第二話
三日目。リアは調理実習室にいた。今日はオレンジのパウンドケーキを作るらしい。特別クラスやAクラスの生徒と合同なのだが、料理コースは女生徒しかいなかった。
「よろしくね、葉上さん」
特別クラスとAクラスの生徒が混じった班に入った。リア以外の三人はフレンドリーであり、学院に転入して初めて女子とまともな会話をしたことに感動を覚える。リアは彼女たちと仲良く協力しつつ、生地を作ってオーブンへ入れた。焼きあがるまでの間、リアは調理器具を洗う。
(調理実習、楽しいなぁ)
オレンジを切るときに用いた包丁を洗おうとしたとき、後ろから誰かがぶつかってきた。
「あ、ごめんなさい」
同じBクラスの女生徒だ。リアは痛みを感じて自分の掌を見るのだが、包丁でざっくり切っていた。
「あ……っ」
ぼたぼたと血が流れ落ちた。まずい、と内心焦る。
「大丈夫? 葉上さん!」
同じ班の女子達が心配して声をかけてきた。だがリアは頷く。傷が治るところを見られては、非常に厄介だからだ。
「う、うん。平気。ちょっと保健室に行ってくるね。洗い物、途中でごめんなさい」
「そんなこと気にしないでいいよ。早く保健室に行っておいで」
リアは急いで調理実習室を出た。保健室へ行こうと靴置き場前を通るのだが、丁度軽スポーツをしていたらしい生徒たちが、校内へ入ってくるのが見えた。軽スポーツは男子生徒が多いらしく、女子生徒は少ない。その中に、ジャージ姿のラウルもいた。彼とばっちりと目が合う。
「……お前、どうした、その傷」
「え? えっと、ちょっと包丁で……。今から保健室へ行くところなの」
腕につたった血が、肘からぽたりと落ちた。
「保健室はこっちだ」
ラウルはリアの肩を抱くと、歩き出した。返答する間もなく、保健室まで向かう。そうして保健室へ到着して中へ入るのだが、運悪く誰もいなかった。
「先生、いないね」
「そこへ座れ。俺が手当てをしてやる」
「え? あ、いいよ。悪いし……」
「片手じゃ手当てがしにくいだろ」
少し強引に、椅子へ座らされた。向かいの椅子にラウルが座り、傷口の消毒をしてくれる。
「ごめんなさい。傷の手当てをさせてしまって」
「かまわねえよ、これぐらい。……出血量の割に、傷は浅いみたいだな」
ガーゼを当て、その上から包帯を巻いていく。その手際の良さに、リアは感心する。それとともに、妙に胸がどきどきした。
(同い年のはずなのに、ラウル君って大人っぽいな……)
彼をじっと見つめるのも気まずく、目のやり場に困った。そこで、今ならば彼と普通に話ができるのではないか、と考える。
「あ、あの、大狼君」
「ん?」
「一昨日、中華料理店で、ご飯を食べてたよね?」
「あぁ」
見間違いではなかったのだと、ほっとした。
「私の分の食事代、払ってくれたよね? ありがとう」
「知らない。俺じゃない」
即否定をされた。
「え? でも……」
「なんで俺が、お前の分まで食事代を払うんだよ。一緒に食べてたわけでもないし、おかしいだろ」
「そ、それは……、そうなんだけれど……」
包帯が巻き終わった。
「包帯、きつくないか?」
その確認の問いかけは、とても優しい声音だった。
「うん、ありがとう。丁度いいよ」
「じゃあ、俺は行く。ジャージを着替えないといけないからな」
そう行って、彼は保健室を出て行こうとした。その背に向かって、リアは声をかける。
「大狼君、ありがとう。このお礼は改めてするから」
ラウルは立ち止まると、少しだけ振り向いた。
「ラウル」
「え?」
「大狼って呼ばれるのは好きじゃない。ラウルって呼んでくれ」
その願いに、リアは承諾した。
「わかった。ラウル君……」
彼は保健室を出て行った。
調理実習室へ戻ると、リアは焼きあがった自分の分のケーキを一つずつ切り分け、半透明の水玉柄の袋に入れて、水色のリボンをつけた。
(ノエ君、喜んでくれるといいなぁ。……こっちの分は……)
ラウルに渡そうと、一応彼の分も用意したのだ。味見をしたところ、とてもおいしくできたと自分では思っている。
授業が終わった後、リアは調理実習室を後にした。教室へ戻ろうとするのだが、その途中人だかりができているのを目にする。どうやら音楽室を、廊下から覗いているらしい。男子生徒も僅かにいるが、大半は女子生徒だ。
(どうして、音楽室……?)
リアも気になり、音楽室を覗いた。するとそこに、二人の男子生徒がいた。一人はノエだ。黒いグランドピアノの前に座っている。もう一人は、まるで絹糸のようなハニーブロンドに、金の瞳を持つ、美しい男性。もしも童話の中の王子が現実に出てきたとするならば、彼のような姿ではないか、と思わずにはいられない。そんな彼はヴァイオリンを手にしており、視線でノエに合図を送る。すると、ノエがピアノを弾き始めた。それとともに、金色の瞳の男性もヴァイオリンを奏で始めた。
(凄い上手……)
音楽に知識のないリアでも、二人が相当な腕前であることはわかった。自然と引き込まれ、演奏が終わるまで聴く。そうして演奏が終わると、廊下に立っていた生徒たちが惜しみない拍手を送る。勿論、リアも傷に障らない程度に拍手をした。
「あー、神狼様と世森様のお二人の演奏が聴けるなんて……。なんて素敵」
「本当に凄い。華やかで技巧もあり、聴衆を飽きさせないあのセンス」
どうやら、ノエと一緒に演奏をしていたのは、神狼シリルなのだと知った。
(確かこの学院の生徒会長をしていて、理事長の孫なんだっけ?)
すらりとした無駄のない体つきに、不思議な色合いの金の瞳。ハニーブロンドの髪は、光に当たれば艶やかなの光沢ができている。二人は片づけをすると、音楽室から出てくる。ノエは一歩廊下に出て、すぐにリアがいる方を見た。
「あれ、リア先輩。もしかして、演奏を聴いてくれていたんですか?」
「うん。凄かったよ。ノエ君、ピアノが上手なんだね」
ノエは気恥ずかしそうにしつつも、リアの手に巻かれた包帯を目にしてぎょっとした。
「どうしたんです、その怪我」
「あ、ちょっと調理実習中に包丁で怪我をしちゃって……。傷自体は小さいから、大したことないの」
「手当ては、養護教諭にしてもらったんですか?」
「ううん、ラウル君が……」
人前で〝ラウル君〟と呼んでしまったことに、内心慌てた。彼はラウルと呼んでほしいと言ったが、良くなかったのではないか、と。
「え? ラウルさんが?」
奇妙そうにするノエ。
「へぇ、それは本当? だとしたら、とても興味深いな」
遅れて音楽室から出てきたのは、先ほど見事な演奏を披露した神狼シリルだった。バイオリンケースを持っており、ただ立っているだけなのに存在感がある。リアは気圧されつつも、頭を下げた。
「は、初めまして……」
咄嗟に挨拶をしたのだが、シリルは優雅な笑みを浮かべた。
「初めまして。僕は神狼シリルだ。君は、噂の転入生かな?」
「噂……?」
「一般の学校から転入してくる生徒は少ないから、噂になっていたんだよ。えっと、名前は……」
「葉上リアと言います」
「リア……。変わった名前だね? もしかして、ハーフ?」
「いえ、よく間違われますが、日本人です」
間近で見るシリルは、神がかった美しさだ。歩き方や仕草の一つ一つが洗練されている。
「これから昼食だよね。誰かと予定はあるかな?」
「ノエ君と一緒に昼食をする約束をしています」
「そうなんだ? じゃあ僕も混ぜてもらおうかな。一緒にカフェへ行こう。ノエ、構わないよね?」
ノエは頷いた。
「はい、シリルさん。では、後程カフェで会いましょう」
そう言うとともに、ノエはリアが持っていた教科書やエプロンが入った手提げ袋をさりげなく持った。
「え? ノエ君?」
「リア先輩、手を怪我しているので、僕が持ちます」
「あ、大丈夫だよ。自分で持てるから」
包帯をしているものの、もう怪我は癒えている。だがそんなことを知らないノエは、有無を言わさずにリアの右手を握る。
「さ、教室へ行きましょう。リア先輩を送った後は、僕もお弁当を取りに行ってきます」
リアはその場から離れる前に、シリルへ失礼しますと挨拶をした。
教室へ送ってもらった後、ノエはお弁当を取りに自分の教室へ向かった。すぐに迎えに来ますと言われたので、暫く教室で待ったのだ。
「リア先輩、お待たせしました。行きましょう」
先ほどと同様に、ノエに手を引かれて歩いた。カフェは校舎の外にあるらしく、二階建てになっている。屋根は黒く、外観は古民家風。中は黒い椅子と白いテーブルが配置され、どこかクラシカルな内装となっている。シリルは既に四人席へ座っており、待っていた。リアはシリルと斜め向かいの席へ座った。
「リア先輩は、座って待っていてください。僕、飲み物を注文してきます。何を飲みますか?」
差し出されたメニューには、一般的なお茶からハーブティーまで取り揃えており、コーヒーも種類が豊富だった。値段は一般的な喫茶店よりも、やや高い。
「えっと、じゃあエルダーフラワーのハーブティーにしようかな」
「わかりました。シリルさんはコーヒーのブラックでいいですよね?」
シリルは頷いた。
「それと、川魚のハーブソテーのランチセットも」
ノエが注文をしに行き、リアはシリルと二人きりになる。その間何を話せばいいかと、緊張する。と、ここでリアの隣に誰かが座った。ノエが戻ってきたのだろうかと、横を見る。だがそこにいたのはノエではなく、ラウルだった。
「奇遇だな。俺もいいか?」
シリルは意外そうに、だが楽しそうにした。
「構わないよ。ラウルがカフェだなんて、珍しいね。こういうお店は、あまり好きじゃないと思っていたのだけれど」
「別に。俺がどこにいようと、勝手だろ」
ノエが戻ってきた。彼は非常に不満そうにする。
「ラウルさん、そこ、僕が座る予定だった席なんですけど。代わってください」
「早い者勝ちだろ。いなかったお前が悪い」
シリルはリアの正面の席へ座った。シリルにはコーヒーを、リアにはジュースを、そしてノエはアイスティーのようだった。
「リア先輩。今日はサンドイッチを作ってきたんです。どうぞ召し上がってください」
今日は竹籠のお弁当箱だった。中にはヒレカツのサンドイッチや、生ハムとクリームチーズのサンドイッチ、そしてサーモンのサンドイッチが入っている。とても彩りが綺麗で、見ているだけで食欲をそそる。リアはノエへ百円を渡した。
「わぁ、今日もとってもおいしそうだね。それじゃあ、いただくね」
リアは手を合わせていただきます、と言った後、サーモンのサンドイッチを手にした。それを頬張って食べる。
「おいしい。これ、燻製サーモンなんだね。全然臭みがなくて、アボガドと玉ねぎが甘くておいしいよ」
「良かった。リア先輩に喜んで貰えると、作り甲斐があります」
少し遅れて、シリルのランチセットが店員によって運ばれてきた。ラウルだけ、飲み物も食べ物もない。
「そんなにおいしいのか?」
ラウルがリアへ話しかけた。リアは大きく頷く。
「うん。ディルの風味が効いていて……」
そう言った直後、ラウルはリアの右手を掴んで引き寄せると、リアが持っていたサンドイッチを齧った。
「……あぁ、本当だな。凄くおいしいな」
予測すらしていなかった行動に、リアは恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
「う、うん、そうでしょ?」
今のは間接キスなのでは、と混乱しつつ答えた。その様子を見ていたノエは、呆れ顔。
「ラウルさん。お行儀の悪いことをしないでください。欲しいなら、ここから取ってください」
「こいつが食べてるやつがおいしそうだったから、欲しくなったんだ」
「リア先輩が困っているじゃないですか」
ノエはリアが持っていた食べかけのサンドイッチを没収すると、紙ナプキンに包んだ。
「あ、ノエ君。私なら、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないですよ。リア先輩も、嫌なら嫌って、きちんとラウルさんに言わないとダメですよ。それに、変なばい菌をうつされたらどうするんですか」
ラウルは苛立たしげにしつつも、リアとノエの会話をじっと観察していた。
「お前とノエって、以前から知り合いなのか?」
「ううん。転入する前日に初めて会ったばっかりだよ?」
「ふうん。出会ってまだ四日目なのに、男に手料理を作らせて食事をするとか、魔性の女みたいだな。どんな色仕掛けをして迫ったんだ?」
酷い言いがかりだった。
「い、色仕掛けなんて、してないよ……」
ラウルはリアの胸元へ視線を落とした。
「そうか? お前のその大きな胸、プールの授業のときに男どもから注目されてたぞ」
この言葉に、ノエがむっとした。
「ラウルさん。そういう侮辱発言はやめてください。喧嘩を売ってるなら、買いますよ」
リアは非常にいたたまれなかった。だが気持ちを切り替える。
「あ、そうだ。今日の調理実習でね、オレンジのケーキを作ったんだ。ノエ君、受け取ってくれる?」
リアはノエにラッピングしたオレンジのケーキを差し出した。ノエはそれを受け取る。
「わぁ、ありがとうございます、リア先輩。大事に食べますね」
リアはシリルを見た。
「シリル先輩もどうぞ」
シリルは笑顔でオレンジのケーキを受け取った。
「ありがとう、リア」
隣にいるラウルが不機嫌になるのが、空気で伝わってきた。
「俺の分は?」
当然あるんだよな、という尊大な態度だった。リアはむぅ、っとする。
「えー、どうしようかなー。ラウル君、意地悪だし……」
「いいから、さっさと寄越せよ。勿体つけるな」
なんとなくだが、やはり彼は幼い頃に一緒に遊んだ記憶があるのではないか、と思った。というのも、どこか気を許している雰囲気を感じ取ったからだ。
「私のこと、友達だって思ってくれるなら、あげてもいいよ」
「ハァ?」
ラウルはリアが持っていたケーキを、素早く抜き取った。リボンをほどくと、それを食べ始める。
「あ! まだあげるって言ってないのに!」
「いいだろ、別に。俺とお前は全く知らない仲ってわけじゃないんだから」
それがどういう意味なのか、リアは返答に詰まった。幼馴染という意味なのか、それとも面識があるという意味なのか。
(前者だったら、いいな……)
リアは一口ハーブティーを飲むと、喉を潤した。
「ケーキ、おいしい? 生のオレンジのコンポートを作ってね、それを表面に乗せて焼いたの。生地にも、刻んだオレンジの皮をいっぱい入れたんだよ」
ラウルはあっという間に食べ終えた。彼はぺろりと、自身の唇を舐める。その様子が、妙に艶めかしい。
「あぁ、普通においしかった」
「本当?」
「こんなことで嘘をついても仕方ねえだろ」
安堵すると、リアはノエが作ってくれたサンドイッチを食べた。そうして全員昼食を終えると、ノエはお弁当箱を片付ける。ラウルは先ほど購入してきたキャラメルラテを飲んでおり、シリルはどういうわけか、じっとリアを見つめていた。
「葉上リア」
「は、はい」
「この学校へ入るには、ある程度ヴェルテート語ができるのが必須条件だ。君がここにいるということは、ヴェルテート語をある程度理解している、ということだね?」
入試にも、転入試験にも、ヴェルテート語の試験がある。
「えっと、少しですが、わかります」
「この学院ではヴェルテート語の授業があり、ヒアリングテストもある。せめて簡単な日常会話ぐらいできるレベルじゃないと、厳しいよ」
「そうですよね……」
「ヴェルテート語は、外国語の教室に通って覚えたのかな?」
「いえ、知り合いに家庭教師を紹介してもらい、教えてもらいました」
シリルは目を細めた。
『実に興味深い。どうしてそこまでして、ヴェルテート語を学ぼうと思ったのかな?』
彼が発したのは日本語ではなく、ヴェルテート語だった。話し方が滑らかなので、ヴェルテート語をきちんと理解していなければ聞き取れないだろう。これにラウルは舌打ちをする。
「性格悪いな。試すような真似、やめろよ」
ノエもいい顔をしていなかった。
「リア先輩、シリルさんが今言ったのを訳すと……」
リアはノエが言い切る前に、言葉を返した。
『私の友人にヴェルテート人がいて、その友達をいつか驚かせようと思い、ヴェルテート語を習っていました』
シリルに負けないほどの流暢な発音に、シリル、ノエ、ラウルが驚いていた。シリルは面白そうに笑う。
『へぇ、とても上手だね。外国人特有の訛りもないし、アクセントもいい。もしや、ヴェルテート国で暮らしていたことがあるのかな?』
『いえ、日本から出たことは一度もありません』
『猶更素晴らしい。日本にいながら、そこまでヴェルテート語を上手に使いこなすなんて。……ところで君の友人というのは、どういう人物なのかな?』
リアはやや躊躇ったが、正直に話すことにした。
『私は元々群狼村出身で、幼い頃は群狼村に暮らしていました。そのときに、ミシェルというヴェルテート人の男の子に、出会ったんです。ミシェルは私と同い年で、よく一緒に遊んでくれました』
『じゃあ、その少年とは再会できたのかな?』
リアは首を振った。
『いえ、数年前に連絡がとれなくなって、彼が今どこで何をしているのかはわかりません』
リアは落ち込んだ。ミシェルは出会ったばかりの頃は、まだ日本語があまり喋れなかったのだ。だがリアのために頑張って日本語を覚えたいと言い、いつの間にか喋れるようになった。そんな彼をびっくりさせようと、リアもヴェルテート語を勉強した。いつか彼とヴェルテート語で会話をしたい、その一心で。
記憶の中のミシェルを案じていると、ノエから話しかけられた。
『ヴェルテート語の発音が完璧すぎて、感動しました。習得するのは、大変だったでしょう?』
『ううん、そうでもないよ。ヴェルテート語を教えてくれた先生が愉快な人だったから、お勉強が楽しかったの』
『そうだったんですね』
リアはそこで、はっとした。
「あ、ノエ君。さっき、飲み物代を立て替えてくれたよね。返すね」
ポケットから、千鳥柄の小さながま口の小銭入れを取り出した。そこから飲み物代を手にすると、ノエに差し出す。だがノエは受け取らない。
「いいですよ、これぐらい」
「駄目だよ。友達同士なら、きちんとこういうことはしておかないと」
「……わかりました。リア先輩って、こういうところ、細かいですよね」
ノエは飲み物代を受け取ってくれた。
「だって、友達同士で一方的に施しを受けるなんて、おかしいよ」
「本当に気にしなくていいんですよ?」
「ダメ」
そこで予鈴が鳴った。リア達は席を立つと、カフェを出る。
「神狼先輩、今日はお誘いいただき、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げてお礼を言った。
「こちらこそ、とても楽しかったよ。また機会があれば、皆で一緒に昼食をとろう」
「はい」
「あと、僕のことはシリル、と名前で呼んでもいいよ。僕も君のことを、リアと呼ぶしね」
「わ、わかりました。シリル先輩」
シリルは、正に理想の王子様を描いたようなルックスだった。ただの立ち姿さえ、存在感と華やかさがある。
(世の中にはこんな凄い人がいるんだなぁ)
そんな、感想を抱いた。
教室の近くまで、ラウルと一緒に歩いていた。
「ラウル君って、シリル先輩と親戚なんだってね?」
そう話しかければ、ラウルは頷いた。
「あぁ。……ノエから聞いたのか?」
「うん」
ラウルは後ろ頭を少し掻いた。
「……この学院は、特殊な連中が多く集まってる。何かちょっとでもおかしいな、って思ったり、問題が起きたら、すぐに言え」
「う、うん……」
ラウルは特別クラスへと歩いて行った。リアは自分の教室へ戻る。途端、ぞわっとした視線を感じた。嫌悪感、侮蔑、憎悪、そんな嫌な感情だ。誰が、とそちらを向けば、一人の女生徒がリアを睨んでいた。
(怖い……)
何か反感を買うような行いをしたかと考えるが、何も思い当たらない。できるだけ不自然にならないように着席するが、まだ視線を感じた。肌に突き刺すような、冷たい感情。
(そういえば……)
リアは昨日と今日、おかしな点があることを思い出す。昨日の水泳の授業では、誰かに背後から突き飛ばされた。そして今日の調理実習の授業では、誰かが背後からぶつかってきて、手を怪我したのだ。
(私にぶつかって謝ってきた子って、あの子じゃなかった?)
視線が合うのが怖くて顔を上げられなかった。
授業が終わった後、リアは小テストが赤点だったとして、補習を受けることになった。転入初日で受けたテストだったのだが、事前に勉強をしていなかったため、赤点を取ってしまったのだ。一人教室に残って問題集を解いていると、教室の外から声をかけられた。
「お前、一人で何やってるんだ?」
廊下側の窓から覗き込んでいたのは、ラウルだった。
「小テストで赤点を取っちゃって、補習を受けてるの……。問題集を解き終わったら帰っていいって言われたんだけれど、わからない問題があって……」
教科書を見ながら解いていいと言われたものの、授業を受けていない部分なので、わからなかったのだ。
「どれだ?」
ラウルが教室へ入ってきた。彼はリアの真正面の椅子へ横向きに座って足を組むと、問題を見る。
(そういえば、ラウル君って学年首席なんだよね?)
ちらりと彼を見た。
「これなんだけれど……」
「あぁ……、これは」
ラウルが説明を始めた。丁寧に解説をしてくれるので、非常にわかりやすい。
「……なるほど、そういうことなんだ……」
「一度理解したら、こんなの別に難しくないだろ」
「ラウル君の説明が上手だから理解できたけれど、私一人じゃ無理だったよ。さすが、学年トップだね。家でも勉強をしているの?」
「一応はしているな。成績を落とすと、自由に生活できなくなるし。まぁ、普段は予習と宿題ぐらいしかやってねえけど」
「そうなんだ? ラウル君ほどの頭の良さを、私も分けてほしいなぁ……」
「それを言うなら、シリルもノエも学年首席だぞ」
「じゃあ私、今日のお昼は学年首席三人と食事をしたんだ……。凄い……」
その顔ぶれであれば、注目されるのもわかる気がした。
問題集を終えると、リアは帰る支度をした。提出は明日の朝でいいので、今日はこのまま家へ戻れるのだ。
「気をつけて帰れよ。……そうだ、お前、携帯電話は持ってるのか? 連絡先を交換させろ」
リアは携帯電話、と聞いて思い出した。
「あ、そうだ。携帯電話のことで、聞きたいことがあったの」
「なんだよ」
リアの勢いに気圧されるラウル。
「昨日、学校帰りに転んで携帯電話を壊しちゃってね。それで修理に出したいんだけれど、群狼村って携帯ショップあったっけ?」
ラウルはなぜか気まずそうにしていた。だがすぐに首を振る。
「いや……、朱根塚まで行かないと、店はない」
「そっか……。じゃあ、今度の休日に朱根塚へ行かないと……」
つくづく、自分の失態が嫌になった。ラウルと教室を出ると、一緒に校門まで歩く。
「気をつけて帰れよ」
「うん、ありがとう。また明日ね」
ラウルはリアとは反対の方向へ歩いて行った。そうして別れた後、リアは今日はとても楽しかった、と思う。
(ラウル君と普通に話せるようになって、よかったな)
明日もいい一日になればいい。リアはそんな風に願った。
家へ戻った後は、出かける前に干しておいた洗濯物を取り込んで片づけた。風呂に入った後は、夕食の支度をした。
「今日は親子丼と野菜の煮浸し、っと」
小鳥の形をした壁掛け時計を見れば、夜の八時だった。テーブルの上にお箸を準備をすると、椅子へ座って夕食を食べようとする。だがその時、家の呼び鈴が鳴った。
「ん? こんな時間に、誰だろう?」
リアはすぐに玄関へ向かった。扉を開くと、そこには三人の女生徒がいた。同じBクラスだが、会話をしたことはない。
「こんばんは、葉上さん」
「えっと、こんばんは?」
そう声をかけてきたのは、教室でリアへ恐ろしいほどの冷たい視線で睨んでいた女生徒だった。どうして家に来たのだろう、と戸惑う。
「今日は、あなたに聞きたいことがあって来たの」
「えっと、何かな……?」
ずい、と無理やり家の戸口から入られた。
「なんで人間の分際で、世森様や大狼様と馴れ馴れしく喋っているの?」
「え?」
「どうせシャンポリオン学院へ入ったのだって、家畜だからでしょう?」
何を言われているのかわからなかった。頭がおかしいのではないかと、他の二人の女子を見る。だがどちらも、激しい怒りを滲ませた目で、リアを睨んでいる。
(よくわからないけれど、家に上げちゃダメだ)
ぞわりと、足元から寒気がした。
「あ、あの、もう遅いから、帰ってもらってもいいかな? 話なら、明日聞くから」
「いいえ、あなたに明日なんて来ない。だってあなたは、ここで私たちに殺されるんだもの。あなたが家畜なんだって、思い知らせてあげる」
次の瞬間、信じられない光景を目にした。目の前にいた女生徒の体が大きくなり、全身に波打つような毛が生えたのだ。口には獰猛な牙が生え揃い、目は血走っている。
「ひ……」
家の中へ逃げようとしたが、鋭い爪で胸元を切り裂かれた。それとともに、玄関に押し倒され、首を絞められる。
(な、に……)
目の前にいるのは、明らかに人間ではなかった。怪物だ。悲鳴を上げたいが、喉を締められているせいで、呼吸もままならない。
「惨たらしく死ね」
なぜ殺されなければならないのか。自分が何をしたというのか。リアは得体の知れない何かに、喉を噛み千切られるのを感じた。それを最後に、意識が途絶えた。