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​第三話

 朝の日差しで目を覚ました。リアは眩暈と全身の痛みに、呻き声を発する。ゆっくりと体を起こせば、服はぼろぼろで、体中に傷があった。玄関先に広がる大量の赤い血は、おそらく自分のものだと察した。
(昨日の出来事は、夢じゃない……)
 自らの特殊な体質でなければ、間違いなく死んでいた。しかもまだ傷が完全に癒えきっていないところを見るに、余程凄惨な状態だったのだと推測する。
(家に、一人でいたくない。でも、学校は……)
 彼女たちは一体何者なのか。見たことも聞いたこともない化け物、ということだけ、わかった。保護者の灰瀬カイに連絡をしたいが、こんなときに限って携帯電話が壊れている。リアは口や鼻の中に残る血に、吐き気を覚えた。だがなんとか堪え、まずはシャワーを浴びに行く。
(警察に相談をしても、こんなのきっと信じてもらえない。それに、私の体質のことがばれるわけにはいかない)
 浴室の鏡で自分の体を見て、ぞっとした。腕や足は切断されたのか、その箇所は傷がまだ残っている。噛まれたような痣や、内臓の痛みがある。
(想像したくないけれど、はらわたも出てたのかな……)
 震えは止まらず、髪にこびりついた血を洗い流すのは大変だった。お風呂に入った後は、玄関の掃除をした。庭のホースを引っ張ってきて、玄関の血を水で洗い流したのだ。
(そうだ……。ノエ君の家に、泊めてもらえないかな……。一人で家にいるのは、危険だし)
 だが、彼女たちはノエやラウルに近づくことが、許せないようだった。ならば、ノエを頼ってはいけないのではないかと考える。けれども、現在リアには頼れる者がいない。


 悩んだ末に、リアはシャンポリオン学院へ少し遅れて登校した。七月に入っているというのに、傷を隠すために長袖と黒いタイツを着用したのだ。もちろん、傷を隠すために腕や足などには包帯をきっちり巻いている。
(教室へ入るの、怖いな……。さっき二時限目の授業が終わるチャイムが鳴ったから、次は三時限目か……)
 靴置場で上履きに履きかえ、廊下を歩いた。すると、丁度一年生たちが階段を下りてくるのを目にする。どうやら今から水泳の授業らしく、更衣室へ向かうところらしい。だがリアが近づくと、何人かの生徒たちがぎょっとした様相で、振り返った。
(え? なに?)
 自分の姿が余程おかしいのかと、気にした。血は洗い流してきたが、変なニオイがするのかと心配になる。
「リア先輩!」
 焦ったような、悲鳴にも似た声を上げた人物がいた。ノエだ。
「あ、ノエ君。おはよう」
 駆け寄ってきたノエは、明らかに動揺していた。しかもその顔は、恐怖で引き攣っている。
「ど、どうしたんですか? なんでそんな……」
「……、私、何か変?」
「と、とりあえず、こっちに来てください」
 手を引かれた。だがリアは怪我の痛みと眩暈で、転んでしまう。
「きゃ」
 寸前のところで、ノエに抱きとめられた。
「歩くのも、辛いんじゃ……」
「えっと、大丈夫だよ。今は調子が悪いけれど、暫くしたら治るから」
 ノエはスラックスのポケットから携帯電話を取り出すと、どこかへかけた。
「今すぐ迎えの車を用意して」
 簡潔にただそう言って、電話を切った。
「本当に、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないですよ! 顔色は真っ青だし、ずっと震えているし。それに、かなり血のニオイがします」
 リアはどきりとした。
「え?」
 ノエはリアを両腕に抱き上げると、歩き始めた。自分で歩けると伝えたかったが、傷が完全に癒えていない状態で無理をしたせいか、意識が朦朧とする。
「リア先輩?」
 彼が声をかけてくれたが、返事ができないまま気を失った。


 次にリアが目を覚ましたとき、病院のベッドの上だった。腕に点滴をつけられ、体の傷は薬で手当てをし、包帯が巻かれている。
(ここが、世森病院……。ノエ君の親戚が経営しているんだっけ……)
 個室だった。ノエはずっと傍におり、表情が昏い。
「リア先輩。一体、何があったんですか……? 僕に教えてください」
 リアは右手をノエに差し出した。ノエは両手で、リアの手を握る。昨晩のことを思い出すだけで震えが止まらなくなるのだが、ノエも先ほどからずっと震えていた。
「ノエ君、どうして、震えているの?」
「リア先輩に何かあったらどうしようって、怖くて……。あなたが無事で、本当に良かった……。もしもあなたに何かあったら、僕は絶対に自分を許せない……」
 相当、ショックを受けているようだった。それがとても申し訳なく、同時に悲しくなる。
「……私も、何が起きたのかよくわからないの……」
「はい」
「私の記憶違いかもしれないけれど、聞いてくれる? 頭がおかしくなった、って思われるかもしれないけれど……」
「大丈夫ですよ。安心して、僕に喋ってください」
 リアは昨晩の出来事を、ノエにゆっくりと語った。リア自身、昨晩のことはまだ信じられない。
(自分の傷が治ることや、相当酷い有様だったことは、言えない)
 手足が千切られ、内臓に損傷を受けたことなどは隠した。ノエはリアの頭を優しく撫でながら、真摯に話を聞いている。
「見たこともない怪物、ですか……」
「ごめんね。やっぱり、信じられないよね、こんな話。かなり怖い思いをしたから、夢と混同しているんだと思う」
 リアはいつの間にか、涙がずっと溢れていた。昨晩のことが、頭から離れないのだ。
「可哀想に……」
 ノエはリアに顔を寄せると、流れ落ちる涙を舐めとるように、キスをした。リアは驚愕し、涙が止まる。
「……っ、ふ、不意打ち」
 ノエはふわりとした笑みを浮かべた。
「だって、勿体ないから……。リア先輩の涙、宝石みたいでとても綺麗ですし」
「き、綺麗じゃないよ……」
 ノエはリアの額にもキスを落とした。
「もう少し、眠っていてください。病室の前には護衛を置いているので、誰も入れません」
「で、でも……」
 あんな怪物たちに、普通の人間が太刀打ちできるとは思えなかった。しかしながら、あれは本当に現実だったのか。そう考える一方で、体の傷は夢などでは決してないと証明している。
「少しだけ、リア先輩のそばを離れることを許してください。もしもどうしても不安なら、ラウルさんにここへ来てもらうように連絡をしますけど……」
 リアは首を振った。
「……ノエ君。早く、戻ってきてね?」
「はい。今日は病院に泊まって、リア先輩の傍にずっといます」
 普通ならば遠慮をするところだが、リアは断れなかった。


 神狼シリルは、ノエから連絡を受けて屋敷へと戻ってきた。屋敷の地下には隠された秘密の通路があり、その先には地下牢と拷問部屋がある。
「酷い悪臭だね。後片付けが大変だ」
 室内に立ち込める汚物と血の臭いに、シリルは顔を顰めた。眼前にいるのは、拷問を専門に行う配下の者と、指示を出す者の姿。
「あぁ、遅かったですね、シリルさん」
 シリルは一度だけ、磔にされているモノたちを見た。
「喉を潰してから、拷問をしているの?」
「煩いの、嫌いなんで。悲鳴を聞いて興奮する趣味もありませんし」
 淡々と答えを返してきたが、声には明らかな憎悪と嫌悪感が混じっていた。
「困るよね。自我をコントロールできない、劣等種は。朱根塚で人間を食べた件、せっかく見逃してあげたというのに」
 くすくすと、シリルは笑った。正直、目の前で繰り広げられている行為については、どうでもいい。関心があるのは、彼のことだ。
「よほど、大事なんだね。お前がそんなにも激昂する姿、初めて見たよ」
 答えが返ってくることは、最初から期待しなかった。
(部下から、葉上家の玄関には、かなりの血が流れた痕跡があった、と報告があったけど……)
 病院で診てもらったところ、そこまで大量出血するような怪我ではなかったらしい。ならば、その血はどこから出現したのか。色々と証拠が残ると面倒なので清掃はさせたが、無視できない謎だ。しかも彼女たちの証言と、葉上リアの状況が大きく異なっているのが気になった。
(たしか、手足を引きちぎり、喉の骨が折れるほどに噛み、内臓を引きずり出して心臓を潰したんだっけ? 本当にそんな状態になって平然と動いているのだとすれば、普通の人間ではない。おそらく、魔の者だ)
 そう推測するのは、当然のことだった。だが、不可思議な点もあるのだ。
(葉上リアが人外の存在であるならば、種族はなんだ? 通常は、どれほど強い再生能力を持っている種族でも、心臓を潰されたり、首と胴体が切り離されれば死ぬ。だが彼女は、心臓を潰されても死ななかった。となると、不死の一族や魔女の線はない。ならば……)
 シリルは、葉上リアという存在について、改めて興味を深めた。より一層考えに没頭しかけたところで、臭気に頭痛を覚える。
「……ソレ、加減しないとすぐに死んでしまうよ」
 勢い余って殺しかねないほどの残虐さで、目の前の相手は拷問役に指示していた。相手ができるだけ苦しむような手法で。
「そんな心配は無用です」
「あっそ。じゃあ僕は上に戻るよ。ここにいても、退屈だしね」
 シリルは背を向けて、部屋を後にした。上に戻ったら、着ている服は全て処分しよう、と。あの部屋の臭いが付着した服など、着たくなかった。


 リアは悪夢を見て、目を覚ました。全身に汗をかいており、息が上がっているのが自分でわかる。
(久々に、見た。あのときの夢)
 両親が死んだときの夢だった。交通事故で亡くなったのだ。長らく見ていなかった夢に、リアは気が滅入る。相当心身が弱っているのだと思った。窓の外を見れば、暗くなりかけていた。
「傷、まだ痛い……」
 あれからどれほど寝ていたのかわからなかった。電燈がついているために室内は明るいが、妙に心細い。そのままぼうっとしていると、部屋の扉が開いた。中へ入ってきたのは、ノエだ。
「あ、起きましたか?」
 彼は部屋へ入ってくると、持ってきた紙袋を椅子の上に置いた。
「ノエ君、来てくれて、ありがとう」
「いいんですよ、これぐらい。リア先輩は何も気にせず、僕に甘えてください。それはそうと、リア先輩に下着と病衣を持ってきました」
 病衣だと言って取り出した服は、随分と肌触りが良さそうな光沢のある生地だった。ワンピースになっており、フリルやリボン、レースがあしらわれている。
「……もしかしてそれ、シルクとか言わないよね?」
「え? シルクですけど……。もしや、シルクはお嫌いでしたか? 下着もシルクのものを用意したんですが……」
「き、嫌いじゃないよ。でも、そういった高価なもの、受け取れないよ」
 ノエははいはいと、物凄く適当に頷いた。
「文句なら怪我が治ってから聞きますから、とりあえず今は下着と服を着替えましょう。汗をかいているでしょうし」
 今着用しているのは、制服だ。リアはスカートが皺だらけになっているのを見て、落ち込む。
「着替える……」
「一人でできますか? 無理そうなら、看護師に手伝ってもらいますが」
「大丈夫、一人でできる」
 服を着替える前に、点滴を抜いてもらった。その後ノエに一旦部屋を出てもらうと、服を着替える。用意してもらった下着を手にするのだが、白に花柄のレースがたくさんついた、なんとも可愛らしいものだった。
(どこで買ってきたんだろう……。まさか、朱根塚まで行ってくれたのかな?)
 下着を交換し、病衣に着替えた。
「か、可愛い。まるで、お姫様が着る服みたい……」
 着替え終わったことを、部屋の外にいるノエに伝えようとした。リアは扉を少し開けて、そこでぎょっとする。というのも、屈強な体つきの男性が、部屋の前に立っていたからだ。病院内は、どこか物々しい空気で包まれている。
「リア先輩、着替え終わりましたか?」
「う、うん……」
 ノエは病室へ戻ると、リアの姿を見て満足そうにした。
「あぁ、やっぱりリア先輩によく似合いますね。とても愛らしいです」
 気恥ずかしくなり、素直に褒め言葉を受け取れなかった。
「ノエ君、眼科に行ったほうがいいと思うよ」
「え? 僕どちらの目も視力がいいので、眼科に行く必要はないと思いますけど」
「うー……」
 ノエは不満な顔をしているリアを、ベッドに座らせた。
「ほらほら。まだあんまり動いちゃダメですよ。もうちょっとしたら、夕食が運ばれてくるので、大人しくしていてください」
「なんだか、ノエ君にいっぱい甘やかされて、悔しい……」
「甘やかしたくなるぐらい可愛い、リア先輩が悪いんですよ。諦めてください」
「わ、私のせいなの?」
「はい」
 非常に納得がいかなかった。彼が言っていることは明らかにおかしいと思うのだが、どうすれば反論できるのかがわからない。リアが不服そうにしていると、夕食が運ばれてきた。豆腐粥と、エビと青菜のあんかけだ。
「おいしそう」
「たくさん食べて、元気になってくださいね。それでは、はい。口を開けてください」
 スプーンで掬った豆腐粥を、当然のようにリアの口元へ運ぶノエ。リアは首を振る。
「自分で食べたい」
「手を怪我しているでしょう? ダメです」
「でも……」
「リア先輩は、僕より先輩でしょう? 子供みたいな我儘は言わないでください。はい、どうぞ。あーん」
 笑顔なのだが、なぜか非常に威圧感があった。リアは諦めて、ノエに食べさせてもらう。
「お豆腐のお粥って初めてだけれど、すごくおいしい」
「良かった」
 ノエに食事を食べさせてもらうのは、とても奇妙な感じだった。
(深く考えず、雛鳥が餌をもらうようなものだと、割り切ろう)
 羞恥に耐えつつ、なんとか夕食を無事に終えた。


 朝になり、リアは病院を退院した。ノエも病院に泊まってくれたらしく、朝食は一緒の部屋で食べたのだ。
「家まで付き添ってもらっちゃって、ごめんね」
「リア先輩は現在一人暮らしですし、これぐらいのお手伝いは任せてください」
 ノエに家へ上がってもらい、お茶を飲んでもらっていた。
(玄関、もっと血の汚れがついていたと思ったんだけれど……)
 大量の血が流れたとは思えないほど、玄関は綺麗だった。血の臭いも残っていない。自分が寝ぼけて玄関先で転び、夢でも見たのではと思うほどだ。家の中も昨日学校へ出かけたままの状態であり、他におかしな点はない。リアもノエの正面の席に座ると、いつも飲んでいる薬をお茶で飲み干した。
「リア先輩。そのお薬は……?」
「ん? あ、これはね、漢方薬みたいなものだよ」
 自らの特殊な体質を隠すための、欠かせない薬だ。薬を飲めば怪我の治癒能力が弱まる。本当ならば怪我を治すためにも薬は飲まないほうがいいが、すぐに傷が治れば怪しまれてしまう。
(薬では、抑えられなくなってる……)
 もしも薬が効いていれば、昨晩はそのまま死体になっていただろう。想像しただけで、ぞっとする。
「そのお薬は、どんな効能があるんですか?」
 なぜだか、一つの嘘も決して見逃さないとばかりに、奇妙な雰囲気を肌で感じた。リアはどう答えようか少し思案する。
「人には言えない厄介な持病があって、そのためのお薬なの」
 リアは自らの特殊な体質を、ある種の病気だと捉えていた。けれども、疑問がわく。即死に至るような怪我でも治るのは、もはや人間としての領域を超えているのではないか、と。リアが両手に持つお茶に目を落としたところで、玄関の呼び鈴が鳴った。
「あ、僕が出ますね」
 ノエが玄関へ小走りで向かった。暫くすると、ノエが二つの箱を抱えて戻ってくる。
「それは……?」
「宅配されてきたものです。一つは荷物名に制服、って書かれていますよ。もう一つは海外からですね」
 海外からと聞いて、エーレンフリートが送ってくれたものだろうと察した。
「制服……、もしかしてシャンポリオン学院の制服かな?」
 寸法は店で測ってもらい、出来上がった制服は家まで届けてもらえるようにしておいたのだ。リアは箱を開くと、中の制服を確認した。
「良かったですね、無事に制服が届いて」
「うん。……そうだ。これを着て登校しようかな」
「え? まさか、今から登校するつもりですか? お怪我に障るので、今日も休んだほうがいいですよ」
「もう平気だよ」
 ノエはあまりいい顔をしなかったが、強く反対はしなかった。リアは早速新しい制服に身を包む。胸元に黄土色の大きなリボンがついた、灰色のワンピースだ。スカートの部分は大きめのプリーツが入っており、袖口の切り替えと大きな襟はクリーム色。背中にも黄土色のリボンがついており、靴下は白だ。
「ノエ君、見て見て、どうかな?」
 制服姿をお披露目すると、ノエは一瞬硬直した。だがじっとリアを見つめる。
「シャンポリオン学院の女子の制服が可愛くて良かった、って今心から思いました。リア先輩、とてもよく似合っていますよ」
「うーん。ノエ君は、似合っていなくても、似合ってるって言いそう……」
「そんなことはないですよ。それに、もしもリア先輩に似合わない制服だったら、シリルさんにお願いして、制服のデザインを変更してもらいます」
 おそらく冗談だろうとは思ったが、怖くて何も言えなかった。
 支度が終わると、世森家の車で学院まで送ってもらうことになった。ノエは一度自宅へ戻って、準備をしてから登校する、と言ったのだ。その為、リアだけ先に学院へ入った。
(あの人達に会うの、怖いな……)
 一昨日の夜の出来事は、夢であればいいと願った。もしも現実に起きたことであるならば、きちんと対処をしなければならない。その方法は全く思いつかないが。
 リアが教室へ入ったのは、昼休みの時間だった。リアが教室へ入った途端、一斉に注目される。
「おい、あいつ、殺されたんじゃなかったか?」
「昨日、三人組が自慢してたよな? 家畜は処分した、って」
 妙な噂話が聞こえてきた。
(どういうこと? まさか、私を殺したって、吹聴してたの?)
 それが事実であれば、まともな精神状態ではない。リアは自分の席へ座ると、嫌な汗をかいた。あの三人の女生徒と顔を合わせたくない、と。
「でも、あの三人組が自主退学したなんて……、やっぱり昨日言っていたことと関係があるのかな?」
 リアは耳を疑った。
(自主退学?)
 どういうことだろうと思った。噂話が聞こえないふりをしているが、気になる。けれども、誰にも質問することはできなかった。


 その日最後の授業は、水泳だった。リアは見学であり、制服姿でプールサイドにあるベンチに座っている。両腕や両足には包帯が巻かれているので、その姿はかなり目立った。
「どうしたんだ、その怪我は」
 声をかけてきたのは、ラウルだった。彼の引き締まった体躯を間近で見て、意識しそうになるのを堪える。
「えと……、ちょっと」
「ちょっと、じゃわからねえ」
 リアは一瞬迷って、冗談っぽく答えた。
「毛むくじゃらの大きな怪物に襲われた」
 信じるわけがないだろうと思ったが、彼の瞳に真剣さが帯びる。
「いつのことだ、それ」
「一昨日の夜……。あ、怪我は大したことないよ。昨日、ノエ君に病院へ連れて行ってもらって、ちゃんと診てもらったし」
「は? なんでノエなんだよ。あいつのところへわざわざ行ったのか?」
「ち、違うよ。学校に登校したら、偶然ノエ君に会ったんだよ」
 ラウルはなぜか不機嫌そうに舌打ちをした。
「……よりによって、俺が見ていなかった日に」
 何か呟いたが、聞こえなかった。聞き返そうとしたが、体育教師が授業を始めると号令をかけるのを耳にする。ラウルはやはり不機嫌そうに、リアの傍から離れていった。
(昨日はノエ君が病院に泊まってくれたから怖くなかったけれど、今日家に戻るのが怖いな)
 こんなことになるならば、保護者の灰瀬カイと海外へ行くべきだったか、と一瞬迷う。けれども、群狼村へ戻ってきて良かった、と思うことも多いのだ。両親との思い出がある生家や、幼馴染の大狼ラウルと再会できたこと。リアが考え事をしていると、女子生徒たちが誰かを応援しているのを目にする。
(あ、ラウル君、泳いでる。最後だ)
 どうやらクラス対抗でリレーをしているようだった。運動神経がいいのか、泳ぐのが速い。リアも他の女子生徒たちのように、彼を応援したくなった。
「ラウル君、頑張って!」
 たった一言だけだが、大声を上げただけで胸の傷が痛んだ。
(いつもならすぐ治る傷も、治るのが遅い。薬も飲んだから、余計に)
 体に傷跡が残ったらどうしようと、不安になった。けれども、ラウルが圧倒的な速さで一位になった姿を見て、傷の痛みが和らいだ。
「ラウル君、かっこいいな……」
 体育の授業を見学したことで彼の泳ぐ姿を見られたので、得した気分になった。そうして水泳の授業が終わり、各クラスの生徒は更衣室へ向かって歩き出す。
(私も戻ろう)
 他の生徒達に交じってプールサイドを歩き始めると、体の左側から誰かに押された。リアの体はプールの中へ落ちる。
(ここ、水深が深いところだ……)
 リアは慌てず、泳ごうとした。だが傷口が開くのを感じ、全身に激痛が走る。そのせいで、空気を全部吐いてしまった。代わりに入ってきたのは、水。鼻からも口からも、大量の水が流れ込んでくる。
(溺れる……っ)
 パニックになった。
「リア!」
 誰かが水中に飛び込んできた。すぐに体を引かれ、プールサイドへと押し上げられる。
「ごほっ、ごほっ……」
 咳き込むとともに、飲み込んだ水を吐いた。助けてくれた人物は、リアの背中をさする。そして、周囲へ向かって大声で怒鳴った。
「今こいつを押した奴は誰だ! リアは俺の幼馴染で、大事な友人だ。今度こんな真似をしてみろ。殺すぞ」
 激しい怒りが滲んでいた。彼に大丈夫だと伝えたいが、咳をしているせいでできない。しかも白い包帯にはうっすらと赤い血が滲んでおり、まだ体中が痛かった。
「ラウル君、あ、ありがとう、たすけてくれて……」
 なんとかそれを伝えた。ラウルは自分のタオルをリアの背中からかける。
「保健室へすぐに連れて行く。じっとしてろよ」
 リアはラウルに抱き上げられた。彼の素肌に自分の体が当たり、一気に緊張する。
(心臓が痛いのに、ラウル君に体を持ち上げられたせいで、余計に鼓動が速くなって)
 真面目に保健室へ連れて行ってくれているのに、不純な気持ちになる自分が嫌だった。だが男性の素肌に触れるのが初めてだったため、リアは照れずにはいられない。だから、誤魔化すように話をする。
「き、昨日、ノエ君にもこうやって運ばれた」
「……、ノエの奴も、さぞやびっくりしただろうな。お前が全身怪我だらけで」
 保健室へ到着すると、椅子に座らされた。またしても先生は不在で、ラウルと二人きりだ。
「リア、ジャージか何か持ってきているか?」
「ううん……」
「わかった。じゃあ、すぐに服を用意する」
 リアはゆっくりと呼吸し、痛みがましになるのを感じた。その間ラウルは、保健室のロッカーに置かれている大きなタオルを勝手に引っ張り出すと、それを自分の上半身にひっかける。
「ラウル君」
「なんだ? 傷が痛むのか? 後で病院に連れて行ってやるが、我慢できるか?」
 真剣に心配をしてくれていた。リアはそれが嬉しくて、ついつい笑ってしまう。
「ふふ」
「……なんで笑う」
「さっきラウル君が、私のことを幼馴染、ってちゃんと言ってくれたのが嬉しくて」
 気のせいか、彼の頬が少し赤らんだ気がした。だが彼が言葉を何か発する前に、医務室の扉が開いた。中へ入ってきたのは、女性の養護教諭だ。ラウルは事情を説明する。
「リア。俺は一度戻って服を着替えてくる。ここで待ってろ」
「うん……」
 ラウルが出て行った後、リアは靴下を脱いで素足になった。上履きは、第二体育館に置いてきてしまった。その間にホームルームが終わるチャイムが鳴る。
(さっきも、誰かに突き飛ばされてプールに落ちた)
 誰かはわからない。だが自分へと悪意を持つ者がいる、というのはわかった。
(シャンポリオン学院じゃなくて、朱根塚の高校に転入したほうが良かったのかな……)
 悲しく思っていると、医務室の扉が開いた。ラウルが戻ってきたのだろうか、と扉へ視線を向ける。だがそこにいたのは、ノエだった。
「リア先輩、教室まで迎えに行ったらプールに落ちたって聞いて、びっくりしました。大丈夫ですか?」
「うん、平気だよ。ラウル君がここまで運んでくれたし。……くしゅん」
 くしゃみをすると、ノエがリアの頬を両手で包み込んだ。
「こんなに体が冷え切って……。すぐに迎えの車を用意しますね」
 そこで、再び保健室の扉が開いた。
「その必要はない。俺がさっき連絡して、車を手配した。……リア、これに着替えろ」
 制服姿になったラウルだった。リアの鞄とラウルの鞄、更に紙袋を持っている。彼はその紙袋を、差し出した。中を確認すると、女性ものの衣服が入っていた。
「これ、どうしたの?」
「学院の敷地内に服を売ってる店があるから、買ってきた」
「ありがとう。後でお金を返すね?」
「いい、それぐらいやる。とりあえず、先に服を着替えろ。風邪をひく」
 リアは衣服を受け取ると、カーテンが閉められるベッドの横で服を着替えた。薄い青のワンピースだ。襟元はお花の形をしており、裾には揺れると動くレースがついている。
(下着の替えがないから濡れたままでちょっと気持ち悪いけど、贅沢言えないよね)
 カーテンを開けると、ノエとラウルが話をしていた。
「リア先輩の下着も、ちゃんと用意しました?」
「は? 下着?」
「ブラジャーとショーツです」
「おま……、そんなの用意できるわけがねえだろ」
「え? じゃあ、リア先輩、濡れた下着をつけてるんですか?」
 堂々と目の前でそんな話をされていた。リアは走って逃げたくなる。
「し、下着は家に戻ってから着替えるから、大丈夫だよ。タオルでよく拭いたから、そんなに気にならないし」
 ノエは信じられない、とばかりに首を振っていた。
「リア先輩が気を遣ってくれて、よかったですね。僕なら下着まで、きちんと完璧に揃えますけど」
「うるさい、黙れ。……リア、病院へ行くぞ」
 ラウルによって、両腕に抱き上げられた。リアは目をぱちぱちさせる。
「あ、歩けるよ。下ろして」
「下ろしたら、ノエが同じことをするだけだぞ」
 なぜだか、否定できなかった。ノエならばやりそうだ、と思ったからだ。
「……ラウル君に、お姫様抱っこをされるなんて……」
「俺としてはお姫様を抱っこしているというよりも、タヌキを抱っこしてる気分だがな」
 モコモコの愛くるしいタヌキを想像した。
「なんでタヌキ?」
「豚は流石に可哀想だと思って」
 タヌキはタヌキでも、店先などに飾られる置物のタヌキのほうを言われているのだと察した。
「それって、私が重いってことじゃないの? ヒドイ! 自分で歩くからおろして!」
 ラウルは楽しそうに笑った。その隣を歩いていたノエは、すぐにフォローする。
「リア先輩は軽すぎるぐらいなので、もっと太ったほうがいいと思いますよ」
「か、軽くないよ、体重は標準だし」
「そうなんですか? それって多分、胸が大きいからでしょうね。手足や腰は細いですし」
「ノエ君、それ、セクハラだよ!」
「あ、すみません。昨日リア先輩の下着を用意したとき、胸のサイズに驚いてしまって……」
「だから、セクハラ禁止だってば!」
 羞恥心を堪えつつ、リアは車まで運ばれた。


 病院で手当てをしてもらった後、リアは自宅へ戻ってきた。防水フィルムを怪我の部分に貼ってもらえたので、そのまま入浴できるらしい。プールに落ちたせいで消毒の臭いがしていたので、風呂に入れることにほっとする。リアは早速風呂へ入ると、ノエとラウルのことを思い出す。
(家にいてくれるのかな、って思ったけれど……)
 ノエは用事があるので、と言って帰った。ラウルも、ノエと一緒にそのまま帰ってしまったのだ。
(……今日の夕食、どうしよう。食欲があるわけじゃないけれど……)
 リアは少し悩み、何か買いに行くことにした。ボーダー柄のシャツとロングスカートに着替え、家を出る。理由をつけて、家から出たかっただけかもしれない。家にいれば、どうしても襲われたときのことを思い出すからだ。
 大通りに出ると、ふと見覚えのある男性がいた。相手もリアに気がつく。
「あれ? あなたは道を教えてくれた……」
 以前、花扇という宿屋の居場所を聞いてきた、丸い眼鏡の男性だった。
「こんばんは」
「こんばんは。お買い物ですか?」
「はい。……あれから、温泉には入れましたか?」
「えぇ。毎日入っています。居心地のいい村ですけど、交通はちょっと不便ですよね」
 リアは遠くにあるバス停を見た。バスは一日一本だけであり、タクシーはない。村人たちが村を出る場合、自家用車を用いるか、誰かの車に乗せてもらうしかないのだ。
「確かに、そうですね。バスが一日に一本しかないので、一度この村で降車したら、翌日になるまでバスが来ないので……」
 せめて朝と夕方にバスが運行すればいいが、昔から一日に一本しかない。
「そういえば、旅館の女将から群狼村の由来を聞いたんですが、昔この辺りには人食い狼がいたそうですね?」
「え? 狼?」
「はい。狼の群れがいたので、群狼村、という名前がついたそうですよ」
 リアはふと、自分を襲ってきた女生徒たちのことを思い出した。はっきりとよく思い出せないが、彼女たちは狼に似た何かに変身しなかっただろうか、と。それとは別で、目の前の男性と初めて会った日。帰り道に、白い大きな狼のようなものを見た。あれは一体なんだったのか。
「そうなんですね。でも狼って、もう日本では絶滅していますよね?」
「はい。……もしも狼を見つけたら、こっそり教えてくださいね? 私も狼を見てみたいので」
 リアは思わず笑ってしまった。
「わかりました。じゃあ、狼を見たらこっそり教えますね」
「はい」
「では、そろそろ私は買い物へ行ってきます。お兄さんも、温泉を満喫してくださいね」
 男性は、旅館がある方向へ歩いて行った。リアもひまわりマーケットへ向かう。
(狼がたくさんいたから、群狼村……。でも確か群狼村って……)
 村の東側を見た。村の東側は黒平峡谷という断崖絶壁になっており、その先は荒骨山がある。昔は黒平峡谷と荒骨山を繋ぐ橋が架かっていたが、十数年前に腐り落ちてそのままになっている。ふと昔両親からきいた話を思い出したが、リアは深く考えないようにした。
「そんなことより、夕食を買わないと」
 ひまわりマーケットの店先に立った時、一台の高級車がすぐ傍で停止した。後部座席の窓が開き、神狼シリルが乗っているのが見える。
「やぁ、葉上リア」
「あ、こんばんは、シリル先輩」
「会えて良かった。今から君の家へ行こうと思っていたんだよ」
 何の用だろう、と気になった。彼とは、以前学院で昼食をして以来、会っていない。
「どうかしましたか?」
「今夜の夕食へ招待をしようと思って。時間はあるかな?」
 急な誘いだった。時間はあるが、なぜ今なのだろうか。
「時間はありますけど……」
「良かった」
 運転手が後部座席の扉を開いた。リアはシリルの隣へ乗る。シートは黒の革張りであり、広々としている。リアが乗り込むと、車はすぐに発進した。
「君とは一度、ゆっくり話がしてみたかったんだ。ノエは君のことを過保護なまでに構い、普段は他人に干渉しないラウルも、君に対してだけ信じられないほど優しい」
 いまひとつぴんとこなかった。
「ノエ君とはこの間初めて会ったばかりですけど、ラウル君は、小さい頃に一緒に遊んだことがあるので……。多分それで、優しくしてくれるんだと思います」
「へぇ? ラウルと小さい頃に?」
「はい。ほんの半年の間だけですけど……」
 車は、群狼村の南端へ続く道を走っていた。南側はリアも行ったことがないので、よく知らない。暫くすると、道が薄いコーラル色の石畳になった。
「ここから先はうちの敷地なんだ」
 石畳の左右は雑木林だった。車で三分ほど走ると、やがて木製の大きな門扉が見えてくる。車が門前に到着すると、門が自動で開いた。中は美しい庭であり、矩形の花園となっていた。トピアリーや噴水もあり、もはや日本とは思えない。庭園の奥には、洋館があった。花や蔓などのモチーフを組み合わせた装飾が特徴的な建築物であり、縦長の窓がいくつも並んでいる。屋根は薄縹色で、屋敷というよりは城という表現のほうが近い。
「群狼村に、こんなお屋敷があったなんて……」
「広すぎて、部屋がいっぱい余っていてね。ノエも、よく泊まりに来るよ」
「そうなんですね」
 屋敷の前で車が停まり、屋敷の前に立っていた守衛がドアを開いた。先にシリルが出て、リアへ手を差し出す。リアはその手につかまり、車を降りた。屋敷の扉の前には、執事らしき老齢の男性が立っている。背が高く、薄い金の髪はワックスでしっかりと整えられている。
「おかえりなさいませ、シリル様」
「ただいま、ナタナエル」
 ナタナエル、と呼ばれた男性は、リアを見た。
「ようこそいらっしゃいました、葉上様」
「こ、こんばんは。お邪魔します」
 屋敷への白い扉が開かれ、中へ通された。屋敷の中はまるで城のようになっているのでは、と思ったが、まるでホテルのロビーのように広々とした造りになっていた。床はコーラル色の大理石であり、分厚いワイン色の絨毯が敷かれている。天井からは予想通り、硝子のシャンデリアがぶら下がっていた。正面には大きな階段があり、踊り場には立派なステンドグラスがある。
(凄くいい匂いがする……)
 アロマオイルでも焚いているのか、屋敷の中はとてもいい香りがした。
「リア、こっちへおいで」
 シリルに呼ばれ、彼の後ろを歩いた。案内されたのは、応接室らしき場所。いかにも高価そうな壷や絵画が飾られており、部屋の中央にはソファーとテーブルが置かれている。てっきり向かい合って座るのかと思ったのだが、なぜかシリルはリアの隣へ座った。
「シリル先輩……?」
「君のこと、もっと僕に教えてくれる?」
「え? 何を、ですか?」
「君、本当に人間?」
 その質問に、どきりとした。普通の人間ではない、というのは自らも感じているからだ。
「人間、です……」
「なるほど。だとするならば、お前は僕たちにとって、エサになるわけだ?」
 彼の雰囲気がどこか変わったように感じた。聞き間違いだろうか、と耳を疑う。
「エ、エサ……ですか?」
「そう。でも不思議なことに、お前からは食欲をそそるような、おいしそうな匂いがしないんだよね。人間の匂いに近いけれど、人間とも言い切れない香りだ」
 シリルと距離を取ろうとした。なぜかはわからないが、全身が冷水を浴びたように、寒くなったからだ。けれども動こうとした瞬間、視界が反転した。いつの間にかソファーに体が倒れており、その上にシリルが覆いかぶさっている。
「シリル先輩……? あ、あの……」
 さすがにこの状況は、まずいと思った。情事で押し倒されているのではないと、なんとなく気配が伝わってきたからだ。
「葉上リア。じっとしているといい。殺すつもりはないよ」
 シリルを押しのけようと、抵抗した。だが傷が痛み、うまく力が入らない。そんなシリルはリアの抵抗を嘲笑うかのように、着用していたボーダーのシャツを破く。
「……っ!」
 声にならない悲鳴が出た。だがシリルは場違いなまでの、楽しげな笑みを浮かべている。
「抵抗するならもっと本気でやらないと。でないと、僕以外の奴なら、お前、殺されているよ」
 シリルはリアの胸元へ口づけた。何をするのかと思った瞬間、全身を倦怠感が襲う。
(な、に……?)
 体から何かが奪われるのがわかった。体が痺れ、奪われ続ければ死に至るであろうことが、本能でわかった。恐ろしいのに、恐怖で喉が引きつって声が出ない。けれどもそれは僅かな間で、シリルは顔を上げて奇妙そうにした。
「……濃厚な生気だ。こんなにも濃い生気を持つ存在、聞いたことがない。それにこの味は、人間のものじゃないな……」
 リアは目に涙が浮かんでいた。
「い、いや……っ」
 シリルは呆れたような、だがどこか慈しむように目を細めた。
「安心するといい。さっきも言ったように、お前を殺すつもりはない。僕との出来事は、暗示をかけて忘れさせるからね」
 シリルはリアの両目をじっと見た。彼の金色の瞳が、どこか禍々しい光を帯びる。
「……っ」
「今日、僕と出会ったことは忘れるんだ。いいね?」
 リアは、両手で思い切りシリルの体を押しのけた。シリルがソファーから落ちた隙に、部屋を飛び出す。何をされたのかはわからないが、彼も普通の人間ではないことを察した。
(まさか、あの女生徒たちと、同じ……?)
 長い廊下を走って玄関ホールへ到着すると、そこでノエとラウルに遭遇した。二人とも、どうしてリアがここにいるのかわからない、といった表情だ。
「おま、その姿……」
 ラウルが絶句していた。リアは答えを返すことなく、屋敷から出て行こうとする。けれども、ノエがリアの体を拘束した。
「リア先輩、怪我をしているんですから、走っちゃダメですよ」
「いやっ、離してっ」
「どうしたんです。落ち着いてください」
 体が震えた。ノエはしっかりとリアを抱きしめ、安心させるように頭を撫でる。そこで、優雅な足取りでシリルが現れた。彼はノエとラウルの姿を視認して、微笑む。
「二人とも、ありがとう。彼女を捕まえてくれて」
 ラウルは険しい様相で、シリルを睨んだ。
「まさか、とは思うが、強姦とかしようとしたんじゃないだろうな」
「人聞きが悪いね。僕は家畜と交尾はしない主義だよ。……まぁ、どうやら彼女は人間ではないみたいだから、家畜と言うには語弊があるけれど」
「は? 人間じゃない?」
「彼女の生気を食べて、味を確認したんだよ。人間の味はしないから、おそらく魔の者だ。なんの種族かまでは、わからないけれど」
 ラウルはちらりとリアを見た。後ろ頭を掻き、溜息をつく。
「そうか。……確認が終わったなら、記憶を消して家に帰してやれ。もう用は済んだだろ」
 リアはびくりと震えた。リアを抱きしめているノエは、彼女の背中をぽんぽんと宥めるように撫でる。
「リア先輩、大丈夫ですよ。記憶を消す際は、痛みを伴わないので。今日は家に戻って、ゆっくり休んでください。ちゃんと自宅までお送りしますから」
 何を言われているのかわからなかった。ごく自然に、それもさも当前のように、二人はリアの記憶を消すことを前提にしている。そのことに、ぞっとした。だがもっとぞっとしたのは、シリルが次に発した言葉だった。
「残念なことに、彼女は暗示が効かない体質だ。人間の中には稀にそういう人物がいるけれど、彼女にも僕の暗示が通用しなかった。僕たちの存在が露見すると困るから、彼女は殺すしかない」
 冗談などではなく本気だと、空気でわかった。リアはガタガタと震え、頭の中が真っ白になる。けれども、ノエがリアの体を、より一層強く抱きしめた。
「シリルさんの失態の尻拭いで、リア先輩を殺すなんて、おかしなことを言わないでください。処分しなければならないというなら、僕がリア先輩をペットで飼います」
 シリルはやや思案し、やがて苦笑した。
「そ? きちんと餌を与えて、面倒を見るようにね」
「はい」
 ひとまずのところ、殺されずに済んだ、というのは理解した。リアは恐る恐る、ノエへ話しかける。
「わ、私、家に帰れるの?」
 ノエは幸せそうな笑みを浮かべた。
「いえ、リア先輩は今日からこの屋敷で暮らすんですよ。僕のペットになったので。……あぁ、心配はしなくていいですよ。衣食住の面倒は見ますし、不自由はなるべくさせません。ただちょっと、監禁はさせてもらいますけどね」
 いつもよりも優しくて温かな笑顔だというのに、彼の言葉は少しも理解ができなかった。

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