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​順応力の高さ

 ラルケスのメルフィノン城へは、客人として逗留することになった。城で暮らすにあたって三つの条件が言い渡されたのだが、その内の一つが、客人だという以外はここへ来た目的を明かさないことだった。つまり、ラルケスが姉のニーナと結婚をしようとしている、という話は伏せておかなければならない。二つ目の条件は、食事はラルケスと一緒にとること。彼も忙しい身なので、仕事や客人と食事をしなければならないときもある。ゆえに、必ずしも毎回一緒に食事をするわけではない。三つ目の条件は、監視役をつけることだった。監視役がつくということは、エルーテの行動を逐一報告されるということ。これは流石に嫌だと思ったので、断ろうとした。だがラルケスから「家に戻りますか?」と笑顔で威圧されたので、渋々承諾したのだ。街の宿で待っててくれている騎士たちはというと、「イザール様から、こういう事態が起きる可能性を聞かされていたので、大丈夫です」と、そのまま宿屋で暮らすことになった。予め滞在費用を多く受け取っていたらしく、もしも足りなくなった際にはイザールから追加の資金が送られてくるそうだ。おそらくイザールは、ラルケスがそう簡単に諦めるような性格ではないことを、最初からわかっていたのだろう。これを知ったとき、エルーテは持久戦を覚悟した。
「アルディ・ヘリオネルだ」
 監視役につけられたのは、十四歳の少年だった。見習い騎士らしく、短くてツンツンした黄土色の髪と、団栗(エイコーン)のような茶色の瞳をしている。いかにも活発そうであり、眉がキリッとしている。服装はシンプルな深緑色の上衣を纏い、燕麦(オーツ)色の脚衣を履いていた。
「よろしくね、アルディ」
 エルーテは親しみを込めて挨拶をした。アルディはというと、エルーテの男装姿を頭のてっ辺から足先まで見て、小馬鹿にしたように笑う。
「これまでラルケス様に取り入ろうとした女は大勢いるけど……、お前、よくその身なりでラルケス様と結婚したいって言ったな。しかも地味で、圧倒的に色気皆無だし」
 顔を見て、更に笑われた。監視役というだけあり、彼はエルーテの事情を知っているようだ。
「う……」
「お腹にくびれはあまりないし、出るとこ出てないし。これまでラルケス様とお近づきになりたい女性は全員、色っぽくて美人ばっかりだったぞ。その中じゃ、お前は一番のブスだな」
 容赦のない言葉に、エルーテは落ち込んだ。
(胸は、多分小さくないし、お尻は、さんざん揉まれたから嫌われてないはず)
 今のところ、ラルケスに悪く思われていない部分が尻だけと考え、エルーテは遠い目をした。
「えっと、今日はアルディがお城を案内してくれるんだよね?」
「あぁ。ラルケス様の命令だから、拒否権はないし、嫌々、仕方なく。俺は見習いだから、覚えることややることがいっぱいあって、忙しいのに」
 チクチクと嫌味を言われた。エルーテは、主と従者は似るのだろうか、と思う。
「まずは、どこを案内してくれるの?」
「外と中、どっちがいい?」
「外かな?」
「外だと、庭園とか、見晴らしのいい展望台とか、異国の建築家が建てた大聖堂とか……。あと観光で見れそうなのは、街に行かないといけないけれど……」
「あ、ううん。そういうのじゃなくて、この城で働いている人たちがどういった暮らしをしているのか、教えてほしいな」
 そう言えば、アルディは不思議そうにした。
「まぁ……、いいけど。ラルケス様からは、どこでも自由に見学させていいって言われているし」
 外部の者を自由に歩き回らせるなど、普通なら考えられないことだ。城の警備の配置や建物の弱点などが外部へ洩れては、大変なことになりかねない。
(どういうつもりなんだろう……)
 エルーテは怪訝に思いつつも、城を案内してもらうことにした。まずは騎士館や、使用人居住区がある場所を案内してもらうことにする。そこへ行くには、二重になっている落とし門を抜けた先にある、外壁内へ出る必要があった。
「ん?」
 アルディと一緒に歩いていると、何やら喧騒が聞こえてきた。アルディはまたか、と後ろ頭を掻く。
「鍛冶場の親父さんと食糧貯蔵室の爺さん、また喧嘩してるみたいだな」
「また?」
「十年ぐらい前に喧嘩して以来、ずーっと仲が悪いらしいよ」
 働いている者たちはかなり多く、エルーテの家とは桁違いだった。そうして使用人居住区までやってくると、見知らぬ使用人服を着た女性に声をかけられた。
「ちょっとあんた、新しい使用人かい? 暇なら手伝ってほしいんだけれど」
 アルディはぎょっとした。
「あ、ちが……、こいつは」
 エルーテはすぐに駆け寄った。
「はーい! 何をすればいいの?」
 使用人女性へ、気さくに声をかけた。
「これ、厨房に持って行って欲しいんだ。重たいけれど、持てるかい?」
 木箱に入った野菜やハーブだった。どうやら菜園で収穫されたものらしく、エルーテは軽々と持ち上げる。
「任せて! すぐに行ってくる!」
 エルーテはアルディに厨房の場所をきくと、そちらへ向かった。城の裏側に回り、使用人が出入りする扉から中へ入る。そして、厨房へ到着した。
(うわぁ、厨房も大きい)
 幾つも積まれた籠には魚があり、天井からは乾燥のハーブがぶら下がっていた。柱にはハーブで作られたリースが飾られており、奥にある食器が入っているとみられる棚は特大サイズだ。
「あんた、野菜を持ってきてくれたのか」
 料理人の格好をした男性が話しかけてきた。
「うん、どこへ置けばいい?」
「そっちの隅っこに置いておいてくれ。あともしもよければ、食器を洗うのを手伝ってくれないか。食器を洗う当番の奴がナイフで手を切ってしまって、今治療を受けに行っているんだ」
「いいよ! 食器を洗うのは得意だから、やらせて!」
 エルーテは桶に入っている食器を、裏庭にある洗い場へ運んだ。洗い場は井戸水のすぐそばにあり、エルーテ同様に食器を洗っているものが数名いる。この城はかなりの規模なので、洗わなければならない食器は多い。エルーテは鼻歌を歌いながら、食器を洗った。そして洗い終わった食器はきちんと乾いた布で拭き、食器棚の管理を任されている使用人へ託す。
「他に手伝うことはある?」
 料理人に尋ねると、今度は料理長が答えた。
「もしもよければ、この洗濯物を洗濯婦へ渡してきてくれるか。それが終わったら、こっちはもうお願いすることはない」
 大きな籠いっぱいに入った布や、汚れた調理用の作業服が入っていた。
「はーい」
 エルーテはすぐに洗濯室へ汚れ物を運んだ。洗濯婦たちは丁度休憩時間だったらしく、エルーテが持ってきた汚れ物を見て嫌そうにする。
「あー、料理長、また汚れ物を溜め込んで……。きちんとこまめに出してって、毎回言っているのに」
 エルーテは苦笑した。
「私が代わりに洗うので、休んでいてください」
「え? 洗うって、あんたできるのかい?」
「はい。家でよくやっていたので」
 エルーテは彼女たちの代わりに、洗濯をすることにした。街にある公共の洗濯場へ汚れ物を任せる場合もあるが、大きな城などでは洗濯場を専用に設けている。エルーテは慣れた様子で、洗濯を始めた。桶と洗濯用の石鹸、更にお湯などを用い、足で衣類を踏みつける、又は洗濯棒で叩いて汚れを落とす。そんな姿を、アルディは唖然とした顔で眺めていた。
「お前、本当は貴族じゃないだろ」
「え?」
「食器を洗ったり、洗濯ができる貴族なんて、聞いたことがない。しかも、すげー手馴れてるし」
「やだなぁ、褒められたら照れるよ。そんなに上手?」
「褒めてねえよ」
 洗濯を終えた後は、街にある搾油場へ油を買いに行くように頼まれた。城の馬を借りて街まで行くと、すぐに油を届けたのだ。その後夕方まで騎士館の掃除を手伝い、終わった頃には夕食の時間が間近だった。掃除道具を片付けるために納屋まで行ったのだが、そこでラルケスと会った。エルーテが彼と会うのは朝食の席以来であり、そのときは挨拶程度で会話はなかった。理由は、昨日の客室での行為が気まずく、視線すら合わせられなかったからだ。昨晩の夕食は遠慮してすぐに寝てしまったため、あの行為後に会ったのは朝だけだった。
(あ、尻公爵様だ)
 ばっちりと、彼と視線が合った。
「使用人に転職ですか? よくお似合いですよ」
 彼とキスをしたり、臀部を触られたことを意識していたが、途端に空しくなった。相手も意識をしていないので、エルーテもする必要がないと考える。
「していません」
「そうですか。では、情報収集でもしていたのですか?」
 エルーテはぽかん、とした。彼が言っている意味が、わからないからだ。
「情報収集、ですか?」
「あなたはここへ、なんの目的で滞在をしているんです?」
「それは勿論……、ラルケス様の妻になるためです」
 エルーテは眉根を寄せた。
(つまり、私がラルケス様の情報収集をしていたかどうかを、訊いた?)
 その疑問は当たっていたらしく、彼は失笑している。
「私の中で、あなたへの評価が分刻みで下がり続けていますよ」
 にこりと笑顔を向けられた。しかも口調が厭味ったらしい。
「大丈夫です。私も今のところ、ラルケス様の良いところが何一つわかりませんので。おあいこですね」
 何一つ、のところを強調して、微笑んだ。
「今夜のあなたの寝床は、厩舎に用意をしておきますね」
「私は厩舎で寝るぐらいどうということはないので構いませんけど、ラルケス様の輝かしい評判に傷がつくのではないですか?」
「普段から悪魔と呼ばれているので、今さら評判なんて気にしません」
「そうですか。でも、知りませんでした。ラルケス様に、女性を厩舎で寝かせる、崇高なご趣味がおありだなんて」
「いいえ? 単に私は、あなたに嫌がらせをするのが好きなだけです」
「まぁ。変わった趣向をお持ちなんですね。私とは合いそうにありません」
「それは残念ですね。あなたはとっても、甚振りがいがありそうなのに」
 傍に立っていたアルディが、表情を強張らせて震えていた。無理もないだろう。表情と声のトーンを少しも崩さず、互いに嫌味の応酬を繰り広げたのだから。それも、公爵である彼と。この後本当に厩舎に寝床を用意されなかったのは、奇跡と言えるだろう。


 エルーテがメルフィノン城へ滞在するようになり、一週間が経った。ラルケスとの進展は一切なく、食事のときも会話がない。食事の時間は唯一彼と話せる機会なのだが、エルーテが話しかけても無視されるのだ。
(うーん、どうしよう。困ったなぁ……)
 エルーテは城の中を歩きながら、どうするか悩んだ。
「おはよう、エルーテ」
 城内ですれ違う使用人や兵士から、挨拶をされた。エルーテも彼らに挨拶を返す。
「おはよう、アボットさん、おはよう、コレットさん、おはよう、マーティンさん」
 隣にいるアルディは信じがたい顔をしていた。
「まだここに来て一週間しか経ってないのに、城中の奴らがお前の名前を殆ど覚えてるって、どういうことだよ」
 馬車の荷卸しを手伝ったり、倉庫の整理を手伝ったり、池の掃除を手伝ったり、使用人の仕事を手伝ったりしているだけで、エルーテはすっかり有名人になっていた。直接知らない人物でさえも、エルーテへ挨拶をしてくる。おそらく、男装姿が目立つのだろう。
「名前を憶えてもらえるのって、嬉しいよねぇ」
「いや、おかしいから。普通は有り得ないし!」
 菜園で水遣りを手伝った後、エルーテは騎士たちから破れた服の修繕を頼まれた。
「いやぁ、助かるよ。お針子さんたちにお願いするの、気が引けちゃって。また破いたんですか、って怒られちゃうし」
 エルーテは騎士館で、にこにこしながら針と糸で服を縫った。その手際は早く、しかも現役のお針子に負けないほどに縫い跡が綺麗だ。
「はい、できたよ」
「ありがとう、エルーテ。君はすっごく優しいね!」
 エルーテは、別の騎士から梨(ペアー)を差し出された。
「エルーテ、これやるよ。あとで食べろよ」
「ありがとう。後でアルディと一緒に食べるね」
 梨を受け取った。甘い香りがしており、とてもおいしそうだ。
「アルディ? そういえばいつも一緒にいるけど、どういう関係?」
「友達だよ。年齢も近いし」
「あぁ、なるほどー。そうなんだー。羨ましいなぁ」
 アルディは何も言わなかったが、周りにいた騎士たちから凄まれる。
「ラルケス様からのご命令でお前を別行動させているが、ずっと遊んでいたとは。後で厩舎の掃除をするように」
 アルディはぎょっとした。
「えぇ! いや、俺遊んでないし!」
 エルーテはすかさず発言した。
「じゃあ、次は一緒に厩舎の掃除をしようか。アルディ、行こう?」
 エルーテはアルディの手を握ると、騎士たちに手を振って騎士館を出た。そしてアルディと一緒に厩舎の掃除を行ったのだった。


 エルーテが城で暮らすようになり、更に二週間が経った。エルーテがラルケスについてわかったのは、彼はいつも従者のシャルと行動を共にし、隙がないということ。以前街で貴族に逆恨みをする暴漢がラルケスに襲い掛かったが、シャルが撃退したらしい。シャルはただ従者というわけではなく、護衛も兼ねているようだ。しかもラルケス自身も相当な剣の腕前の持ち主であり、中庭で騎士を同時に五人も相手にして、余裕綽々たる様で勝っていた。兄のイザールとどちらが強いのか、気になったほどだ。
 この日、エルーテは図書室にこもり、本を読んでいた。書架にはぎっしりと本が並べられており、どれも中は手書きで文字が綴られている。活版印刷が主流の現在では、とても珍しいものばかりだ。エルーテの家では手に入れられないような、貴重な書物がたくさんあり、ついつい読み耽る。アルディは本は苦手なのか、椅子を三つ並べて寝ていた。
「……アルディ、待っていてくれてありがとう。そろそろ行こうかな」
 起こされたアルディは、きょとんとした。
「どこに?」
「今日はラルケス様が遠方に出かけてて、もうじき戻ってくると思うんだ。だからお出迎えをしようかなって」
 アルディはハァ、とわざとらしく溜息をついた。
「お前、全然諦めないんだな。ラルケス様に、ちっとも相手にされていないのに」
 たまにラルケスと城内で遭遇するのだが、その度に彼と舌戦を繰り広げた。貴族社会に慣れている兄や姉たちならば、もっと言い返すのが上手だっただろう。だがエルーテは、そういうのを不得手としていた。
「そうだよねぇ。どうしたら相手にされるんだろう」
 図書室を出ると、三階から一階へ向かうために大階段を下り始めた。丁度そこでラルケスがエントランスホールへ入ってくるのが見え、エルーテは慌てる。
「ラルケス様!」
 今日こそは、彼と話をしなければならない。エルーテは急ぐあまり、最後の一段で足を滑らせて転んでしまった。出迎えるために整列していた使用人たちは驚き、ラルケスも静止する。誰もが動けない中、エルーテは何事もなかったように起き上がり、すぐにラルケスの元へ小走りで向かう。
「おかえりなさい、ラルケス様」
 今の失態はなかったことにしようと、エルーテは誤魔化すために笑顔を浮かべた。ラルケスは呆れたように、大仰な溜息をつく。
「あなたはまるで、イノシシのようですね」
「イノシシですか? イノシシはおいしいので好きです」
「今のは褒め言葉ではありませんよ」
「はい、知っていますが何か?」
 このような軽口は、いつものことだった。だがエルーテが何者か知らない使用人たちは、ハラハラとした表情を浮かべている。
「その頭から垂れている血が見苦しいので、さっさと手当をしてもらってきてください。では私はこれで」
 立ち去ろうとしたので、エルーテは慌てて彼の腕を掴もうとした。今日こそは絶対に、話をしてもらおうと。だがあっさりかわされ、手が空ぶってしまう。
(今、私のほうを見ていなかったのに、避けた……!)
 すぐに彼を追いかけようとしたが、眩暈を感じた。階段から落ちて頭を打った反動が、遅れて出たのだ。エルーテはふらふらと後退し、そのまま両足の踏ん張りがきかなくなる。
「あ」
 倒れると思った瞬間――。
 エルーテは誰かに抱き留められていた。それが誰なのかを知って、意外そうにする。
「全く……、あなたは二度も頭を打つ気ですか」
 ラルケスだった。エルーテは彼に全身でもたれかかったまま、彼を見る。
「……さっきは避けたのに、今のは助けてくれるんですね」
「えぇ。あなたの血が床に落ちるのは、不快なので」
「それは失礼しました。あとは自分でなんとかします。助けてくださり、ありがとうございました」
 エルーテは自力で立ち上がろうとしたが、できなかった。ぽたりと額から流れ落ちてきたのは、赤い血。ラルケスはエルーテを両腕に抱き上げると、そのまま歩き出す。
「シャル。医者を呼んでください。私はこの間抜けなイノシシを連れて、彼女の部屋へ行きます」
 ラルケスはエルーテを軽々と抱き上げたまま、大階段を上がり始めた。これにはエルーテも、申し訳なくなる。
「……疲れているのに、ごめんなさい」
 彼は夜明け前に城を出て、仕事から帰ってきたばかりなのだ。余計な手間をかけさせるのは、エルーテの本意ではない。
「あなたは、私と結婚をしたいのでしょう」
「はい、勿論」
「私は、イノシシと結婚するつもりはありませんよ」
 このような失態をするような者とは、結婚できないという意味だろう。エルーテは、よりによって彼の前で失敗をするなんて、と悔やむ。
「気をつけます……」
 少し意識がはっきりしてくると、エルーテは自らの状況にハッとした。ラルケスに触れられるのはここへ訪れた日以来であり、しかも体が密着している。彼の体から香ってきたのは、オレンジを基調とした、清涼感のあるスパイシーな香りだ。おそらく体へ使用する香油を用いているのだろう。この城には異国のものが多いことから、香油も異国のものだと推察する。
(知らなかった。ラルケス様って、こんなにいい匂いがするんだ……)
 衣服の上からではわからなかったが、普段から鍛えているだけあって、体が引き締まっていた。直接体温が伝わってくるので、嫌でも意識をしなければならない。
(平常心、平常心……)
 心の中で何度もそう唱え、鼓動が速くなるのを抑える。
「ところであなたは、私のことをどう思っているんですか?」
 三階まで階段を上がりきったところで、奇妙な質問をされた。
「……これだけの大きな城をまとめ上げる手腕を持ち、聡明で素晴らしい方だと思っています」
「怒らないので、本心をどうぞ」
 エルーテはどうするか迷ったが、素直に答えた。
「ラルケス様と結婚するぐらいなら、カエルと結婚をしたほうがマシです。無視するし、性格悪いし、会うたびに嫌味を言ってくるし……。今は、ちょっとだけ優しいですけど……」
 ここまで言っては怒るかと思いきや、彼は無反応だった。相手にするのも億劫なのか、それともエルーテの言葉などどうでもいいのか。
「嫌っている相手と結婚をしようというあなたは、相当変わり者ですね」
 それもそうだった。エルーテはもう一つ、本当のことを言う。
「ラルケス様の顔だけは、気に入っているので。この世のものかと疑うぐらいには、美形ですからね」
「なるほど……。では明日から私は、仮面でもつけましょうか」
「……、ラルケス様って嫌な性格をしていますね」
「ありがとうございます」
 部屋へ到着すると、室内にあるソファーへ下ろされた。ソファーは薄緑であり、黄色い小花が刺繍された女性向けのデザインだ。部屋は日当たりがよく、窓からは海が見える。壁は薄い青緑色であり、紫色のベリーの絵が描かれていた。象嵌細工のドレッサーやマホガニーのテーブルもあり、とても豪奢。壁際には大理石のサイドテーブルがあるが、その上には銀でできた矩形の花器(フラワーベース)に、色とりどりの花が飾られていた。
 暫くすると、シャルと医者がやってきた。エルーテは怪我の手当てを受け、頭に包帯を巻かれる。そして医者から、明日まで絶対に安静にしておくようにと言われたのだ。
「ちょっと擦り剥いただけです。この包帯は、大袈裟です。もう平気です」
 不満を述べたが、ラルケスはその訴えを無言の笑みで一蹴した。


 二日後、エルーテは包帯を取ってもらった。出血の割に、大した怪我ではなかったからだ。
「……二日も部屋に軟禁しなくても……」
 じっとしていないからという理由で、エルーテは自室に閉じ込められていたのだ。当然、食事も自室でとるように、言いつけられた。せめて監視役のアルディがいてくれれば、退屈を紛らわせることができた。だが彼はまだ十四歳とはいえ、男だ。ゆえに、女性の寝室へ入ることは許されない。
(ラルケス様とは、結局話ができていない)
 エルーテは部屋を出ると、ラルケスがいる執務室へ向かった。彼は朝食の後、執務室で仕事をしていることが多いからだ。仕事の邪魔はしたくないので、エルーテはこれまで彼がいる執務室へは行ったことがない。しかしながら、このまま何もせずにいれば、姉はラルケスと結婚させられてしまう。そのため、エルーテは執務室の前へやってきたのだ。部屋の前には、シャルが立っていた。彼はエルーテに気づくと、目礼をする。
「どうかしましたか、エルーテ様」
「ラルケス様と、お話がしたいと思って」
「確認をとってまいります。少々こちらでお待ちください」
 シャルは部屋へノックすると、中へ入った。
(断られる可能性が高いだろうなぁ……)
 暫くすると、シャルが中から出てきた。
「お会いになられるそうです。中へどうぞ」
 耳を疑った。ラルケスが会ってくれるとは、思わなかったからだ。だがこの機会を逃すわけにはいかない。エルーテは部屋へ入った。執務室には書架が壁際に沿うように並べられ、たくさんの書物が置かれている。執務机は少し大きめであり、書類や筆記具が置かれていた。床には幾何学模様の立派な絨毯が敷かれており、心地の良い感触が足から伝わってくる。
「用件はなんですか?」
 ラルケスは椅子に座っており、何かを書類に書き込んでいた。顔を上げないまま質問をされたが、エルーテは気にしない。仕事を優先してくれたほうが、エルーテとしても気が楽だからだ。
「姉との結婚を諦めていただこうと思って……」
「またその話ですか」
「公爵様にとって煩わしい話でも、私にとっては大切な話です」
「……あなたは、本当に私の妻になりたいんですか?」
 問いかけの意味が、よくわからなかった。
「……? はい。なりたいと思っています」
「質問を変えましょう。あなたは、私の妻になるという意味をきちんとわかっていますか?」
 益々わからなかった。彼はエルーテから、どのような答えを求めているのか。
「意味、とは?」
「私と寝所を共にし、子作りもするということですよ」
 エルーテはむっとした。
「バカにしないでください。それぐらい、とっくに覚悟の上です。私は遊びや冗談で、ラルケス様の妻になりたいと言っているわけではありません」
 ラルケスはここで初めて、顔を上げた。筆記していた手を止め、エルーテへ視線を向ける。その眼差しは、まるで硝子のようにどこか冷ややかだ。
「理解しているようには見えませんね。あなたは寝所で、屈辱的な行為に耐えるということですよ」
 どういう屈辱なのだろうと、エルーテは一瞬怯んだ。だが珍しいことに、彼が自分と向き合ってきちんと話をしてくれている。だから、エルーテも真摯に答えた。
「ラルケス様がしたいことなら、できるだけ望みを叶えられるように頑張ります。でもあまりにも度が過ぎる要求や、苦痛を強いるものなら、はっきり嫌だとお断りします。鞭で打たれたり、出血を伴うような暴力行為はお断りします」
 彼は少しばかり考え込むような仕草を見せた。どうやら、質問に対する答えが微妙に違ったようだ。
「……あなたは処女だと思っていたんですが、もしや男性経験があるんですか?」
 信じられないような質問をされた。エルーテは目を大きく見開き、真顔になる。
「あると思いますか。私に」
「ないだろうとは思いましたが、絶対とも限りませんので。見かけによらず、なんてことはよくありますから」
 今の彼の質問から察するに、先ほどの屈辱的な行為に耐える、というのがどういう意味だったのかを理解した。
(つまり、寝所で屈辱的な行為って、男女の営みそのものを指していた?)
 カエルと結婚するほうがマシだと言ったので、嫌いな相手に抱かれるのは屈辱ではないかと訊いたのだろう。エルーテはてっきり、閨での変態的な行為を指していると思ったので、勘違いに恥ずかしくなる。しかしながら、エルーテが間違うのも無理はなかった。なぜなら、この城へ初めて来た際に、彼から臀部を触られるという、奇想天外な経験をしているからだ。それゆえに、エルーテは臀部を揉まれる以上の、それも屈辱を伴うような行為を想像してしまったのだ。そしてもう一つ。
(……よく考えると、奇妙な質問……。ラルケス様は性格に難があるとはいえ、容姿も家柄も全てにおいて完璧……。なのにどうしてそんな、自分に自信がないみたいな質問をするんだろう。まるで自身が汚れた存在であるとでも、言っているかのような。もしも高慢な性格をしている人なら、自分に抱かれることを光栄に思いなさい、ぐらいは考えそうだけれど……)
 今の質問を詳しく尋(き)いたところで、どうせはぐらかされるだろう。それに、エルーテの考えすぎ、ということもある。ならばと、エルーテは彼の存在を肯定する答えを返す。
「私はラルケス様のお心に、少しでも寄り添えるように励み、好きになる努力も怠りません。だから、ラルケス様に抱かれることは、絶対に屈辱的な行為にはなりません」
 先ほどの質問の問いを返した。
「なるほど。私は少し、あなたを誤解していたようです。あなたが外見通りの、無能な小娘ではないと」
 さりげなく侮辱された。彼から、無能だと思われていたようだ。だがなぜ評価が変わったのか。
「評価が上がった理由はわかりませんが、ありがとうございます」
 ラルケスはにこりと微笑んだ。
「では早速ですが、そこで後ろを向いてください」
「後ろ? こうですか?」
 くるりと背を向けた。ラルケスが席を立つ気配がし、エルーテは何をするのかと身構える。彼はエルーテの背後に立つと、エルーテの前へ両手を伸ばした。そしてエルーテが着用している男性物の胴衣の紐を解き、脱がせる。
「ラルケス様、あの、何を」
「あなたを妻にするかどうか、少し検討する気になっただけですよ。何かを購入する際、私は必ず自分の目で確認をしなければすまない性質なので」
 エルーテは微妙な心境だった。自らは物ではない、と。
「検討をしていただけるのは嬉しいんですが、なぜ服を脱がせる必要が……、っあ!」
 背後から、左耳を食まれた。輪郭をそろりと舐め上げられ、エルーテは体を縮こまらせる。
「黙っていてください。気が散ります」
 背後から器用に、男性物の白い前身頃(シャツ)を脱がされた。それとともに上半身が露わになるのだが、ラルケスは不可解そうにする。
「これは……、なんですか?」
 エルーテの上半身は、長い布で幾重にも巻かれていた。
「これは胸の厚みをなくし、腰のくびれを消すために巻いています。でないと、男性の服が着れませんから」
 胸があれば前が閉じられず、腰が細ければ脚衣が穿けない。そのため、エルーテはいつも包帯のように長い布を、上半身へ巻きつけているというわけだった。
「腰回りや肩がしっかりしていて、やけに少年のようだとは思っていましたが……」
 そう言われ、エルーテは得意げに笑った。
「肩幅を出すために、前身頃の肩部分に綿を詰めて、工夫をしているんです」
「なるほど。確かに華奢な肩をしていますね。ところで、どうして故郷では男装を?」
「それは勿論、動きやすいからです。女性の服では走れませんし。二つ目の理由は、相手に女性だと認識させないためです。中には媚を売ってるとか、色気でなんとかした、って言いがかりをつけてくる人がいますからね。私には色気なんてないのに」
 しゅるりと、何かが落ちた。エルーテは何が落ちたのだろうと、足元を見る。するとそこには、自らの腰と胸に巻いていた布があった。エルーテは上半身が裸と知り、すぐに両手で胸元を隠そうとする。だが書架がある方へと背中を押された。エルーテはよろけると、そのまま書架へ両手をつく。
「なにを、ラルケスさ――」
 背後から両胸を掬うようにして、彼が胸に触れていた。
「かなりの大きな胸ですね。私の認識を誤らせるなんて、大したものですよ」
 白い柔肌の胸はかなりの豊かさがあり、ラルケスの掌でも受け止めきれないほどだ。エルーテはどうしていいのかわからず、困り顔をする。
「そ、それはどうも……。じゃあ、そろそろ服を着てもいいですか?」
「何を言っているんですか。あなたを確認する作業は、まだ終わっていませんよ」
 ゆっくりと胸を回転させるように、揉み始めた。エルーテはびくりと、体を震わせる。
「あ、あの、これのどこが、確認……っん」
 布で押さえつけられていた胸は、揉まれることによって血の巡りがよくなったようだった。揉まれるほどに感度が高くなり、次第に心地よくなっていく。
「どんな質感で、どんな柔らかさなのか。色や匂い、全ての確認ですよ」
 匂いとまで言われ、エルーテは急激に恥ずかしくなった。なぜなら、エルーテは彼のようにいい匂いがする香油などは、使っていないからだ。それはつまり、素のままの香りを、彼に嗅がれるということ。
「や、やだ……っ、いやっ」
 ぶんぶんと首を振った。だがラルケスは胸を揉むのをやめず、しかもエルーテの耳をそろりと舐め上げる。
「どうしたんですか? 痛いことはしていないでしょう。続けますよ」
 そう言って、普段の素っ気ない態度からは想像もつかないほど、甘く耳朶を吸われた。エルーテの鼓動は一気に速くなり、何とも抗いがたい刺激に体が震える。
「ん……ぅっ」
 耳の曲線に沿うように唇を摩りつけられ、かと思えば耳孔へと舌を入れられた。エルーテは立っていられず、体から力が抜けそうになる。だが書家の棚にもたれかかることで、なんとか堪える。
「随分と息が上がっていますね。……あぁ、そうそう。この部屋の外にはシャルがいるので、声を出せば聞かれてしまいますよ」
「っ!」
 エルーテは恥ずかしさで、耳まで赤く染まった。やめてほしいと言いたいが、ラルケスは胸をずっと揉み続けていた。はじめは弱かった心地のいい感覚が、今はかなり強くなっている。だというのに、彼は胸の頂を指でつまみ、コリコリと指の腹で転がす。
「んぅ……っ! や、そこ、やめ……っ」
「全くあなたは、はしたない娘ですね。胸を揉まれて興奮して、ここを勃(た)ち上がらせるなんて。そんなにも、気持ちがいいんですか?」
 楽しむように、彼が問いかけてきた。エルーテは胸の頂を揉まれる度に、下半身から駆け上がってくる痺れのようなものに堪える。だが疼きは強まっていき、目じりに涙が浮かんだ。胸をコリコリと刺激されると、どうしようもない快感が全身を包み込んでいく。
「……っは、あ……、ん、ラル、ケスさま……」
 彼の思うがままに、身体を支配されていた。下腹部の熱がどんどんと強くなり、息も熱を帯びる。ラルケスはエルーテの首筋を下から上へと舐めあげ、かと思えば耳を軽くしゃぶる。
「てっきりあなたは、お尻しか褒めるところがないと思っていましたが、極上品の胸をお持ちなんですね。気に入りました」
 未だに、彼は胸の頂を指先で転がしていた。エルーテは早くやめてほしくて、頭を振る。
「……ん、手を」
「そうそう。こちらももう一度、確認をしておきましょう」
 右手が胸から離れ、ウエスト部分の細いくびれを撫でてから、脚衣の中へ入った。臀部を大きく一度撫でられ、次に形や感触を確かめるように、なぞられる。
「い、や……」
 くすぐったいと感じたのは一瞬で、すぐに臀部を触る手つきがおぞましいほどの快感を伴う。反射的に下半身がきゅんとなり、体内から液体が出るのがわかった。エルーテは胸と臀部の刺激を双方から受け続け、思考が明滅する。
(自分で胸やお尻を触っても平気なのに、どうしてラルケス様に触られると、おかしくなるの)
 我慢しようにも、喘ぎ声が度々漏れてしまった。そしてできるならば、脚の間が濡れていることに気づかないで欲しい、と祈る。性的な快感を受けると自然と濡れる、というのは、つい最近知ったばかりだ。だが祈りも空しく、ラルケスの指の先端が割れ目に当たった。それだけで、割れ目の間に溜まっていた大量の蜜が零れ落ちるのがわかってしまう。
「あなたは愉快な人ですね。嫌だと言いつつ、こんなにもだらしなく濡らしているんですから。私はただ、あなたの体を確認しているだけだというのに」
 なんだか腹が立ったので、胸に置かれているラルケスの手を、ぺちんと叩いた。こんな風にしているのは、彼だからだ。
「し、仕方がないじゃないですか……。私は今まで、こんな風に触れられたことはないんですから。私をはしたなくしているのは、あなたです」
 拗ねた口調で言えば、肩へ唇を落とされた。まるで宥めるような仕草であり、その動作だけで吐息が震える。
「私のせいにするだなんて。困りましたね」
 脚衣から手が引き抜かれ、エルーテは彼のほうへ体の向きを変えさせられた。一瞬遅れてハッとすると、胸を隠さなくてはと両手で隠そうとする。だがその前に、エルーテはラルケスによって顎を持ち上げられ、唇を奪われていた。
「んっ」
 驚きで唇を薄く開いてしまったのだが、その隙間から彼の熱い舌が入り込んできた。合わさった唇から呼吸が漏れ、エルーテは混乱する。しかも右手は書架に縫いとめられるように押さえつけられており、動けない。
(舌が――)
 肉厚で滑らかな舌が、エルーテの口腔を犯していた。エルーテの舌を絡みとって、濃厚な口づけを求められたのだ。だがエルーテはどうしていいのかわからず、怯えて舌を引っ込める。
「……もしもあなたを妻にするなら、キスの仕方も教えなければいけませんね」
 僅かに唇を離して、彼はそう告げた。エルーテは恨めしそうな目で、彼を見上げる。なんとなくわかってはいたが、ラルケスは相当女性慣れをしている。きっと彼からすれば、何もわからない生娘など、大して面白くはないだろう。エルーテはそれがなんとなく不愉快で、彼の唇へ自分から唇を寄せて軽く啄む。とても大胆な行動に出たと思うが、仕方がない。
「私がこの城にいるのは、ラルケス様を誘惑して、私と結婚をしていただくためです。キスが下手だというなら、上手になってみせます」
 そう告げれば、彼はとても珍しいものを見るような表情をした。だがすぐに、わざとらしい満面の笑みを浮かべる。
「あなたに私を誘惑するのは、無理ですね。そういう発言は、女性の魅力と色気を兼ね備えてから、してください。まぁ、あなたには逆立ちしても一生できないでしょうが」
 そう言って、再び唇へ口づけられた。彼は舌の先端でエルーテの上顎をなぞりあげ、わざと擽る。たまらずエルーテは舌を動かすが、待ち構えていたかのように絡みつかれた。それはまるで、蛇を彷彿とさせる。
(……そういえば、ラルケス様の紋章って、一つの胴体に三つの頭を持つ蛇)
 一度獲物が巻きつかれれば、逃げ出すことは難しい。事実、エルーテの今の状況と酷似していた。彼の口づけを享受し、咥内を蹂躙されているのだから。だが時折唇を優しく吸われ、エルーテはくらくらした。あまりにも甘く、虜になりそうなほど。
「ふ……ぅ……ん」
 ラルケスの顔が間近にあるのが恥ずかしく、エルーテはずっと目を閉じていた。それはより一層感覚を鋭敏にし、エルーテは腰が疼くような感覚に見舞われる。熱いドロドロとしたものが下腹部で熱を持ち、また脚の間がぐっしょりと濡れるのがわかった。しかもそれを見透かすように、彼は空いている右手でエルーテの胸を揉み、愉しそうに目を細める。
「困った方ですね。気持ちよさそうな顔をして」
 油断していたエルーテは、動揺した。先ほどは背後からだったが、今は前から彼に胸を揉まれているのだ。背後から揉まれるよりも羞恥心が増し、軽く混乱に陥る。
「ひゃ……、む、胸……っ、ダメッ」
「あなたの乳首(にゅうしゅ)は、まるでピンクパールのようですね。形がよくて、丸みがある」
 口では真面目に語っているが、揉み方は大胆だった。自らの胸が彼の指の動きによって形を変え、それがとても淫らだ。とても見ていられなくて、押さえつけられていないほうの左手で、ラルケスの手首を掴む。
「恥ずかしいです!」
「あなたは、私の妻になりたいと豪語しておきながら、自らの体を使って誘惑する気概はないのですね。がっかりですよ」
「――っ」
 頭ではそうしなければならないと、わかっている。だが恥ずかしさが消えてくれないのだ。ラルケスは愉しげにしており、エルーテの顔を覗き込む。
「そういえば、あなたがなぜ私と姉を結婚させたくないのか、配下に命じて調べさせました」
「え?」
「あなたの姉であるニーナには、恋人がいるようですね」
 隠していたわけではない。いずれ話そうと考えていた。だが結果的に隠していたことになり、エルーテは頭から氷水を浴びたように青ざめる。
(ラルケス様がどういう人か、まだ全然わからないけれど、ここで黙ったり言い訳をするのは悪印象になる)
 それだけは、確実にわかった。エルーテは少し間を置いた後、頷く。
「黙っていたことは、謝罪します。ラルケス様の仰るとおり、姉には添い遂げたい男性がいます。そして私は、姉を結婚させるために、ラルケス様からの支援をいただきたいのです」
 自らが打算的な性格をしていることを、はっきりと認めた。
「勝手な都合ですね。では質問をしますが。あなたは、ご自身に価値があると思っているんですか?」
「価値?」
「あなたの姉を調べるついでに、あなたのことも調べておきましたよ。なんでもフィルラング家の末娘は、怠惰でいつも遊んでいて、男装をしている変わり者だと。勤勉な姉とは、随分違うそうですね」
「それは……」
 エルーテは場の悪そうな顔をした。自らにそういう噂が流れているのは知っている。しかしながら、その噂について弁明をすれば、言いたくないことまで話さなければならない。それは、エルーテにとっては触れられたくない、深い傷を抉ることになる。
(……黙っているのはよくない。でも、言いたくない)
 もしも隠していることを話せば、彼はより一層、エルーテを妻には迎えようとしなくなるだろう。なぜなら、不利益をもたらすことになるからだ。
「私の手首から、手を離してくれませんか。あなたの胸を揉めば、少しぐらいはあなたとの結婚を考えるかもしれませんよ」
 エルーテはしょんぼりと、眉尻を下げた。真面目に考えていたというのに、残念な発言をされたからだ。
「そういうウソはダメです。私の胸を揉んで、ラルケス様が結婚を考えてくれるとは思えません」
「おや……。あなたが考えているよりもずっと、私はあなたの体に魅力を感じていますよ」
 果たしてそれは事実なのか。彼は先ほどからずっと、エルーテの胸の輪郭を指でなぞって遊んでいる。自らの体が取引材料になるとは到底思えないが、試すことにした。
「……では、私と取り引きをしてください」
「内容によります」
「私の胸はラルケス様の自由にしてくださって構わないので、今後私から話しかけたときは無視をせず、きちんと相手をしてください。忙しくて暇がないなら、私のために時間を作ってください」
 現在において実現可能な取り引きは、おそらくこの程度だろうと考えた。実現不可能な要求は、姉を諦めてほしい、実家に支援をしてほしい、などだ。
「わかりました。いいでしょう」
 拍子抜けするぐらいに、彼はあっさりと承諾した。エルーテは驚く。
(もっと渋ると思っていたのに、どうして)
 疑問に思っていると、ラルケスはその考えを見抜き、答えた。
「言ったでしょう。私はあなたの体に魅力を感じている、と」
 右手を引かれ、執務机の上へ押し倒された。腰から上に天板の冷たい感触が広がり、両足は宙に浮く。
「きゃ……」
 彼はエルーテを見下ろしていた。まるで悪魔を髣髴とさせる赤い相貌が、エルーテの上半身を捉える。
「あなたから持ちかけた取り引きです。今更なかったことには、させませんよ」
 彼はエルーテのわき腹や鳩尾、更に鎖骨にかけて掌を滑らせていく。それはまるで、芸術品を愛でるような仕草だ。
「なかったことになんて、しません……」
 なぜかはわからないが、悪魔と取り引きをしてしまったかのような気分だった。ラルケスはエルーテの胸を両手で覆うと、揉み始めた。自分の痴態を見ていられず、エルーテは顔を背ける。胸を揉まれれば、また先ほどの下半身の疼きが始まった。
「この両胸は、今日から私の所有物になりました。私が触れたいときに触れ、自由にします。わかりましたね?」
「はい……」
 返事をした直後、ラルケスはエルーテの左胸の先端を、口に含んだ。そんなことをされるとは思っていなかったため、反射的に膝が上がった。
「や、や……っ」
 先端を吸われたり、舌でチロチロと舐められているのがわかった。体が震え、例えようのない感覚が全身を駆け巡る。咄嗟に彼の肩に手を置くが、それとともに軽く乳首を噛まれる。
「抵抗は許しませんよ。あなたは取り引きをしたんですから」
 より一層、胸を味わうように、舐められた。胸の突起は先ほどよりも赤みが増し、珊瑚のような色になっている。
「……っ、て、抵抗なんて……」
 乳房を吸われるたびに、痺れにも似た快楽が走った。左胸は彼の唾液で濡れており、とても淫猥だ。彼は本当に胸を気に入っているらしく、触り心地を堪能するかのように揉んでは口づける。しかも、エルーテへと確実に刺激を与える方法で。
「どうしましたか?」
 胸だけをひたすらに弄ばれ、呼吸が乱れた。エルーテはそれとなく、彼がやめるように誘導する。
「そ、そろそろ、飽きましたよね? 私の胸」
「いいえ? 少しも飽きませんが」
 胸の先端を舐め上げられ、エルーテの体が跳ねた。その反応が面白かったのか、彼はエルーテが感じてしまう部分ばかりを、巧みに触れる。数分もすれば飽きると思いきや、彼はずっとエルーテの胸を愛でていた。その間エルーテは完全に甘い責め苦を受け続けることになり、悶える。
「んんぅっ!」
 胸を大きく揉まれ、エルーテは目に涙を浮かべた。だがそこで、正午を報せる鐘の音が響く。ラルケスは不機嫌そうに、上半身を起こした。
「……午後からは出掛ける予定があるので、今回はここまでにします」
 ようやく解放されたことに、エルーテはほっとした。まだ胸がじんじんしており、今も触られているような錯覚を覚える。
(うぅ……、やっと終わった……)
 ラルケスは不思議そうに、軽く首を傾げた。
「なぜ、安堵の表情を浮かべているんです。その胸は私のものになったのですから、今後は私が呼び出したときは、きちんと胸を差し出してくださいね。もしも私の言うことをきかなければ、その胸に私の名前を刻みますから、そのつもりで」
 恐ろしいことを言われた。ナイフで刻まれるのか、それとも焼印を押されるのか。どちらも絶対にしたくない。エルーテは机の上から下りると、すぐに胸と腰を布で巻いて服を着た。
(ラルケス様のこと、尻公爵だけでなく、乳好き公爵とも呼ぼう)
 心の中で軽口を叩くと、憂鬱な気分が少し晴れた。
「あぁ、そうそう。忘れていました」
「……? どうかしましたか? ラルケス様」
 エルーテが振り返ると、彼はにこりと微笑んだ。
「私の部屋に、あなたの兄から届いた手紙があります。お渡しするのを、すっかり失念していました。私は忙しくて無理なので、ご自分で取りに行ってください。部屋の鍵は預けますから」
 エルーテはラルケスより、部屋の鍵を受け取った。


(ラルケス様に騙された……)
 先ほどの行為中、部屋の外にはシャルが立っているから声を出せば聞かれる、と言われたが、誰も立っていなかったのだ。エルーテはキスされたことなどを思い出しそうになり、慌てて首を振る。
 ラルケスの部屋へ到着すると、鍵を使って中へ入った。室内は予想以上に豪奢であり、広々としている。まず目に留まったのは、正面にあるマホガニー製の大きなショーケース。そこには、異国のものらしき品が幾つも陳列されていた。部屋の左奥には風除けや着替えの際に使う屏風(スクリーン)があり、金箔がふんだんにあしらわれている。天井を見上げれば、楕円形(メダイヨン)の見事な壁面装飾があった。
(どれもきっと、一級品ばかりなんだろうな……。細部にまでこだわりが感じられる)
 部屋の中央にはローズウッドのテーブルと椅子があるのだが、釣鐘状の花の象嵌がされていた。エルーテは、そのテーブルの上に置かれているものへ注目をする。封蝋で閉じられた手紙があり、宛名はエルーテになっていた。差出人は当然、兄だ。
「あった。これだよね。……ん?」
 手紙の傍に、本があった。表紙は、観察記録となっている。
「観察記録……? どんな内容の本だろう?」
 非常に気になった。表紙をめくり、中を確かめてみる。
(あれ? これ、手書き? じゃあ、もしかして図書室にあったものを、部屋に持ってきたのかな?)
 とても綺麗な文字が綴られているのだが、その中に気になる単語がいくつかあった。文章を読んでみるのだが。
「――今日からこの城に野鼠が暮らすことになりました……? 監視役をつけて、これから毎日報告をさせます……?」
 日付も書き込まれているのだが、記録が開始されたのは、エルーテが城へ訪れた日だ。これにより、本は既存のものではなく、ラルケスが書いた手記だと知る。
「これ……、もしかして全部私のこと? 野鼠って書かれてるけど……」
 微妙にショックを受けつつも、最近の日付の文章を読んでみる。
「城へ住み着いたのは野鼠だと思っていましたが、どうやらイノシシだったようです……」
 エルーテは、ラルケスにイノシシと呼ばれたことを思い出した。彼の中では、エルーテは人間ですらないようだ。エルーテはそっと本を閉じると、何も見なかったことにしようと決めた。

 

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