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交渉
エルーテが目を覚ましたとき、信じられないような状況だった。
(え……!)
目の前に、ラルケスが眠っていた。エルーテが寝ている側へ、体を向けている。
(わ……。ラルケス様の寝顔……)
彼の寝台で何度か眠ったことがあるが、彼の寝顔を見るのは彼が病気で寝込んだとき以来だった。彼はいつもエルーテよりも遅く寝て、エルーテよりも早く起きるからだ。
(改めて思うけど、ラルケス様って本当に綺麗な顔立ちだなぁ……)
間近で観察した。睫毛が長く、肌は極め細やか。とても男性の肌だとは思えない。
(寝顔、可愛い。もっとくっついちゃおうかな?)
彼を起こさないように、慎重に体を寄せた。そして彼の体に寄り添う。すると、彼の匂いを感じた。どこか妖艶で、それでいて甘くて苦い、不思議な香り。
(私、昨晩ラルケス様に抱かれたんだよね?)
腰に違和感はあるが、痛みはなかった。体には服が着せられており、彼がしてくれたのだと察する。
「ラルケス様、大好き」
無意識の内に、そう呟いてしまった。するとラルケスの指が、エルーテの頬へ触れる。
「おはようございます」
エルーテは今の呟きを聞かれていただろうか、と焦った。聞かれても問題のない発言だが、非常に気まずい。
「お、おはようございます」
「体調はどうですか?」
「えと、元気です」
「そうですか」
彼は体を起こすと、寝台から出た。エルーテも体を起こす。そうして棚にある時計を見るのだが、もうすぐ昼になろうとしていた。
(嘘! もうこんな時間?)
ラルケスは服を着替え始めた。エルーテは寝台から慌てて飛び降りると、室内履きを履いて、すぐに彼へ駆け寄る。そして、服を着替えるのを手伝った。
「服ぐらい自分で着れるので、手伝わなくても結構ですよ」
「手伝わせてください。ラルケス様、お仕事があるのに……。私がもっと早く起きられれば」
彼と少しでも一緒にいたくて、彼に寄り添って喜んでいた自分を叱咤した。だがラルケスはエルーテの顎を指で捉えて持ち上げると、唇へキスをする。
「午前中は休むとシャルに伝えてあるので、大丈夫ですよ。夜明け頃に湯浴みをしたんですが、そのときシャルに会ったので」
「え? そう、だったんですか……」
エルーテはラルケスに抱きしめられた。そして頬に手を添えられる。
「あなたの寝顔を見るのが楽しくて、ずっと眺めていました。あなたはゆっくり湯浴みをして、今日は大人しく部屋で休んでいなさい」
「はい……」
彼に労わられるなど、これまでなかったことだった。エルーテの心臓は痛いほどにドキドキし、どうしていいのかわからない。戸惑っていると、頭を撫でられた。彼を見上げれば、穏やかな表情で微笑んでいる。それを見た途端、エルーテの顔は一気に赤くなった。彼の反則的なまでの、優しい笑み。
「いい子ですね」
唇へキスをされた途端、エルーテは腰から力が抜けて床へ座り込んでしまった。
「……っ、……あれ? 立てない……」
エルーテはラルケスに体を支えられ、ソファーに座らせてもらった。
「落ち着いてから、部屋を出なさい。いいですね? くれぐれも転んで怪我をしないように」
「はい。ありがとうございます……」
ラルケスはもう一度エルーテの頭を撫でると、部屋から出て行った。エルーテは両手で口元を覆い、どうにか感情を落ち着かせようとする。
「うぅ……。ラルケス様が優しすぎて、くらくらする……」
これまで冷たい仕打ちをされてきたこともあり、優しくされるとどうしていいのかわからなかった。
湯浴みや食事を終えた後、彼の言いつけどおり、部屋で大人しくすることにした。図書室から借りた本があるので、それを読むことにする。だが、思い出すのは彼のことばかり。
(……ラルケス様……)
昨晩の行為や今朝のことを思い出しては、一人悶えた。室内に一人で良かったと、心から思ったほどだ。しかしながら暫くして、部屋へシャルが訪れた。彼の背後には使用人たちがおり、部屋へ様々なものを運び込んでくる。それは、織物や緻密な細工が施された小物入れ、更には宝石のついた装飾品だ。
「シャル、これは?」
彼は恭しく答えた。
「ラルケス様からエルーテ様への贈り物です。どうぞお受け取りください」
「贈り物って……」
使用人たちはすぐに下がった。エルーテは混乱した様子で、織物や装飾品を見る。どれも一目で高価だとわかるものばかりだ。
「貰う理由がありません……」
「どうか、拒否はなさらないでください。ラルケス様は、エルーテ様とご結婚できることを、心から喜んでおられるのです」
「え?」
シャルはどう説明しようか、悩んでいるようだった。暫し沈黙後、話し始める。
「ラルケス様の生い立ちに関して、少し聞き及んでいると思われますが、ラルケス様にとって家族とは、あまりいいものではなかったのです。でもエルーテ様と出会い、家族になりたいと望まれました。これは、とても特別な意味を持ちます。ラルケス様にとっては、初めての愛する家族なので。ですから、どうかラルケス様のことを、よろしくお願いいたします」
シャルに改まった口調で言われ、エルーテは表情を引き締めた。
「はい。ラルケス様を、必ず幸せにします」
しっかりと頷けば、シャルはほんの微かに微笑んだ。
(シャルが笑った……!)
だがそれは一瞬のことであり、彼はすぐに無表情へ戻った。エルーテは、とても珍しいものを見たと、内心喜ぶ。シャルにとって、やはりラルケスは特別な人なのだろう。
「そういえば、今度シュバール国の使者が来ると、噂で聞いたんですが……」
「はい。その予定になっております。……あちらの国では今、現政権に不満を持った民衆が革命軍に加わり、大規模な反乱が起きているようです。かなり、深刻な事態みたいですね」
そう説明をされ、エルーテは普通に聞き流しかけた。だがふと、脳裏に過ぎったのだ。シュバール国を欲していた彼が、一体どのようにして手に入れようとしているのかを。同時に、その手段に気づく。
(いやいや……、いくらなんでも)
自分の突飛した考えに、首を振った。だが否定をしようとすればするほど、現実味を帯びる。エルーテは自分の考えを無視できなくなって、右手を口元に当てた。
通常は民衆の反乱など、軍がすぐに鎮圧をする。だがそうならないということは、優秀な指揮官がおり、更にはバックに豊富な資金源があるということだ。そしてエルーテには、その優秀な指揮官と資金源に、心当たりがある。
(まさか……)
ラルケスは四年前の北の大国との戦争で指揮を執り、フレリンド王国に勝利をもたらした。もしも優秀な指揮官がラルケスならば、シュバール国の反乱が鎮圧されない説明がつく。しかも彼には、潤沢な資金もある。
エルーテが蒼白になって沈黙していると、シャルが小さく頷いた。
「……エルーテ様は、本当に聡明なお方ですね」
その口ぶりからして、エルーテの考えは間違いないようだった。つまり現政権を転覆させた後、彼の手の者を、王座へ据えるつもりなのだ。
(ラルケス様が怖い人って、わかっていたつもりだけれど……)
改めて、恐ろしい人物なのだと知った。
夕食前に、ラルケスが部屋へ迎えに来た。エルーテは落ち込んだ表情で、彼を見る。
「……シャルが余計なことを漏らしたようですね」
彼の言葉に、エルーテは首を振った。
「シャルを罰さないでください。彼は、悪くないです。……シュバール国のこと、どうするんですか?」
「どう、とは?」
反乱に乗じて、シュバール国へ軍を派兵する可能性を考えた。内乱を鎮圧するためという大義名分があれば、十分可能だ。
「ラルケス様。酷いことはしないでください……。復讐をしても、あなたの飢えや渇きは決してなくなりません」
「……シュバール国の現政権が腐敗しているのは、間違いありませんよ。民が病や飢えで次々と死んでいるというのに、宮殿にいる王は毎夜宴を開いているので。私は民の不満を、ほんの少し後押ししただけにすぎません」
「でもその後押しで、たくさんの人が亡くなるのでは……」
「そうですね。極力犠牲が少ない手段を取るつもりですが、最低でも数万人の命は亡くなるでしょう。でも現在あちらでは圧政が続いていて、年間二百万人以上もの罪なき民が亡くなっています。なので、少ないほうですよ。それに、反乱軍のほうにはできるだけ被害がでないよう、優秀な指揮官をあちらへ忍び込ませています」
「二ひゃ……」
想像もつかない数だった。
「あの国では、病が流行すれば民を隔離し、飢えている者たちは見殺し、政府を批判する者は投獄し、反逆する者には容赦ない拷問と処刑。自分たち以外の民族は淘汰するだけでなく、異民族であるというだけで奴隷にします。男性は家畜のように重労働を課せられ、女性は性奴隷にとして売られます。強盗や殺人は日常茶飯事で、正に犯罪の坩堝のような国です。他にもまだありますが、聞きますか?」
エルーテは口元に手を抑え、首を振った。
「ラルケス様は……、シュバール国をどうしたいんですか?」
「将来的には、フレリンド王国の属国にしたいと考えていますよ」
ぞっとして、エルーテは自らの両腕を掻き抱いた。四年前の戦争は、自国を守るためのものだった。だがこれは違う。侵略だ。もしも彼が救済だけを真の目的として行っているのならば、エルーテも止めなかっただろう。しかしながら残念なことに、彼が目的としているのは復讐だ。
(苦しんでいる民たちを解放するまでは、いい。でもその後は……)
圧政に苦しむ民たちを助けるためだけに、彼がここまで壮大な計画を遂行するとは思えなかった。もしもシュバール国が属国になれば、今とは異なる意味で自由を奪われるのではないだろうか。
エルーテは蒼白になって、震えた。通常ならバカバカしいと言える話だが、彼ならば必ずそれを実現させるだろう。
(じゃあ、見殺しにするの? 年間二百万以上の民が、圧政によって死んでいるのに。こうしている今だって、毎日多くの人が亡くなって……)
もしもここで彼を止めれば、内乱は収まる代わりに、再び年間二百万もの民が犠牲になる。かといって止めなければ、彼はいずれ属国にするという。
「……どうすれば、それはやめていただけるんですか? ラルケス様なら復讐ではなく、救済だけを行うことが可能ですよね?」
シュバール国の苦しんでいる民を、救ってほしい。だが属国は認められない。遠回しながら、エルーテは意見を述べた。ラルケスはエルーテの前に立つと、両手をエルーテの腰の後ろへ回して指を組む。
「私のことを随分と高く買っていただけて光栄ですが、そんな器用な人間ではありませんよ」
「茶化さないでください。私は真面目に話をしています」
もしも彼がこのまま手を引いたとすれば、シュバール国で毎年多くの罪なき民が犠牲になる結末となる。それは最も避けたい未来だ。
「あなたは勘が良くて時折鋭いですが、交渉は下手ですね。自分が欲するものを相手に悟らせるのは、愚策ですよ」
「そう言われても……」
「まぁ、あなたが相手ですので、そこは大目に見ましょう。……で、あなたは私が復讐をやめるかわりに、何を差し出しますか?」
差し出せるものなど、見当もつかなかった。だがエルーテは、必死に考える。
「私、ラルケス様に差し出せるものなんて、何も……」
「では、私が欲しいものを言いましょう。あなたの全てをください」
「え?」
困惑した。冗談かと彼の目を見つめるが、どうやら本気のようだ。
「あなたの全てと引き換えなら、考慮しましょう」
自分を差し出すぐらいで彼がやめてくれるならば、それぐらい構わない。だが、とエルーテは止まる。
(ラルケス様の私への評価、結構高いんだなぁ……)
ラルケスにとっての評価基準はよくわからない。だがおそらく、彼にとってエルーテは余程価値がある存在なのだろう。ならば全てを差し出すという選択肢は、不正解だ。
「私が差し出せるのは、足かお尻だけです。全部はあげません」
「おや、いいんですか? シュバール国の民がどうなっても」
「さっき、ラルケス様が仰ったんですよ。自分が欲するものを、相手に悟らせてはいけないと。私は、相手の感情を読むのは苦手じゃないんです。だから、ラルケス様が私を欲しているというのは、よくわかりました」
相手の感情を読むのは苦手ではない。これは事実だ。だが彼の感情を読むのは、得意ではない。彼は自らの感情を隠すのが上手であり、嘘や隠し事も巧いからだ。
「そうですか。では、あなたのお尻をいただきましょうか」
「交渉成立ですね」
エルーテは複雑な心中だった。自らの臀部でシュバール国の危機が救われるなど、誰が信じようか。
「やはり、あなたは交渉が下手ですね。あなたのお尻と引き換えでしたら、私には十分すぎるほどの対価ですよ。あなたのお尻は到底価値などつけられない、たかだか一国と引き換えでは全く釣り合いのとれないものなので」
エルーテは非常に複雑になった。彼の価値観は、どうなっているのだろうか、と。これに対して頗る上機嫌になったラルケスは、エルーテへキスをしようとする。だが、それを両手で阻んだ。
「ダメです」
「おや。あなたの唇は私のものですよ」
「私の唇はあなたのものですが、私に隠れて悪いことをしていたので、お預けです」
拒否したというのに、彼はなぜか嬉しそうだった。
「可愛らしいお仕置きですね。まぁ、構いませんよ。私はあなたを抱きしめるのも、気に入っているので」
背中に手を回され、しっかりと抱きしめられた。エルーテも彼を安心させるように、抱き返す。
「どうして、私に正直に言ってくださらなかったんですか? もしや、私がラルケス様を軽蔑し、去ってしまうとでも考えましたか?」
「……否定はしません。私はあなたの前で誇れるような、立派な人間ではないので。もうご存知でしょうが、私は善人ではありませんから。目的のためなら、手段を択ばない男です」
エルーテはラルケスの背中をゆっくり撫でた。
「私の心は、なにがあってもラルケス様のおそばにあります。もしもラルケス様が悪いことをするなら、私が身をもって止めます。だから、大丈夫です」
そう言えば、ラルケスはおかしそうに笑った。だがすぐに、エルーテをより一層強く抱きしめる。
「……私は、誰かに止めてほしかったのかもしれませんね。あなたと一緒にいると、復讐だとか、心底ちっぽけでくだらないことだと、思えます」
「それでいいんです」
「あんなにも私の心の奥底で燃え上がっていた黒い炎が、今はもう消えているんです。あなたがいるだけで、私は穏やかな気分でいられます」
「では、私と一緒ですね。私もラルケス様と一緒にいると、つらい気持ちや悲しい気持ちがなくなります。お揃いですね」
ラルケスは深く深く、溜息をついた。
「本当に……、あなたには責任をとってもらわなければいけませんね。私にこんな考えをさせるように、してしまったのですから」
エルーテは満足そうに微笑んだ。
「私の生涯をかけて、きちんと責任をとります。だから、安心してください」
「そうでなければ、困ります」
どこか拗ねた口調のラルケスに、エルーテは微笑ましくなった。同時に、嬉しく思う。彼の心の奥底にあった復讐心が、自分がそばにいることで消えたということに。
就寝前。エルーテは実家から送られてきた手紙を受け取った。封蝋につけられた印璽の文様は、姉のものだ。
(ニーナ姉様から?)
大好きな姉からの手紙に、わくわくしながら封を開けた。
「ラルケス様と結婚することになった、って報告をしたら、ニーナ姉様驚くだろうなぁ」
折りたたまれている紙を開いた。そこで硬直する。というのも、文字が姉のものではなかったからだ。
(これは、お父様の字……)
領主の仕事を代理で行っていたので、父の字をよく知っていた。なぜ姉の印璽を用いて手紙を送ってきたのか。エルーテは嫌な予感を覚える。
〝屋敷へ戻ってこい。逆らえば、ニーナと想い人を別れさせる。わかっていると思うが、公爵にはこの手紙の内容を話すな。言えばただでは済まさない〟
エルーテは左手を口元へ当てた。父は姉に慕っている相手がいるというのは、知らなかったはずだ。
(まさか、ニーナ姉様が自分でお父様に言った? 結婚したい相手がいるって)
そうとしか考えられなかった。ラルケスの話が事実ならば、父は姉とラルケスを結婚させたがっているのだ。ならば、姉の想い人は邪魔でしかない。
(どうしよう。家へ戻らないと……)
ラルケスに相談をしたかったが、話すなと手紙に書いてある。これは脅迫だ。逆らえば、父が何をするかわからない。それはこれまでエルーテが、身をもって経験している。
「どうにか、しないと……」
エルーテは、まるで全身に氷水を浴びたかのように、青ざめていた。指先が冷たくなり、震える。
(ラルケス様……っ)
彼の顔を思い出し、目をぎゅっと瞑った。そばにいると約束をしたばかりだが、ニーナを放っておくことはできない。エルーテにとってニーナは大切な家族であり、幸せになってほしい相手なのだ。
「ごめんなさい、ラルケス様……」
エルーテは泣きながら、ラルケスに見つからないよう、手紙を処分することにした。
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