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​第八話 前編

 一夜明け、朝食後にシリルの部屋へ集まって、報告を受けた。教会の者たちは黒平峡谷にロープの吊り橋を架け、それを用いて行き来しているらしい。厳重な見張りがなされている上、爆薬も仕掛けられているとのこと。
「僕たちが正面から乗り込めば、爆破されちゃうだろうね」
 シリルは笑いながら言ったが、リアは峡谷の真下に落ちる想像をしてぶるりと震えた。吊り橋を渡る途中で爆破などされては、たまったものではない。ラウルは両手を足の上で結ぶ。
「じゃあ、リアが言っていた地下洞窟から荒骨山へ行き、奇襲を仕掛けるのがいいだろうな」
「連中も、まさかそんな方法で来るとは、思っていないだろうしね」
 ここで、リアは疑問を抱いた。だが質問をするのが恐ろしく、なかなか口を開けない。そんなリアの様子に、ノエが気づいた。
「どうしましたか? リア先輩」
 ノエの柔らかい口調に、言い出しやすい空気を作ってくれたのだと察した。彼はこういうところで、気遣いが上手だ。
「あのね、ノエ君」
「はい」
「奇襲をかけるのは理解できたんだけれど、それってつまり、どういうことなの?」
 はっきりと聞くことができなかった。つまりリアは、彼らが人間を殺すのではないのか、と思ったのだ。教会のハンターたちは、全員人間だ。しかも、人狼族をたくさん狩っている。昨日、リア自身も惨く殺される姿を見た。
「それは……」
 ノエが答えるよりも、ラウルがはっきりと口にした。
「ピクニックに行くわけじゃねえんだから、殺すに決まってるだろ」
 予想していたことを言われ、さっと青ざめた。これにノエが良くない顔をする。
「ちょっと、ラウルさん!」
「なんだよ、本当のことだろうが。脅威を排除しなきゃ、こっちが殺される」
「言い方、っていうものがあるでしょう」
「は? じゃあ、死なない程度に痛めつけて、二度と来ないように脅す、とか言うのか? 冗談だろう」
 シリルは椅子から立ち上がると、壁に掛けてある西洋の剣を手にした。貴金属で豪華な装飾が施され、美しい。シリルはそれを手にすると、鞘から剣を抜いた。サーベル状であり、刀身がぬらりと光る。
「これは、王侯貴族が狩猟で用いた、シャドプラーテという剣だ。美しいだろう? まぁ、実際に使用されることはあまりなく、ただの飾りが殆どだったようだけれど」
 剣など急に持ち出して、いったいどうするのかと不安になった。リアは、まさか、と予想する。
「それが、人狼を殺せる、特殊な武器ですか?」
 王侯貴族が使っていたというだけあり、シリルが持つととても似合っていた。元々ある気品に、更に磨きがかかる。
「あはは。言っただろう? これはただの飾りだ、って。でも、傷をつける能力はあるよ。こんな風に」
 シリルが剣を振り上げ、ノエの頬を傷つけた。うっすらと傷つけ、血が一筋流れる。
「何をするんですか、シリルさん。すぐに治るとはいえ、痛いんですよ」
「動じないどころか、瞬き一つしないなんて。お前は可愛げがないね」
「びっくりしすぎて、動けなかっただけです」
 シリルはノエの喉元に剣を突き付けていた。リアは何をしているのか、と恐怖で硬直する。
「シリル先輩、やめてください。なんで、そんな……」
 シリルはリアへ微笑んだ。
「頭の悪いお前に、わかりやすく説明をしてあげようと思って。僕たちの今の状況が、こういうことだ。僕たちは喉元に剣を突きつけられている」
「わ、わかって、います……」
「いや、わかっていない。……葉上リア。連中を始末しなければ、ノエもラウルも、そして僕も殺されるだろう。こんなふうにね」
 シリルはノエの腹部を剣で突き刺した。なんの躊躇もなく、ずぶりと剣が沈む。
「……っ!」
 リアはあまりのショックで、声にならない悲鳴を上げた。シリルは剣を抜き、刃についた血をハンカチで拭き取る。ノエは少し体を前へ折るが、リアへ微笑んだ。
「リア先輩、安心してください。僕は平気なので」
「へ、平気なわけないよ。だって、血が……」
「もう止まっています。特殊な武器でない限り、こういう傷はすぐに癒えるので」
 リアは震えた。ノエが着用している服が赤く染まっており、部屋に血の臭いが溢れる。その香りを嗅いだ瞬間に、まるで全身が沸騰するかのように熱くなる。
(ノエ君は平気って言ったけど、多分、まだ傷口がふさがっていない……)
 リアは椅子から立ち上がると、すぐにノエの頬を両手で包み込んだ。そして迷うことなく、ノエの唇へキスをした。それとともにリアの体からふわりと、山桜のような香りが溢れる。
「……、治った?」
 ノエはほんの少し頬を赤くし、動揺しているようだった。
「……なんで、キスを……」
 リアはノエの服を捲し上げ、傷を確認した。傷口を確認するが、もう癒えている。
「……良かった、治ったみたいで」
「え? まさか、リア先輩が治したんですか?」
 リアはやや悩み、小さく頷いた。
「うん……。半信半疑だったけれど」
「治せるって、知っていたんですか?」
 リアは躊躇いがちに、頷いた。
「昔、ミーシャにも、同じことをしたことがあって……」
「え?」
 記憶に蘇るのは、幼馴染のミシェルのことだ。
「……小さい頃、ミシェルが全身傷だらけで、倒れていたことがあったの。意識がなくて、何があったのかわからなくて。だから私、ミシェルを助けたくて、あの子へキスをした。すると、ミシェルの怪我が治ったの……」
「……そんなことが、あったんですか」
「うん。ミシェルはその後意識を取り戻したんだけれど、何があったのかは教えてくれなくて……。私も、ミシェルの怪我を治した、なんて言えないから、追求できなかった」
 シリルは興味深そうに、顎へ手を当てていた。
「その能力は、いつでも発揮できるの? それとも、発動条件がある?」
 リアは難しい顔をした。
「発動条件とかはわからないんですけど、ノエ君には使える、っていうのが、感覚でわかりました」
「ノエには? ということは、使えない人物もいる、ということかな。なぜ、そう思ったのかな。きっかけとかある?」
 きっかけと言われ、リアはノエをじっと見つめた。
「……血の香り?」
 以前ノエは自らの手をナイフで切って、血を流したことがある。あのときは、少量の血だった。けれども、今は濃厚な血のニオイが漂っている。
「……君の目の前で、確か人狼が殺されたんだよね。そのときはどうだった?」
 そのときのことを思い出し、リアは首を振った。
「ノエ君のときみたいに、治せるとは、思えませんでした……」
「ふうん。なぜだろう? ……じゃあ、ノエにキスをしたのは、なぜ?」
「……わ、わかりません。無我夢中だったので……」
 シリルはノエに視線を向けた。ノエはすぐに察する。
「リア先輩から、生気と魔力を流し込まれるのを感じました。多分この力は、粘膜の接触、つまり、深いキスや性交渉などを行わないと、発動しないんじゃないでしょうか」
「なるほど……。相手に生気を送る際、それしか方法がないしね」
 ノエは、自分の体の匂いを嗅いだ。リアはどうしたのだろう、と不思議そうにする。
「どうしたの? ノエ君」
「……、いえ。リア先輩の移り香が、心地いいな、と……」
「え? 私の移り香?」
「はい。山桜のような、とてもいい香りです」
 ノエは嬉しそうにしていた。リアはそんなに自分の体はニオイがきついだろうか、と眉を寄せる。これにラウルが険しい様相で、彼女を見つめる。
「……へぇ。お前、本当に珍しい奴だな。女で初めて見た」
「ん?」
「あと、すげーむかつく」
「な、なんで?」
 ラウルは顔を背けて、何も答えなかった。リアはひとまず、ノエへ謝る。
「ごめんね、断りなくキスをして……」
「いえ、断りなんていりません。リア先輩からのキスなら、いつでも大歓迎なので。だから、これからも遠慮なくキスをしてください」
「し、しないよ。何言ってるの……」
 リアは自分の席へ戻ろうとしたが、すぐに動けなかった。足に力が入らず、ぺたんと床へ座り込む。
「どうかしましたか、リア先輩」
「あ、ううん。ちょっと、足に力が入らないだけ」
 この発言に、シリルはなるほどと頷いた。
「大量の魔力や生気を使用するみたいだね。多用はできない上に、自身の命を危険にさらすようだから、その力は使わないほうがいい。でないと、厄介なことになるよ」
 ラウルが席から立ち上がり、リアの背後から脇の下へ手を差し込み、ゆっくりと立たせた。
「シリル先輩、厄介なことって……?」
「人間を食べることになる、ってこと」
 よくわからなかったが、恐ろしい事態になる、というのはわかった。そのままラウルの手を借りて、椅子へ座る。
「ありがとう、ラウル君」
「あぁ。それよりも、奇襲の件だ」
「う、うん……」
 シリルは嫣然とした笑みを浮かべていた。彼の手には、まだ先ほどの剣が握られている。
「葉上リア。地下洞窟への道を、案内してほしい。わかっていると思うが、これはお願いではないよ」
 強要なのだと、理解した。だが場所を言えば、たくさんの人間が殺されるのだろう、と想像する。けれども、シリルやラウル、そしてノエたちが殺されるのも耐えられない。そんな姿を見かねたのか、ラウルが発言した。
「シリル、もういい。場所はわかってるんだ。こいつの家の納屋だろ?」
 庇われたのがわかった。リアはぎゅっと、膝の上で手を握り締める。シリルは呆れ顔で、剣をテーブルの上へ置く。
「全く、甘いね、ラウルは。彼女のためにならないというのに。連中は待ってくれないし、手加減もしてくれない。正体がばれたら、即座に殺しにかかってくる。今は非常事態なのだし、彼女にきちんと教えておかないと」
「無茶を言うな。こいつは自分が、人間じゃないってわかったばかりなんだ。普通なら拒絶してもおかしくないのに、こいつはきちんと事実を受け止めてる。それだけで、十分頑張ってるだろ」
 リアは目に涙が浮かんだ。どっちつかずであることを責めず、ラウルは味方をしてくれたからだ。
「……本棚に隠れたレバーを動かしたら……、扉が開くようになってる」
 なんの、とは言わなかった。だがそれだけで、彼らは察したようだった。ノエは椅子から立つと、自分の服を見下ろす。
「じゃあ、僕は着替えてきます。その後は、さくっと散歩をしてきますね」
 リアはえ? と怪訝そうにした。
「散歩?」
「はい。ちょっと偵察に行く、っていう意味です。リア先輩は屋敷でお留守番をしていてくださいね」
 そう言って、彼は部屋を退室した。ラウルもシリルも何も言わないので、彼が適任なのだと判断したのだろう。


 ノエが出かけた後、シリルとラウルも遅れて屋敷から出て行った。リアは執事のナタナエルと一緒に、休憩室でお茶を飲んでいる最中。
「ナタナエルさん、ありがとうございます。お茶、とってもおいしいです」
 初めてカモミールミルクティーを飲んだのだが、とても気分が落ち着いた。ミルクと蜂蜜の甘い香りとカモミールの優しい香りが、心をほぐす。
「いえ、こちらこそ屋敷の掃除の手伝いをしてくださり、ありがとうございます。葉上様のおかげで、とても助かりました」
 何かしていないと不安になるため、ナタナエルに無理を言って掃除をさせもらったのだ。リアはシリルが招いた客人という立場であり、使用人である彼らからすれば、掃除をさせることなど本来はありえないことだ。けれども、ナタナエルはリアへ浴室と脱衣所の掃除を任せてくれた。
(他の使用人の方と一緒だったけれど、お喋りをしながらだったから、楽しかったな)
 おそらく、気遣われたのだろうと考えた。屋敷にいる女性の使用人は、結婚をしている年配が大半だ。若い未婚の女性はおらず、夫と一緒に住み込みで屋敷に勤めている。彼女たちはリアを孫のように可愛がってくれており、屋敷内での困りごとによく相談に乗ってくれる。
「葉上様。私はシリル様の元へ参りますが、葉上様はどうぞこのまま屋敷にいてください。護衛をおつけしていますので、何かあった際は彼らの指示に従ってください」
「はい」
 ナタナエルが言うように、リアの身辺警護を行っている護衛が三人ついていた。
(早く、帰ってきてほしいな……)
 カモミールミルクティーを飲み終わった後、リアはカップをきちんと台所で洗った。その後部屋へ戻ろうとするのだが、護衛の三人がぴくりと反応をする。
「リアさん、屋敷内に侵入者です。おそらく、教会の者たちでしょう。どうぞこちらへ」
 彼らの行動は素早かった。リアはすぐに、安全な脱出ルートへと案内される。
「人狼族ってばれて、乗り込んできたの?」
「いえ、違うようです。ですが、念のためにこちらへ」
 リアは講堂から逃げ出している。もしも屋敷内にいるのが知られれば、迷惑をかけるのは間違いない。
(屋敷を出る、ってことは、北館じゃなくて南館へ向かってきている、ってことだよね?)
 裏口から出て、森の奥へ行くことになった。けれども庭へ出てすぐ、頭上より何かが降り注いでくる。それは、リアを護衛していた男性たちの全身に突き刺さった。
「きゃああっ」
 護衛の男性たちの体に、槍のような武器で地面に縫い付けられていた。リアは反射的に、悲鳴を上げてしまう。それとともに、屋敷の屋根の上から黒いローブ姿の男たちが地面へ着地した。
「あぁ、リアさん。こんなところにいたんですね。良かった、探していたんですよ」
 恐る恐る振り返ると、そこに己岡が立っていた。護衛の男の一人が、すぐに体から槍を抜き、立ち上がる。
「お逃げください、葉上さん」
 逃がそうとしてくれるが、リアは動けなかった。護衛をしてくれている彼らを残していけないと、そう考えてしまったのだ。しかしながら。
「逃がすわけないでしょう」
 己岡が剣を薙いだ瞬間、リアの前に立っていた男性の首が切られた。地面に縫い付けられた二人の男性も、黒いローブ姿の男たちによって切断される。リアは、自分も殺されるのか、と全身が震えた。己丘はすっと目を細める。
「魔の者に魅入られる人間は、多いんです。あなたは、脅されて従っているのか、それとも魅入られた側なのか、どちらですか?」
 リアは腰が抜けそうだったが、ぐっと堪えた。
「どうして、こんな非道な行いをするんですか」
「彼らが人間を食う魔物だからですよ。彼らは人の姿をしていますが、人間ではありません。彼らを殺さなければ、我々が殺されるんです」
「わ、悪いことなんて、していませんっ」
 己岡は同情的な顔をした。
「お可哀想に。そうやって洗脳をされてしまったんですね。大丈夫ですよ、きちんと我々があなたを治療しますから。善良な人間を救うのは、我々が神に与えられた使命です」
 黒いローブの男に、リアは担ぎ上げられた。そのとき、先ほど殺された護衛の男たちが視界に入った。
(他の皆も殺されてしまったんじゃ……)
 ぞっとすると同時に、皆が無事であることを祈った。


 リアが連れてこられたのは、今は使用されていない土蔵だった。天井からランプが吊るされているので、中は少しだけ明るい。そこに、リアは囚われていた。手足などは縛られていないが、出入り口は黒いローブ姿の男たちによって見張られている。だがそれよりも問題なのは、己岡がずっとそばにいることだった。彼はずっと、木の床の上に座らされているリアを、観察しているのだ。
「リアさん。正直に全てを語ってください」
 リアはずっと無視を決め込んでいた。己岡が話しかけてきても、無言を貫いていたのだ。
(ノエ君や、ラウル君、それにシリル先輩たちの迷惑になるようなことは、絶対にしない)
 ここまで連れてこられる途中、惨殺死体を見た。護衛たちだけではなく、屋敷にいた使用人も彼らは殺していたのだ。その中には、顔見知りの者が何人もいた。
「強情ですね。……では、仕方ありません」
 己岡が黒いローブの男を見ると、即座にハードケースを持ってきた。古びた和櫃の上に置いてケースを開くと、中から注射器と薬を取り出す。これに、リアは何をするのだろう、と怯える。
「……っ」
「怖がらなくても大丈夫ですよ。この薬は、気持ちを楽にし、素直にするものです」
 よくわからなかったが、映画などでよく見る、自白剤のようなものかと推測した。リアは逃げようとするが、すぐに体をローブの男たちに押さえつけられる。その間に己岡は注射器に薬を入れ、リアの左腕をとる。
「いやっ、やめて……っ!」
 抵抗も空しく、皮膚を突き破って注射の針を打たれた。
「いい子ですね」
 まるで幼い子供に言い聞かせるかのように、己岡が言った。それとともにリアのそばからローブの男たちが去り、体が自由になる。けれども、意識がぼんやりし、思考がおぼつかない。
(しっかりしないと……)
 そう思ったが、益々頭の中が混乱した。まるで、酩酊状態になっているかのように。
「さて、薬が効いてきたみたいですね。早速ですが、質問をさせてください。あなたはこの群狼村にいる人狼たちと、どのような関係なんですか?」
 リアは答えてはいけない、という意識が薄れていた。
「……正体を偶然知ってしまって、それで、……ペットにされました」
 こう答えると、己岡は悲壮な面持ちをした。
「ペット……。なんてことを。じゃあ、君は監禁をされていたんですか?」
「はい……。ずっと……」
 今も彼らのペットであり、勝手に村から出てはいけないと、言われている。
「人狼たちは、何人ぐらいいるんですか? あなたを捕えているのは、あなたがいた屋敷の方々ですか?」
 リアは答えなかった。己岡の質問内容はわかっているが、その質問には答えてはいけないという気がしたのだ。
「ぁ……」
「君は洗脳をされているんです。君を友人のように扱ったかもしれませんが、まやかしです。いずれ、君は連中に裏切られるでしょう。……さぁ、教えてください。君を捕えている者の名前を」
 リアは絶対に答えはしないと、唇を噛んだ。すると、唇から鮮血が顎を伝う。これを見た己岡は、すぐにリアの顔を上げさせ、唇を噛むのをやめさせた。そこで、はっと目を瞠る。
「……君は人間だと思っていましたが、どうやら違うようですね。怪我が治るということは、魔の者? だが、聖水は効かなかった」
 リアは動けなかった。彼が恐ろしいことを言っているというのはわかるが、何がどう恐ろしいのかがわからない。
「……っ」
 己岡は自らの首からぶら下げている木製の十字架を手にすると、それをリアへ近づけた。
「君が邪悪な者であるならば、これを押し当てると火傷をする」
 リアの手の甲へ、十字架が押し当てられた。けれども、何の異常も示さない。
「な、に……?」
「そんな、馬鹿な……」
 そこで、土蔵の表から悲鳴が上がった。同時に開け放たれている両開きの扉から、白い巨狼が入ってくる。
「リア!」
 己岡は背後へ跳び、白い巨狼の鋭い前足の爪をかわした。リアはその隙に、白い巨狼の背中に飛び乗る。それとともに白い巨狼は土蔵を飛び出し、外へ逃げる。
「……っ」
 意識はまだはっきりしないが、巨狼が助けてきてくれた、というのはわかった。


 リアの家にある、古びた納屋までやってきた。納屋の前で停止すると、リアは巨狼の背中から落ちる。
「おい、リア。大丈夫か?」
 巨狼が、すぐさまラウルの姿へと変わった。
「気分が……、悪い……」
「何かされたのか?」
「注射、された……」
 ラウルはリアを両腕に抱き上げると、納屋の中へ入った。扉を閉めると、ひとまず息をつく。
「屋敷へ戻ったら、襲撃を受けた後だった。悪い、戻るのが遅くなって」
「……ううん。私より、皆が……」
「屋敷に残っていたのは、戦えない連中だった。……くそ」
 ラウルは心底悔しそうだった。リアも、胸を痛める。
「ノエ君や、シリル先輩たちは……」
「荒骨山に、先に行ってる。俺は屋敷のほうを任されたんだ。……もうちょっと早く戻っていたら……」
 ラウルは話をしつつも、納屋に置かれた本棚を調べた。本棚の後ろにレバーがあり、それを下ろすと、床下が開くようになっているのだ。
「ラウル君、ごめん……。私、歩けそうにない」
「いい、お前はじっとしてろ。俺が連れて行ってやるから」
 ラウルはリアを両腕に抱いたまま、床下への階段を下りた。ひんやりしており、同時に湿っぽいニオイがする。一番下まで階段を下りると、上にある扉が閉まった。
「少し時間が経つと、レバーが自動的に上がって、扉が閉まるようになってるの」
「へぇ、なるほど」
 洞窟内は、真っ暗だった。だがラウルは、暗闇の中でも進む。
(見える)
 光などないというのに、洞窟内が見えた。天然の鍾乳洞であり、洞内は意外に広い。
「これ、ずっと下まで続いてるのか?」
 洞内は、坂道になっていた。天然のものではなく、人工的に作られた坂道だ。
「途中、縄梯子が幾つかある」
「へぇ。確かに、梯子でも使わないと、峡谷の下には出られないか」
 暫く進むと、切り立った崖が現れた。縄梯子があり、かなり長い。ラウルはリアを左腕だけでしっかり抱くと、右手で梯子を下り始めた。リアはラウルの首にしっかり両腕を回し、落ちないようにする。
「右手だけで下りるなんて、器用だね?」
「そうか? 縄梯子の端を持ってスライドさせたら、下りれるぞ」
 縄梯子を五つほど下り、やっと真下に到着した。外へ出ると、大きな岩の上だった。すぐ足元は激しい川の流れがあり、その奥にせり出した大きな岩がある。ラウルは岩から岩へ軽々と跳躍すると、空を見上げる。もう空がうっすらと夕焼け色に染まってきていた。
「リア。気分はどうだ?」
 リアは小さく頷いた。
「うん。大分ましになったよ。ラウル君、ありがとう」
「本当か? まだ顔色が悪いように見えるが……」
「頭がぼんやりしていたのは、治ったよ。でも、なんだか体が怠くて……」
「本当ならベッドの上で寝かせてやりたいところだが、今は無理だ。シリルたちと合流したいから、ここからは急ぐぞ。少し揺れるから、お前はそのままじっとしていろ」
 リアが頷くのを確認してから、ラウルは山を素早く駆け上がり始めた。
(ノエ君のときと同じだ)
 人間では絶対に不可能な速さで、山を駆け上がっていく。だがリアの体を気遣ってか、驚くほど振動が少ない。
「シリルの奴、わざとニオイを置いて行ったな。ナタナエルが後を追えるように。まぁおかげで、俺も追いかけやすいが」
 恐らく、三十分もかからなかっただろう。目的の場所へ到着をした。旧群狼村である、廃村に。村の出入り口に立っていたのは、ナタナエルだった。
「ラウル様、それに葉上様」
「悪い。屋敷が襲撃を受けた後だった。こいつを助け出すので、精一杯だった」
 ナタナエルは首を振った。
「葉上様だけでもご無事で、何よりでした」
 ラウルは村を見て、顔を顰めた。
「今、何をしているんだ?」
「片づけ、です。少々、口にするのも憚られる状態なので、少し綺麗にしています」
 それが何を意味するのか、リアにはわからなかった。だがラウルは大きなため息をつく。
「リア、お前は目を閉じていろ。絶対に、瞼を開くな」
 よくわからなかったが、ラウルの指示に従った。しっかりと目を閉じ、更に両手で目を覆う。それとともに、ラウルが歩き出した。暫くすると、声が聞こえてくる。
「ラウル」
 シリルの声だった。
「さっきナタナエルにも言ったが」
「いい、聞こえていたよ。……彼女は大丈夫なのか? 具合が悪そうだが」
「連中に変な薬を投与されたらしく、その影響で体調がすぐれないらしい。今すぐ休ませてやりたいんだが……」
 ラウルがなにやら複雑そうにしていた。
「奥に、連中が使っていたテントがある。綺麗なのが残っているはずだ」
「そうか、わかった」
 ラウルが再び歩き始めた。リアは不安になる。
「もう、目を開けてもいい?」
「ダメだ。今は特に」
 何か見せたくないものがあるのだろうか、と思い、リアは息をのんだ。旧群狼村には、教会のハンターが根城にしているのではないかと推測していた。もしもそうであるならば、シリルたちが手を下したはず。
(もしかして……)
 想像しかけて、リアはやめた。
「え? リア先輩?」
 ノエの声が聞こえた。ラウルは舌打ちをする。
「お前な、誰がここまでやれって」
「そんなことより、リア先輩、どうしたんです!」
「屋敷が襲撃を受けて、リアが連中に捕まったんだ。妙な薬を注射されたらしく、ずっとぐったりしてる」
「そんな……。早く休ませましょう。こっちに綺麗なテントがあるので、そこに寝かせてください」
 ラウルはテントへ入った。床の上に敷かれた毛布の上へリアを横たわらせると、ひとまずほっとする。
「リア、もう目を開けていい」
 リアは両手を下ろし、瞼を開けた。すると、心配そうなノエの姿と、ラウルの姿があった。
「ラウル君、ありがとう。ここまで連れてきてくれて……」
「気にするな。それより、ちょっと寝ていろ。俺も、シリルと話をしてくるし」
「うん……」
 ラウルはリアの頭を軽く撫でると、テントの外へ出て行った。テントは大型であり、台形の形をしていた。天井が高いため、立ったまま移動できる。椅子やテーブルが置かれており、広さもある。
「どこか、痛いところはありませんか?」
 ノエが心配そうに声をかけてきた。リアは微笑む。
「大丈夫だよ」
「……薬を投与された、って聞きましたが、何の薬ですか?」
「気分が楽になって、話しやすくする薬、って言ってた。……頭がぼんやりしていたから、うまく抵抗できなくて……。ノエ君たちの名前は言わなかったけれど、シリル先輩たちが人狼っていうのは、気づいているかも……」
「でしょうね。でなければ、屋敷に襲撃してくるなんてこと、しないでしょうし」
 リアは両目から涙をこぼした。そのまま、泣き続ける。
「……っ」
「どうしました?」
「屋敷に残ってた皆が……」
 そこまでしか言わなかったが、ノエには伝わったようだった。リアの手を握り、小さく頷く。
「怖い思いをさせてしまいましたね。皆のことは、きちんと後程弔います。今は、どうか休んでください。僕がずっと、ここにいますから」
 リアはノエの手をぎゅっと、両手で握った。とても悲しくて悔しくて、どうしていいのかわからない。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
 何もできなかった自分が、ただひたすらに申し訳なかった。

 

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