いだと思いますよ?」
「え?」
「僕は世森ノエと言います。この群狼村へは半年前に引っ越してきたばかりで、それまでは西欧のヴェルテート国で暮らしていました。だから、あなたの言う、ミーシャ? という方ではありません」
 そう言われ、リアは慌てて彼から離れた。てっきり幼馴染のミシェルかと思いきや、人違いだったからだ。
「ご、ごめんなさい……! あまりに、幼馴染の友達にそっくりだったから……」
 恥ずかしさのあまり、顔が紅潮するのがわかった。人違いをしてしまった上、抱きついてしまったからだ。だが目の前の少年は朗らかに笑っており、ゆっくりと首を振る。
「気にしないでください。……この村へは、遊びに来たんですか?」
「あ、いえ……、引っ越してきたんです」
 そう告げると、ノエは意外そうにした。
「珍しいですね? よほどの理由がない限り、この村に引っ越してくる人は少ないんですけど……」
 彼がそう言うのも仕方がなかった。群狼村は交通機関が不便な上、田畑ばかりの田舎だからだ。
「……実は、以前住んでいたマンションの大家さんが突然亡くなり、親族の方がマンションを壊して土地を売却するから立ち退いてほしい、って言ってきたんです。しかもタイミングが悪く、私の保護者も暫く海外へ行くことが決まったんです」
「えぇ……? それは、大変でしたね?」
「はい……。色々考えた結果、私の生家が残っているこの群狼村へ戻ってくることに決めたんです」
 利便性が高い駅前のマンションを借りることなども考えたのだが、リアは生まれ故郷へ戻ってくることを選んだのだ。本当ならばとっくに売っても仕方がない家を、カイは必要最低限の維持をし、ずっと残してくれていた。それを知っていたからこそリアは、群狼村へ戻ることを選んだのだ。
「そうだったんですか……。でもこの村からだと、朱根塚の高校まではかなり遠いですよね。朱根塚駅まで、片道車で一時間ほどかかりますし」
 この村の出身者は、高校は朱根塚高校へ通うのが一般的だ。だがリアは首を振った。
「いえ、私立シャンポリオン高等学院へ通うことになっています」
 ノエは大きく目を見開いて、驚いていた。
「え? シャンポリオンに?」
「はい。普通だと転入試験は八月や十二月などの決まった期間に行われるらしいんですけど、シャンポリオン高等学院なら随時転入試験をしているということで、転入試験を受けて合格しました」
「シャンポリオンは特殊な学校なので、転入生を受け入れているとは思いませんでした」
 特殊という言葉に、リアも複雑そうにした。シャンポリオン高等学院は、西欧のヴェルテート国にある本校と姉妹校となっている。本校のほうでは王族や貴族の子供が通う名門校であり、入試の際に家格なども重視されるため、一般人が入るのは難しいとされている。
「日本のシャンポリオン高等学院は、ヴェルテート国人が多いって説明を受けました」
 留学生もいるようだが、この場合日本に在住しているヴェルテート国人を指す。親が日本で働くヴェルテート国人の生徒が、多く通っているそうだ。
「その通りです。入試科目でヴェルテート語があるので、ヴェルテート語ができないと受かりません。ヴェルテート国のほうの学校ほど厳しくはないにしろ、家柄なども審査されるはずです。……よく、合格できましたね?」
 リアもその点は、奇跡だと思っていた。リアの両親も、リアの現在の保護者も、いたって普通の庶民だからだ。
「前の学校の先生たちが、色々協力してくれたおかげだと思います。私一人の力じゃ、転入できたとは思えないので……。そういえば……」
「どうかしましたか?」
 リアは少年の服装を見た。胸元のポケットにエンブレムがあるのだが、それがシャンポリオンのものだと気付く。
「世森さんも、シャンポリオン学院の生徒なんですね?」
「はい、そうです。シャンポリオン学院に通う、一年です。あ、もしもよければ、ノエって呼んでください。こうして出会ったのも何かの縁ですし、お友達になってほしいです」
 そう言われ、リアは喜んだ。
「わぁ、お友達になってもらえるなんて、とても嬉しいです! 明日シャンポリオンへ登校するの、凄く不安だったから……。あ、そうだ。私の名前、言ってなかったですよね?」
「葉上リアさん、ですよね? さっき教えてもらいました」
 抱きついたときに、名前を言ったことを思い出した。
「そ、そうです。リアって、呼んでください。一応、二年生です」
「じゃあ、僕の先輩になるんですね。では、リア先輩って呼ばせてもらいますね」
 なんだかくすぐったい響きだった。
「うん……。じゃあ私は、ノエ君、って呼びますね?」
 ぎこちないながらも名前を口にすると、彼はほんの少し照れくさそうにした。
「はい。あと、リア先輩は僕の先輩なんですから、敬語は使わなくていいですよ」
 にこにこと天使のような優しい眼差しを向けられ、リアは気恥ずかしかった。改めてノエを見るのだが、見惚れずにはいられないほどの美少年だ。
「わ、わかった、ノエ君。……そういえば、ノエ君はここで何を?」
 ノエはパン屋のぱん田を見た。パンダの絵が描かれた大きな看板が掲げられた店であり、大きなガラス窓の向こう側には、おいしそうなパンがたくさん並んでいる。
「明日の朝食用のパンを買いに来たんです。リア先輩は?」
「私も、明日の朝食用のパンと昼食用のパンを買いに来たの。あと、大通りにあるひまわりマーケットで、夕食の材料を買おうと思って……」
 ひまわりマーケットは、群狼村に唯一あるスーパーだ。決して大きな店ではないが、群狼村で貴重な肉や魚などの食材が手に入る。
「では、荷物を持つのを手伝います」
「え! それはさすがに悪いからいいよ!」
 首を振ったが、ノエは微笑んだままだった。
「遠慮しないでください。それに僕は男ですから、結構力持ちなんですよ。だから、荷物を持つのを手伝わせてください」
 なぜか断れる雰囲気ではなかった。リアは悪いとは思いつつ、彼に助けてもらうことにする。
「じゃあ……、お願いしてもいいかな?」
「はい。任せてください」
 ノエと一緒にぱん田でパンを購入した後、大通りまで出た。目的地であるひまわりマーケットへ行くと、必要なものを購入したのだ。
「一人暮らしだからそんなに必要ないと思ってたけれど、結構買っちゃったなぁ……」
 牛乳や洗剤など、重たいものが入った袋を、ノエが持ってくれていた。当初はこんなに買う予定ではなかったのだが――、
「リア先輩、洗剤などは買っておかなくて大丈夫ですか? あ、牛乳は? ティッシュやトイレットペーパーは大丈夫ですか?」
 と色々言われ、つい買ってしまったのだ。リアはパンが入った袋を持っているだけであり、重たい袋はノエに持たせてもらえなかった。
「ノエ君、ありがとうね。手伝ってくれて」
「いえいえ、これぐらいのお手伝いはいつでもするので、遠慮なく言ってください。一人暮らしだなんて、大変でしょうから」
 リアの家へ向かう道中、群狼村にできた幾つかの新しい店の話を聞いた。リアが引っ越しをした後にできた店らしい。
「へー、おしゃれなティーサロンやイタリアンのお店ができてるんだ?」
「はい。約十年前にシャンポリオン高等学院が新設されて、その影響でお店が増えたらしいです。シャンポリオン高等学院へ通う生徒は一部を除いて、ほぼ全員寮暮らしですからね」
 ノエが言った通り、シャンポリオン高等学院は僻地にあるために、寮暮らしをする生徒が殆どなのだ。リアは家からの通学となるが、他の生徒たちはシャンポリオン高等学院の西側にある寮で生活をしている。
「こんな田舎で寮生活だなんて、大変だろうな……」
「そうでもないようですよ? 学院の敷地内にはカフェや図書館、コンビニやレストランなどのお店がありますし、休日は映画館やジム等で過ごす生徒が多いみたいです。もちろん、それらの施設はシャンポリオン高等学院へ通う生徒なら、誰でも利用できます」
「す、凄いんだね、映画館やレストランがあるなんて……」
 さすがは御曹司などが通う学校なだけあって、規模が凄かった。リアは隣を歩くノエをちらりと見る。
「ノエ君も、寮で暮らしているの?」
「いえ、僕は家が群狼村にあるので、家から学校へ通っています」
「え? 家があるの?」
 ノエは頷いた。
「はい。家、というのは正しくないんですが、僕が今いる家は、世森病院という病院をやっているんです。十九年ぐらい前に親族が開業した病院なんですが、今はそこに住ませてもらっています。そことは別で、この群狼村で暮らしているいとこの家にも部屋を借りているので、そちらで寝泊まりすることも多いです」
 群狼村に病院なんてあっただろうか、と記憶を手繰り寄せ、リアはゆっくりと思い出した。
「そういえば昔、外国人のお医者さんが病院をやってるって、聞いたような……」
「そうです。僕の親戚のおじさんがやっているんです」
 話をしながら歩いている内に、自宅へ到着した。ノエは玄関まで荷物を運んでくれる。
「ありがとう、ノエ君。とても助かったよ。もしもよければ、上がってお茶を飲んで行って? 疲れたでしょう?」
 誘ったのだが、ノエは残念そうにした。
「すみません。そうしたいのですが、これからいとこの家へ行かなければならないので、もう帰らないといけないんです」
「ごめんなさい! 用事があるのに、私に付きあわせちゃって……」
 リアの家は群狼村の北端にあり、そんなに大きな村ではないとはいえ、彼がこれから移動するには時間がかかるのが想像できた。
「いえ、ちょっと学校のことで相談があるだけなので、大した用件ではないんです。だから安心してください。もしもよければ、今度また改めて遊びに来てもいいですか?」
 リアは笑顔で返答した。
「勿論だよ。いつでも遊びに来て」
 そう告げれば、ノエはリアの頬を軽く突いた。なぜそんなことをされたのかわからず、リアは不思議そうにする。
「リア先輩。僕、一応男ですよ。軽々しく、いつでも遊びに来て、なんて言っちゃダメです。そういう言葉は、僕以外には簡単に口にしちゃいけませんからね? リア先輩みたいな美人な女性が一人暮らしだと知ったら、普通の男性は襲っちゃうんですから」
 そんな心配はないと思ったが、確かに不用心だったと反省した。
「う、うん……」
「僕が帰ったら、きちんと戸締りをしてくださいね。それじゃあ、行きますね」
「気をつけて帰ってね」
「はい。では、明日また学院で会いましょう」
 ノエは手を振ると、リアの家を後にした。リアも彼が見えなくなるまで見送り、その後彼が告げたようにしっかりと戸締りをする。
(ノエ君と明日、会えたらいいな)
 幼馴染のミシェルと会えなかったのは残念だが、新しい友達ができたことは素直に嬉しかった。リアは購入したものを片付けた後、台所に立って夕飯の支度を始める。今日は疲れていることもあり、おろしうどんで簡単に済ませることにしたのだ。大根をおろし金で摩り下ろすのだが、その際に指を切ってしまった。
「あ、痛っ……。やっちゃった……」
 指先を伝って血が流れ落ちた。すぐに水道水で指を洗い、その後タオルで指を確認する。だが、先ほど怪我をした傷口がなくなっていた。その様子を、リアは苦い気持ちで眺める。
「この奇妙な体質のこと、ばれないようにしないと……」
 昔から、怪我をしてもすぐに治ってしまうのだ。普通の人ならば治るのに数週間かかるような捻挫や骨折も、数時間とかからぬ内に癒える。リアはおろしうどんを作り終えると、居間のテーブルへ運んだ。それを食べ終えると、保護者のカイが用意してくれる薬を飲む。幼い頃は、薬のおかげでこの奇妙な体質を抑えることができた。だが成長するにつれて、薬では抑えられなくなってきているのだ。リアは大きな溜息をつくと、食器を台所へ運んだ。だがそのとき、テーブルの上に置きっぱなしにしていた携帯電話の着信音が鳴る。てっきり、保護者のカイから電話だろうか、と考えた。だがカイとは夕方の三時頃に一度話をしている。リアは慌ててテーブルまで戻ると、携帯電話の画面を見る。するとそこに、思いもよらない人物の名前が表示されていた。リアはすぐに電話に出る。
「はい」
「リア? 久しぶり。明日から新しい学校へ通うってカイから聞いていたから、連絡をしたんだ」
「エレフ、びっくりした。電話をくれるなんて、ありがとう」
 エーレンフリートからの連絡に、驚いた。ヴォルフという名で活動をしている彼が忙しいことを、よく知っているからだ。リアは彼のことをいつもエレフという愛称で呼んでおり、彼の長い名前を省略している。
「君はちょっと抜けてるところがあるから、心配だよ。一人暮らしをするなんて、あれほどダメだって反対したのに。……くれぐれも、例の体質のことが知られないようにね」
 エーレンフリートは、リアの体質のことを知っている数少ない人物だ。
「うん、気をつける」
「あと、男を気安く家に上げたりしないようにね? 一人暮らしの女の子っていう自覚を、きちんと持たないといけないよ」
 まるで先ほどの様子を見られていたかのように言われ、リアはどきりとした。
「だ、大丈夫だよ……」
「本当かな? あぁ、そうだ。この前海外で撮影をしたときに、君へお土産を買ったんだ。荷物を送ったから、届いたら受け取ってほしい」
「もう、気を遣わなくていいのに……。でも、いつもありがとう。楽しみにしてるね」
 エーレンフリートは、海外の珍しいお土産などをよく送ってくれた。プレゼントで服や装飾品などを送ってくることもあるが、着る機会があまりないまま、タンスに入っている。おそらく高価なブランドだとは思うのだが、明らかにリアとは身の丈があっていないので着れないのだ。
「それはそうと、夏に長期の休みをとることにしたんだ。だから、一緒にどこか旅行にでも行こう。本当は海外の避暑地へ行きたいけれど、君はパスポートを持っていないだろうから、日本でいいところを私のほうで探しておくよ。今度映画の宣伝で一度日本に立ち寄るから、そのときに相談をしよう」
 予想外の提案に、リアは感激した。
「エレフと会えるの? 本当に? 数年ぶりだよね?」
「そうだね。リアとずっと会えていなかったから、早く会いたいよ」
 エーレンフリートと会えるばかりでなく、一緒に過ごせるという話に、とても感激した。
「約束だからね。一緒に遊ぼうね」
「楽しみにしていて。リアに喜んでもらえるように、とびきりの場所を探しておくから」
 夏に彼と会う予定が決まり、早くその日が訪れないかと、リアは楽しみにした。


 翌朝、リアは朝食をとってから、制服へ着替えた。まだシャンポリオン高等学院の制服が届いていないため、以前通っていた私立の制服を着用する。事前にシャンポリオン高等学院に許可をとっているため、前の学校の制服でも問題はない。クリーム色の生地に青緑色の襟がついた半袖のセーラー服であり、スカートも青緑色だ。胸元はスカーフではなく、赤いリボンであるところが気に入っていた。
「そろそろ家を出ないと。登校したら職員室へ行くように言われてるしね」
 リアは家を出ると、シャンポリオン学院へ向かって歩き出した。学院はリアの家とは反対側に位置する南側にあり、丘の上にある。なぜ群狼村のような辺鄙な場所へ学校を建設したのかは謎だが、現在約二百五十人ほどの生徒が在校しているらしい。リアが以前通っていた私立の学校は七百人ほどの生徒数だったので、それを思えばかなり少ない。二十分ほど歩き続けると、坂道に差し掛かった。そこを上がると、立派な黒い鉄扉が見える。門前には守衛がおり、関係者以外は通れないように監視がされている。リアは門の近くにある受付で手続きをすると、一時的に入校できる許可証を作ってもらった。生徒手帳を貰えば、いちいち入校許可証の手続きをする必要はないらしい。リアは門を開けてもらい、敷地内へ入った。すると、珊瑚色の煉瓦が特徴的な洋風の建物に、圧倒される。モダンな造りであり、黒い屋根はドーム型になっている。少し遠くにはゴシック建築風の建物があり、そちらはおそらく聖堂だろうと察した。綺麗に整えられた庭園のすぐ近くには温室があり、その奥には池や遊歩道があるようだった。
「広いとは聞いていたけれど、本当に広い……」
 白い石畳を歩いていると、円形の立派な噴水へ差し掛かった。女神と天使の彫刻が中央にあり、時間があればじっくり見たいほどに精緻だ。そうしてやっと学院の正面玄関へ到着すると、リアは事前に購入した上履きへ履き替えた。
(外観も立派だけれど、内装も凄い……)
 高い天井の玄関は、まるで大聖堂のように厳かだった。学院の窓は殆どアーチ型になっており、四角い窓は光を取り入れるための小窓ぐらいだ。大理石の床は青と白の市松模様になっており、壁は真っ白。
「うまくやっていけるといいなぁ……」
 リアは緊張しつつ、職員室へノックしてから入った。


 職員室にて校内の簡単な説明を受けた後、リアは自分のクラスへと担任と一緒に向かった。
「葉上リアです。私立ベルナーゼ学院から来ました。よろしくお願いします」
 約三十人ほどの生徒たちの前で、リアは自己紹介をした。日本人らしき生徒と、ヴェルテート人らしき生徒の半々がいるクラスだ。ヴェルテート人は綺麗な金髪が特徴なので、金髪の生徒はヴェルテート人ではないかと勝手に予想した。自己紹介の後は空いている一番後ろの席へ座るように言われ、リアはそちらへ向かう。
(なんだか、視線が痛い……)
 興味を抱かれているのがわかった。だがそれとは別で、どういうわけか侮蔑を露わにしている生徒もいる。どうしてそんな視線を向けられるのかわからず、リアは考えた。
(もしかすると、一般人の私が転入してきたことに腹を立ててるのかな?)
 立派な家柄の子息や子女が通う学校でもあるため、選民意識が強いのだろうかと推測する。そうして悩んでいる間に、一時限目の授業が始まることになった。リアはまだシャンポリオンの教科書がないため、隣の生徒に見せてもらえないかお願いをする。
「あ、あの、もしもよければ教科書を見せていただけませんか?」
 黒髪の女子生徒に声をかけたが、無視された。反対側にいる金髪の男子生徒にも同じようにきいてみるが、やはり無視される。仕方がないため、リアは教科書なしで授業を受けることになった。
(私、この学校で本当にうまくやっていけるのかな……)
 初日から不安しかなかった。


 昼休みの時間になった。教室の後ろにある掲示板に張り出されている時間割表を見れば、次の授業は選択授業Ⅰになっている。
(確か転入前に幾つか選択できる授業の中から、二つを選んだっけ? 選択授業Ⅰということは、美術かな)
 人気が集中していた授業に関しては、抽選だったらしい。一年生や三年生は音楽が人気だったらしく、二年生は軽スポーツが人気だったそうだ。リアは料理と美術を選択した。
(なんだか居づらいから、次の授業が行われる美術室を、先生に聞きに行こうかな?)
 シャンポリオン高等学院では、生徒の殆どが寮生活をしている。そのため、昼食は食堂やカフェテラスを利用するのが一般的らしい。以前の学校ではお弁当を持参した生徒が教室内で友達と食べる光景が普通だったが、シャンポリオン高等学院では教室内に残っている生徒はいない。
(昼食にパンを持ってきたけど、食欲がない……)
 リアは教室を出た。二年生のクラスは全部で三つあり、その内一つは特別クラスとなっている。詳しくは知らないが、特別クラスは内部進学組だったり、特別な家柄の出身の生徒が集められているらしい。一般クラスは二つだが、Aクラスには交換留学生や内部進学をする生徒が集められており、Bクラスには外部の大学へ進学、又は就職をする生徒が集められているそうだ。リアはBクラスであり、卒業後は別の大学へ行こうと考えている。
(やっぱり注目されるなぁ……)
 シャンポリオン学院の制服ではないため、人目を引いた。できるだけ気にしないように歩き、職員室で美術教師から授業が行われる教室の場所を聞く。
「美術室へ行くなら、このレポートを返却しておいてくれないか。座席表を見れば、どこに誰が座るかわかるから」
 美術教師にそう言われ、美術のレポートを受け取った。リアは職員室を出ると、美術室がある一階の教室へ向かう。そうしてなんとか目的地へ到着すると、リアは教室へ入って一瞬驚いた。というのも、一番後ろの席で机に突っ伏して眠っている男子生徒が一人いたからだ。がっしりとした体格であり、黒髪だ。
(そういえば選択授業って、特別クラスや隣のAクラスと合同だっけ。じゃあ、あの男子生徒は特別クラスかAクラスの人かな?)
 リアは美術教師から預かった座席表を確認しつつ、レポートを返却することにした。その間考えるのは、教室内で気の合う友達が欲しいということ。もしもこれから通う約二年間、誰も友達ができなかったことを考えると、ぞっとする。
「……あれ?」
 最後に返却するレポートの生徒名を見て、リアは驚いた。
 大狼(おおがみ)ラウル。
 変わった名前なので、よく覚えている。眠っている男子生徒の座席まで歩くと、声をかける。
「ラウル君……?」
 男子生徒はゆっくりと顔を上げた。目鼻がくっきりしており、精悍な顔つきをしている。誰もが認める美男子だが、鋭い眼光から荒々しさも感じる。
「は? 誰だよ、お前」
「あ、突然ごめんなさい。これ、返却されたレポート……」
「あぁ……」
 男子生徒はレポートを受け取った。彼が大狼ラウルで間違いないらしい。
「ラウル君。私のこと、覚えてる?」
 そう声をかければ、彼は怪訝そうにした。
「てめぇのことなんて、知らねえよ」
「ち、小さい頃、一緒に遊んだことがあるの、覚えてないかな? 半年ほどしか遊んでないから、覚えてないかもしれないけれど……」
「知らねぇって言ってるだろ」
 リアは残念そうにした。
「十年近く前のことだものね。……覚えてないよね」
 ラウルは席を立ち上がった。座っているときはわからなかったが、かなり背が高く、制服の上からでもはっきりと筋肉質な体をしているのがわかる。
「知らねぇって、言ってるだろうが。俺に気安く話しかけるな」
 そう告げて、彼は美術室を出て行った。リアは愕然とし、とても悲しくなる。
(昼休みが終わるまでまだ時間があるし、校舎の隣にあった聖堂を見に行ってみようかな……)
 聖堂は誰でも立ち入りが自由らしいが、特別な行事でもない限り祈りに訪れる生徒は少ないそうだ。そこならば心を落ち着けられるかもしれないと、移動する。
(十年近く会っていない子のことなんて、覚えてるわけがないよね)
 自らは覚えていたとしても、相手も同様とは限らない。しかも彼とは、別れた後に一度も手紙の交換をしていなかったのだ。
 聖堂へ到着すると、リアは大きな木の扉を開いた。中はひんやりしており、とても広い。二階まで吹き抜けになった天井からは、蝋燭のシャンデリアがある。だがよく見れば本物の蝋燭ではなく、蝋燭に見立てた電気のシャンデリアだ。ステンドグラスも教会でよく見かけるような聖書を描いたものではなく、ただの幾何学模様だった。木製の長椅子がずらりと並んでおり、非常に厳かな空気が流れている。リアは正面の席へ腰かけると、ただぼんやりした。外の華やかな外観とは異なり、中はかなりシンプルな造りだ。
(……あれ?)
 泣くつもりはなかったのだが、瞳から涙が零れ落ちた。知り合いにようやく会えたと思ったが、相手は覚えていなかったことにショックを受けていたらしい。
「リア先輩? どうしたんですか?」
 突然声をかけられ、びくりと肩を揺らした。聖堂へ誰かが入ってきた気配を、感じなかったからだ。
「……、ノエ君?」
 ノエだった。彼は屈むと、ふんわりとしたガーゼのハンカチでリアの涙を拭う。
「誰かに、何か言われましたか?」
 リアは微笑んだ。
「あくびをしただけだよ。心配をかけて、ごめんね」
「それならいいんですけど……。あ、そうだ。リア先輩と一緒にお昼を食べようと思って、早起きしてお弁当を作ってきたんです。リア先輩、一緒に食べましょう」
 ノエはリアの隣へ座ると、自らの膝上に若竹色の風呂敷で包まれたものを置いた。風呂敷を解けば、白木の重箱が出てくる。蓋を開ければ、おいしそうな煮物や卵焼き、鶏の照り焼きやアーモンドの衣をつけて揚げたイカ団子などが彩りよく入っていた。下の段には天むすと赤飯のおにぎりが交互に詰められている。
「おいしそう! ノエ君が作ったの?」
「はい。これどうぞ。お手拭とお箸です。いっぱい、食べてくださいね」
 リアは渡されたウェットティッシュで手を拭いた。
「本当に食べてもいいの?」
「はい。リア先輩に食べてほしくて、作ってきたので」
 リアは嬉しさのあまり、胸が熱くなった。
「あ、ありがとう。ノエ君。じゃあ、いただきます」
 リアはお弁当を食べ始めた。最初に口にしたのは、煮物。一口食べた瞬間、繊細な味付けに驚く。
「お味はどうですか?」
「凄くおいしい! 私も家で料理をするけど、ノエ君みたいな上品な味付けにはならないよ。ノエ君って、お料理がとても上手なんだね」
 お世辞ではなく、心からの賛辞を述べた。正直、素人が作れる料理のレベルでないことだけは、一口食べただけで理解した。
「良かった。もしもリア先輩のお口に合わなかったらどうしようと、凄く緊張していたんです」
「大好きな味付けだよ。こんなご馳走を食べられるなんて、幸せすぎるよ!」
 ノエも食事を始めた。その様子を見て、一つの重箱を一緒に食べるのはやや気恥ずかしくなる。しかも彼は食べる所作がとても綺麗であり、思わず見入る。
「リア先輩、お茶も持ってきたので、飲んでください。黒豆茶なんですけど、大丈夫ですか?」
「うん、好きだよ」
 水筒から温かいお茶を入れてもらった。リアはお茶を一口飲み、ほっとする。
「そういえば、どうしてリア先輩はここに? てっきり食堂かカフェのほうにいると思ったのに、ここへ入っていく後ろ姿を見たときは驚きました」
「昼食をとろうと思ったんだけれど、友達ができなくて……。一人で食堂へ行く勇気がなかったから、ここにいたの」
 ノエは微笑んだ。
「不謹慎なんですけど、リア先輩が一人でよかった。もしもリア先輩にお友達がいたら、邪魔をしないでおこうと思っていたんです」
「そうなの?」
「はい。明日、いえ、これからも毎日お弁当を作ってくるので、一緒に食べましょう」
 リアはぎょっとした。
「わ、悪いよ。ノエ君の手料理おいしいから魅力的だけれど、さすがに毎日は」
「気にしないでください。僕料理をするのが趣味なんですけど、いつも食べてくれる人がいないので、寂しいんです。家族は遠く離れたところに暮らしていますし。だから、リア先輩が食べてくれるなら味の感想がきけるし、僕としても助かるんです」
「でも、凄く申し訳ないよ……」
 ノエは困ったように眉を寄せた。
「本当に気にしないでください。僕が一方的にお願いをしているだけなので」
「じゃあ、せめて材料費の負担をさせてもらえないかな?」
 ノエはやや悩み、やがて頷いた。
「わかりました。では、リア先輩がお弁当を食べるときだけでいいので、百円ください」
「え? 百円じゃ、全然釣り合っていないんじゃ」
 ノエは頬を膨らませた。
「これ以上は譲歩しません。それでも嫌だって言うなら、百円も受け取りませんよ」
 悩んだ末、了承した。
「わ、わかった……」
 リアとしても、彼の作るお弁当があまりにおいしすぎたため、断れなかった。
(学校の敷地内にカフェとかあるらしいし、今度ノエ君にお茶でも奢ろう)
 絶品すぎるお弁当を味わいながら、ノエをちらりと見た。どの角度から見ても、とても綺麗な少年だ。さらりと揺れる金髪も、長い睫も、宝石のような瞳も、全てが絵になる。
「どうかしましたか? リア先輩」
「ん? あ、その、ノエ君って凄い美少年だな、って思って……」
 正直に言えば、ノエは優しい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。リア先輩に褒めてもらえて、嬉しいです。そういえば、ずっと気になっていたんですが、リア先輩も外国の方、もしくはハーフですか?」
 リアは首を振った。
「ううん。私は日本人だよ。両親もそうだし、祖父母も」
「へぇ? 日本人には見えない外見ですよね?」
「うん、よく言われる」
「リア先輩は美人で可愛いから、とても男性からもてるんじゃないですか?」
 おにぎりを頬張っていたリアは、喉を詰まらせそうになった。だがすぐに黒豆茶を飲んで、難を逃れる。
「美人じゃないし、もてないよ……」
「えぇ? 本当ですか? 学校の靴置場にラブレターが入っていたことや、告白されたことは?」
「漫画じゃあるまいし、そんなの一度もないよ。前の学校は女子高だったから、男の子の友達なんて一人もいなかったし」
「そうだったんですか……。昨日僕に抱き着いてきたので、男の友達が多いのかと思いました。日本人の女の子ってシャイが多いのに、大胆だなーって」
 リアは恥ずかしさのあまり、目を伏せた。
「ミーシャ……、じゃなくて、ミシェルっていう、幼馴染はいるよ。今は連絡がとれなくて、どうしてるのかわからないけれど」
 ラウルのことは伏せた。彼と幼馴染だと思っていたのは自分だけで、彼には忘れられていたからだ。勝手に幼馴染だと言っては、彼も迷惑だろうとの判断だった。
「会えるといいですね。その人と」
「うん……」
 お弁当を食べ終えたとき、予鈴が鳴った。ノエはお弁当を片付ける。
「リア先輩。明日の昼休み、教室まで迎えに行きますね」
「うん」
 二人で聖堂を出た後、ノエと一緒に校舎へ戻った。


 群狼村の大通りには、幾つか飲食店がある。その内の一つに、古くから続く中華料理屋がある。店そのものは小さいものの、地元住民に愛されている。
 中華天龍へリアが訪れたのは、夕方の六時過ぎのことだった。店内は地元住民のたまり場になっており、テーブル席は常連客で賑わっている。
「お腹すいたー……。ラーメンとチャーハンのセットにするか、麻婆豆腐とライスのセットにするか、それともあんかけ焼きそばにするか、迷うなぁ……」
 店の奥にある四人用の席に、一人で座っていた。メニューを見ながら悩んでいると、店内へ新たに客が入ってくる。てっきり地元の常連客かと思いきや、店へ入ってきたのは大狼ラウルだった。彼は慣れた様子でリアのすぐ近くのカウンター席へ座ると、いつものやつ、と店主へ注文をする。
(ラウル君、この店の常連なんだ……)
 意外に思いつつ、彼に声をかけることはしなかった。昼間の一件を思えば、他人のふりをしたほうがいいだろうと考えたからだ。そうして色々悩んだ末、八宝菜と小ライスのセットにした。具だくさんの八宝菜はとても美味であり、まだ両親が健在だった頃にも食べたことを思い出す。
(懐かしいな……。あの頃と同じ味だ)
 群狼村へ戻ってきたら、食べに来ようと思っていたのだ。両親と過ごした数少ない思い出に浸りながら、リアはゆっくりと食事をする。カウンター席にいるラウルは、餃子三人前とから揚げ、そしてラーメンと大盛りのチャーハンを食べているようだった。
(あれだけ体が大きいと、食べる量も違うんだなぁ……)
 気持ちのいいほどの食べっぷりだった。リアは自分の食事へ視線を戻すと、明日のことを考えて憂鬱になる。というのも、昼食の時間以降、結局誰とも友達になれなかったからだ。話しかけるタイミングがなかったこともあるが、仲良くなるきっかけすらつかめない。
(そういえば、明日は水泳の授業があるんだっけ? 水着を持っていかないと)
 気持ちを切り替えて明日も頑張ろうと決めたところで、食事を終えたラウルが席を立ってレジへ向かった。彼がこちらを一度も見なかったことを寂しく思ったが、仕方がないと諦める。なぜなら、彼はリアを覚えていないからだ。
(ラウル君からすれば、見知らぬ他人が馴れ馴れしく友達面してきた、ってことだもんね)
 ラウルが店を後にした五分後、リアも漸く食べ終えた。席を立ち上がると、レジで会計を済ませようとする。だが店主から驚くべき言葉を発せられる。
「あぁ、会計ならもう済んでるから、支払いはいいよ」
 どういうことだろう、と首を傾げた。
「え? いえ、私まだ支払いをしていませんけど……」
「さっき、カウンターに座っていた常連の兄ちゃんが、あんたの分も支払っていったよ」
「え!」
 驚きのあまり、硬直した。なぜ彼がそんなことをしたのか、わからないからだ。
「友達なら同じ席に座れば良かったのに。とにかく、支払いは大丈夫だよ」
 リアはひとまず店を出た。そのまま家に向かって歩き出すが、頭の中は混乱したままだ。
(カウンターにいたのって、ラウル君だよね?)
 記憶が正しければ、テーブルは満席だったが、カウンターの席にいたのはラウルだけだった。


 シャンポリオン高等学院へ転入して、二日目。
 新しい教科書が届いた。そのことにほっとするも、リアは未だに昨日のことが気になっていた。
(ラウル君に話を聞かないと……。でもラウル君の教室ってどっちなんだろう?)
 Aクラスか特別クラスのどちらかだ。悶々としていると、あっという間に水泳の授業の時間になった。水泳の授業は、いつも三クラス合同で行われているらしい。本館の校舎から少し長い渡り廊下を歩くと、体育館、武道館、そしてプールがある第二体育館への分かれ道がある。第二体育館の一階は更衣室とシャワールームであり、プールがあるのは二階らしい。リアは更衣室で水着に着替えると、他の女子生徒たちが大判のタオルで上半身を覆うのを見た。どうやら大判のタオルを持って行くようだ。リアもタオルで上半身を覆うと、階段を用いて二階まで上がった。
(水着って、やっぱり恥ずかしい……。胸が大きいから、目立つし……)
 制服と異なり、水着はすぐに用意できたため、シャンポリオン高等学院指定のものを着用している。紺色のワンピースタイプの水着だ。水泳部などが着用しているフィットネス水着もあったのだが、そちらは値段が高かったのでやめた。
「うわぁ……、プールが二つもある」
 奥のプールは男子生徒が使い、手前は女子生徒が使うようだった。タオルを置いておく棚があり、各自出席番号順に並べて置いておくようだ。リアはタオルをはずして畳むと、棚に置いた。そこで、女子生徒たちが何やら騒いでいることに気付く。
「見て、大狼様。今日もかっこいい」
「本当だよねー。レベル高すぎだよねー」
 彼女たちの視線の先に、大狼ラウルがいた。
(あ、ラウル君だ……)
 どうやら、男子更衣室へ続く階段から上がってきたばかりらしい。まるで神話の神のように、均整のとれた美しい肉体だ。それに加えて、顔立ちもいい。リアは彼に昨日のことを聞きたかったが、人目が多いのでやめた。休み時間か放課後など、タイミングを見計らって声をかけようと思ったのだ。
(ん……? ラウル君、特別クラスの棚にタオルを置いてる。ということは、特別クラスなんだ……?)
 それがわかっただけでも、収穫だった。


 水泳の授業の後、シャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かした。水泳の授業は二時間あるが、授業が終わる三十分前に終わるのだ。
「前の学校では水泳の授業がなかったから、新鮮だったな……」
 教室へ戻ると同時に、昼休みの時間になった。生徒たちは教室を出て、食堂やカフェに向かう。
(ノエ君が迎えに来てくれるから、廊下に出て待っていたほうがいいかな……?)
 そんなことを考えていると、教室の外が俄かに騒がしくなった。一体どうしたのだろう、と周囲の声に耳を澄ます。
「世森様よ!」
「嘘、どうして二年のクラスに? もしかして、大狼様に何か用事かしら」
 世森という聞き覚えのある名前に、リアは首を傾げた。
「リア先輩」
 教室の戸口に、ノエが現れた。手にはお弁当や水筒が入っているらしき、手提げ袋がある。リアはすぐにノエのところまで向かう。
「はい」
 ノエはリアの右手をとると、きゅっと握る。
「さ、行きましょう、リア先輩」
「え? あ、うん……」
 ノエに手を優しく引かれ、歩き出した。その様子に、周囲が注目をする。
「え? え? 世森様の隣にいる子、誰?」
「世森様が、大狼様や神狼(かみおい)様以外の人と一緒にいるなんて、あの人何者なの?」
 なぜこんなにも見られるのか、わからなかった。リアはとても戸惑いつつも、知っている名前が出たことに気づく。
「ノエ君、あの、手を繋がなくても、ついていくから大丈夫だよ?」
 恥ずかしいので、そう言った。だがノエは、まるで注目されていることに気づいていないかのように、楽しそうな表情をしている。
「僕が手を繋ぎたいんです。……もしかして、僕と手を繋ぐのは嫌ですか?」
「そ、そんなことはないよ? ただちょっと、照れるというか……」
「じゃあ慣れてください。これからもリア先輩と、たくさん手を繋ぎたいので」
 なぜだか、子犬に懐かれたような錯覚を抱いた。
(慣れてください、って……。ノエ君、外国人だし、日本人と感覚が違うのかも……)
 そうしてノエに連れてこられたのは、一階にある角部屋。彼はリアと手を放すと、スラックスのポケットから鍵を取り出す。そしてその鍵で扉を開ける。
「ここ、防音室になっているんです。使用許可をもらったので、ここで一緒に食べましょう」
 室内は学校とは思えない、和風モダンな内装となっていた。白い大きなソファーの前に、象嵌が施されたテーブル。隣室には台所や冷蔵庫があり、床にはラグが敷かれている。しかも空調がきちんときいているので、涼しい。
「この部屋は……?」
「この学校の理事長の孫が、たまに使っている談話室です」
「え? よく許可がとれたね? 本当に使ってもいいの?」
「はい。作るだけ作って、全然使用していない部屋なので」
「そうなんだ……」
「食堂やカフェで一緒に食事をしてもいいんですけど、さっきみたいに人目を気にしながらだと、僕も落ち着かないので」
 白いソファーは、寝転んで昼寝ができるほどに大きかった。ノエは保冷バッグから昨日と同じ白木の重箱を取り出すと、テーブルの上に並べる。
「わぁ、今日は手毬寿司なんだね。とってもおいしそう」
 お刺身やお漬物を用いたお寿司や、卵の巾着に入ったお寿司がとても可愛らしかった。リアは食べる前に、ノエへ百円を渡す。
「たくさん召し上がってくださいね」
「うん」
 卵の巾着に入ったお寿司から食べ始めたのだが、中にはほぐした蟹の身がたくさん入っていた。ノエは台所でお茶を淹れると、お盆で急須ごと持ってくる。
「どうですか? お味は」
「おいしすぎて、ほっぺたが落ちそうだよ!」
「良かった。……あ、好きな食べ物や嫌いな食べ物があったら教えてください」
「嫌いな食べ物は特にないよ。好きな食べ物は、シチューや洋風のスープかな?」
「わかりました。今度腕によりをかけてシチューを作るので、ぜひ夕食にご招待させてください」
「え! あ、うん。ノエ君が作ったシチューが食べたいから、作ったら食べさせてね」
 はじめは遠慮しようかと思ったが、ノエは料理が上手だ。その彼が作ったシチューならば、最高においしいだろうというのが想像できてしまった。
「リア先輩。困ったことがあったら、なんでも相談をしてくださいね。僕でよければ、話を聞きますから」
「ありがとう、ノエ君。……そうだ。一つ質問をしてもいい?」
「はい」
「さっきここへ来る途中、ノエ君が普段、大狼君とかみおい? さん以外の人と一緒にいるなんて、って言ってる人がいたんだけれど……」
 ノエはあぁ、と頷いた。
「大狼ラウルさんと、神狼シリルさんのことだと思います。ラウルさんはリア先輩と同じ二年生で、神狼シリルさんの家でわけあって一緒に暮らしています。神狼シリルさんは三年生で、このシャンポリオン学院の生徒会長をしています。さっき言っていた理事長の孫というのが、シリルさんのことです」
「そうなんだ?」
「はい。シリルさんが僕とラウルさんといとこ同士なので、色々付き合いがあるんですよ」
「シリルさんが、ということは、ノエ君は大狼君と親戚ではないの?」
「はい。ラウルさんとは親戚ではありません。……もしや、ラウルさんのことをご存じなんですか?」
 リアはなんと言って誤魔化すか、内心慌てた。
「え! あ、うん。さっき水泳の授業があってね、女の子たちが凄いきゃーきゃー言っていたから、あの人誰だろう、って思って」
 ノエは不思議そうにしていた。だがすぐに納得する。
「ラウルさんは試験でいつも学年首席ですし、運動神経もいいので女性から人気があるんですよ。ご実家もお金持ちですしね。シリルさんも人間離れした美貌の持ち主なので、驚くと思います。しかもヴェルテート国の王家と血縁関係にある方なので、周りからはとても敬われていますね」
「へー。凄いんだね。庶民の私には、遠すぎる世界だよ」
 シャンポリオン学院にいることが、益々場違いな気がしてきた。
「僕からも一つ、質問をしていいですか?」
「ん? うん。なんでも聞いて!」
「選択授業って何をとりましたか?」
「料理と美術だよ」
「なるほど。じゃあ、調理実習で何かお菓子を作ったら、僕にください。リア先輩が作ったお菓子、食べたいです」
 リアは頷いた。
「わかったよ。おいしく作れたら、ノエ君に贈るね」
「約束ですよ」
 ノエと穏やかな時間を共有しながら、昼食を終えた。予鈴が鳴ると、一緒に談話室を出たのだ。そして二階まで並んで歩く。
「じゃあ、僕は三階に教室があるので、失礼しますね」
「うん。ノエ君、おいしいお弁当、ありがとう。ごちそうさまでした」
 別れ際、ラウルが一階から階段を上がってくるのが見えた。彼は立ち止まると、怪訝そうにノエとリアを見る。
「あ、ラウルさん。こんにちは」
 ノエがラウルへ声をかけた。リアは反射的に、ノエの後ろへ隠れる。それに気づいたラウルは、なぜだかリアを睨む。
(え? なんでラウル君に睨まれるの? 何か悪いことした?)
 だが視線を感じたのは一瞬で、すぐにラウルはノエと話す。
「珍しく、今日はシリルと一緒じゃないんだな」
「はい。リア先輩と昼食をとっていたので」
「そいつと? 転入生に何の用だ? 目的がなきゃ、お前が誰かのそばにいるなんて、ありえねえだろ」
「失礼ですね。目的とか、人聞きの悪いことを言うのはやめてください。リア先輩とはお友達になったので、仲良くしていただけです」
 その言葉に、ラウルがどこか皮肉めいた微笑を浮かべた。
「友達、か。……へぇ?」
 リアは異様な空気を感じ取って、冷や汗をかいていた。そんな怯えを察したのか、ノエはリアへ振り返る。
「リア先輩は、教室へ行ってください。もう授業が開始されますし」
「う、うん……。じゃあ、行くね?」
「はい」
 リアは軽く手を振ると、ノエの傍から離れた。遅れてラウルも後ろから歩いてくる。特別クラスはBクラスよりも奥にあるので、同じ方向へ進むのは必然だ。
(……う。なんか、凄い睨まれてる視線が、背後からひしひしと伝わってくる。なんで、怒ってるの?)
 今なら昨日のことを聞けるだろうか、と思った。だがタイミングが悪く、授業開始のチャイムが鳴る。やや焦りつつ自分の教室へ入るのだが、その寸前にラウルとすれ違う。
「忠告しておく。ノエに近づくな」
 彼がそう言うのを、はっきりと耳にした。


 放課後になり、リアは帰りに買い物をしていくことにした。
(ラウル君、なんであんなことを言ったのかな。ノエ君に近づくな、って)
 昼休みの出来事が気になっていた。庶民は存在を弁えろ、というような差別とも違うように感じた。リアは鞄を手に、席を立つ。
(今日も友達ができなかったな……。どうしようかな)
 まるで存在しないかのように、無視され続けているのだ。なぜそんな態度を周りがとっているのかは、わからない。リアはシャンポリオン高等学院を後にすると、ひまわりマーケットへ向かった。今日の夕食は味噌汁を作ろう、と考えながら。
「すみません、ちょっといいですか?」
 大通りへ出てすぐ、誰かに声をかけられた。振り向くと、そこに黒髪に丸い眼鏡をかけた長身の男性が立っていた。細身であり、大きなスーツケースを持っている。目は切れ長であり、唇も薄い。ファッションなのか、首からは十字架の木製のネックレスをつけている。年齢は二十代後半に見えた。
「はい?」
「この群狼村の、花扇という旅館に予約をしているんですけど、どこにあるかご存知ないでしょうか?」
 群狼村には、小さな旅館が一つだけある。群狼村には天然温泉が入れる銭湯があり、そこへ入りに来る観光客がいるのだ。だが群狼村からは一日一本のバスしかないため、殆どの客は自家用車で日帰りか、花扇という旅館に宿泊する。
「あぁ、その旅館なら、風目橋を渡ってきて最初の道を右手側に進んだ奥のほうにあります。ここからだと、西側へ一旦戻っていただいて、橋の手前の道を左ですね」
 そう説明をすれば、男性はほっとしたように笑みを浮かべた。
「教えてくださり、ありがとうございます。どこに店があるのかわからず、途方に暮れていたので……」
「どういたしまして。……群狼村へは、温泉に入りに来られたんですか?」
「えぇ。日本中の温泉地をめぐるのが趣味で、あちこちの温泉へ行っているんです」
「へー、素敵な趣味ですね」
「でも最近、ちょっと物騒ですよね。ここへ来る途中、朱根塚に立ち寄ったんですが、野犬だか熊だかに襲われる人が多いんだとか」
「え? そうなんですか? 私も最近この村へ引っ越してきたばかりなので、知りませんでした」
「新聞などではあまり報道されていないらしいんですがね、先月も被害者が出たらしいですよ」
 リアは純粋に怖いと思った。群狼村も山々に囲まれており、昔から鹿や猿、猪や狸などの野生生物をよく見るからだ。
(熊はまだ一度も見たことがないけれど)
 リアが怯えているのが伝わったのか、男性は軽く頭を下げた。
「すみません、怖がらせるつもりはなかったんですけど」
「いえ、大丈夫です」
「では、私はそろそろ行きますね。ありがとうございました」
 男性を見送った後、リアはひまわりマーケットで買い物をした。
(そういえば、明日は選択授業Ⅱの日だっけ? 調理実習、楽しみだな)
 買い物を終えた後、人気のない道を通って家に向かった。リアが暮らしている家までは田んぼと空地、そして小さな林があり、周辺に誰も住んでいないのでやや孤立しているのだ。村の住民が暮らしているのは大通りの近辺か、病院や村役場があるところだ。
(あれ……、なんだか……)
 奇妙な気配と視線を感じた。何かが後ろからついてきているような、そんな気配を感じたのだ。昔から群狼村では、常夜灯と呼ばれる明かりを灯す習慣がある。大通りの出入り口や住宅の多い場所では未だに常夜灯をつける習慣が残っており、夜道を比較的安全に歩くことができるのだ。だがリアが住む家まではその常夜灯がなく、加えて街路灯も少ない。まだ日暮れ前でうっすら明るいものの、完全に暗くなるまであと僅か。
「……っ」
 ふと振り返ってみた。だが人影はない。先ほど見知らぬ男性から不気味な話を聞いたせいで、何かが後をつけてきている気配を感じるのではないか。そう考える。
(こういうとき、一人暮らしって嫌だな)
 早く家に戻ろうと思い、速足になった。公園と街路灯が見えてきたことで、そこまで急ぐ。だが辿り着く前に、やはり何かの気配を感じた。リアはゆっくりと後ろへ顔を向ける。すると遠くに、何か大きな白い獣の姿が見えた。
「……犬?」
 犬にしては、大きすぎた。見た目は白い狼のような風体ではあるが、その大きさは牛か、それ以上あるように見える。
「ひゃ……っ」
 前を見ないで歩いていたこともあり、足を絡ませて転んでしまった。そのとき、がしゃり、という鈍い音もする。もう一度白い獣を見ると、どこにもその姿はなかった。どこかへ隠れたのか、それとも元から存在しなかったのか。リアは立ち上がると、急いで自宅へ戻った。扉の鍵をきちんとかけ、家の中へ上がる。
「怖かった……」
 息を落ち着かせてほっとするとともに、無事に帰宅したことを海外にいる灰瀬カイにメールで報告しようと思った。だが携帯電話をスカートのポケットから取り出したところ、画面が割れており、電源も入らない。おそらく、先ほど転んだときのせいだと考える。
「嘘……、壊れた?」
 唯一の連絡手段が失われたことにリアは落ち込むと、ぐったりと床に座り込んだ。

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