明かされた真実
夜明け前。エルーテは人目を忍ぶようにして、城を出た。向かった先は、ウィストリアム領の最大都市である、アリシャスタ。そこの宿屋へ行くことにしたのだ。見張りをしている顔見知りの兵士からは、何度か挨拶をされた。その度にエルーテは、少し散歩をしてくると笑顔で答えたのだ。
(ラルケス様には、急用ができたからと、部屋に手紙を残してきた)
黙って行くことは気が引けたが、彼は相手の嘘を見抜くのが上手だ。それゆえに、真実を隠し通す自信がなかった。そうして城を出てしばらく。
「おい、そこで何をしてるんだよ」
息を荒くして、アルディが走ってきた。丘を下って街へ行く途中だったエルーテは、彼の姿に驚く。
「アルディこそ、どうして」
「俺は今日、早番だったんだよ! ていうか、なんで俺に黙って一人で城の外に出てるんだよ! ラルケス様に言いつけるぞ!」
エルーテはアルディの口元を、手で押さえた。
「ラルケス様には、言わないで」
「なんでだよ。理由を言え。でないと、今から城へ戻って報告に行くぞ!」
エルーテはどうしようと悩んだが、城へ連れ戻されるのは困る。
「……家に、戻らないといけなくなったの」
「え? なんで? それ、ラルケス様には……」
「ちょっと事情があって、言えないの。一応手紙は置いてきたんだけど。だから、私がここから出ていくことは、黙っていて。お願い」
真剣に頼んだ。アルディは余程の事情だと察したのか、溜息をついて頷く。
「わかったよ。でも、俺も一緒に行く。俺はお前の監視役だからな」
「えぇ! で、でも、フィルラング領まで、遠いよ?」
「俺は騎士見習いだぞ。訓練で山に籠ったり、遠方に出かけることだってあるんだ。どうってことない」
「そう……?」
エルーテはややあって、微笑んだ。アルディは怪訝そうにする。
「なんだよ、なんで笑ってるんだよ」
「実は一人で心細かったし、アルディとこのままお別れするのは、寂しいなって思ってたんだ。だから、一緒にいられて嬉しいなって」
アルディは頬を赤くし、目を見開いた。だがすぐに顔を背ける。
「ふん。俺は飽く迄も、お前の監視役として同行するだけだからな」
「うん。わかってる。ありがとう、アルディ」
二人で街まで行くと、宿屋へ向かった。そこにはエルーテをウィストリアム領まで護衛をしてくれた、騎士たちがいる。彼らには交代でフィルラング領へ戻ってもらい、領地の様子や報告を受けていたのだ。姉や兄に任せておけば大丈夫だろうとは思ったが、やはり心配だったのだ。兄は王都での仕事があり、姉は領地の管理は殆どしたことがない。そのため、エルーテが裏で色々と処理をしていたのだ。
「エルーテ様。こんな朝早くから、珍しいですね」
騎士たちは嫌な顔をすることなく、すぐに宿屋から出てきてくれた。
「今すぐ、フィルラング領へ戻らないと行けなくなったの。ラルケス様に見つかる前に。すぐに出立できる?」
騎士たちは顔を見合わせると、すぐに頷いた。
「はい。いかなる場合にも備えて、すぐ出立できるようにはしてあります」
「良かった。ありがとう。あなたたちがフィルラング領の騎士で、誇りに思う」
エルーテは用意された馬に跨ると、騎士たちとともに街を出た。アルディは騎士と一緒に馬に相乗りしている。
(ラルケス様を裏切った。私を信じて心を開いてくれたのに、私が傷つけた)
どんなに言い訳をしても、許してはもらえないだろう。エルーテは泣きそうになったが、涙をぐっと堪えた。
エルーテが出立して暫く経った頃。ラルケスはエルーテの部屋にいた。手にしているのは、エルーテが残した手紙だ。彼の傍には、シャルが影のようにひっそりと控えている。
「いかがなさいますか?」
「バーク伯爵が、このまま黙ってエルーテを放置しておくとは、考えていませんでした。予想の範囲内ですよ」
手紙には、故郷が恋しくなったから帰ります、と書かれていた。それが嘘であることは、とっくに知っている。しかも暖炉には何かが燃やされた痕跡が残っており、昨晩フィルラング領から届いた手紙だろうことはすぐにわかった。益々怪しいとしか思えない。
「エルーテ様を、配下の者たちが追跡をしています。領地を出る前に、先回りをしてエルーテ様を止めますか?」
「いえ、そのまま行かせるように」
シャルは不服そうにした。ほぼ無表情ではあるが、長年付き合いのあるラルケスにはわかるのだ。
「……なんです、その顔は」
「屋敷に戻れば、エルーテ様はまた暴力を受けるのでは。強引にでも、絶対に止めるべきです」
普段口答えや反対をしないシャルが、意見した。
「止めたところで、彼女は屋敷へ戻ろうとします。それよりもまずは、王都にいるであろう、イザールに手紙を書くのが先です」
もしもイザールがいれば、エルーテが父親に会うのを阻むだろう。だがおそらく、現在屋敷にイザールは不在のはずだ。でなければ、バークはエルーテを呼び戻せない。
「ラルケス様は、エルーテ様を追いかけないのですか?」
「無理に決まっているでしょう。シュバール国から使者が来る予定もあるのに」
「……追いかけないのですか?」
二度、同じ質問をしてきた。
「彼女には、配下の中でも特に腕の立つ護衛たちをつけています。何かあれば、エルーテを優先して守るように、と。それに私には、彼女との守るべき約束があります。もしもその約束を破れば、私は彼女からの信頼を永遠に失うでしょう」
シャルは小さな溜息をついた。
「エルーテ様に精鋭たちを全員つけているので、ラルケス様の護衛が大変手薄です。新たに人員を補充しなければなりません」
そこで、扉をノックする音が響いた。ラルケスは気配から、家政婦長のハンナだと見抜く。シャルも気配で誰が訪れたのかわかっているので、すぐになんの用件なのかを、訊きに行った。どうやらあまり良くない話らしく、ハンナは深刻な表情をしている。そうして、シャルが報告へ戻って来た。
「ラルケス様。城の者たちが暴動を……」
ラルケスはシャルから、信じられないような話をきいた。
十日かけて、故郷のフィルラング領へ戻ってきた。護衛をしてくれた騎士たちは、どうして戻ることになったのか、その事情を聞いてはこなかった。それが信頼されている証拠だとわかり、嬉しい。
「……フィルラング領って、予想以上に田舎だな」
アルディは正直だった。エルーテは苦笑する。もう初冬なので、田畑には何も植えていない場所が目立つ。羊や牛は相変わらず多く、とても長閑。
「うん。いい場所でしょう?」
「お前が自由に伸び伸びと育った理由が、なんだかわかった気がするよ」
エルーテは苦笑した。アルディは素直な性根であり、道中騎士たちにすっかり気に入られたのだ。そうして暫くして、屋敷が見えてきた。その古さと煌びやかさからはかけ離れた砦のような外観に、アルディは表情を引き締める。
「どうしたの? もしかして、あまりにボロボロだから、びっくりした?」
「違うよ。……俺は監視役で同行してるけど、お前の護衛役でもあるんだ。だから、今度はちゃんと守るから」
エルーテがバークに殴られた話を、アルディには話していない。ラルケスが階段から落ちたということにしてあったので、エルーテもそういうことにしていたのだ。
(知ってたんだ……)
だから、アルディはついて来たのだろう。
「ありがとう、アルディ」
屋敷に近くなると、田畑の仕事をしていた領民や屋敷の見回りをしていた衛兵が気づいた。
「エルーテ様だ! 皆、エルーテ様がお戻りになったぞ!」
その声とともに、周囲にいた者たちが集まってきた。エルーテは馬上から降りると、挨拶をする。
「ただいま、皆。私が不在の間、大丈夫だった?」
一人一人に声をかけ、彼らを労った。アルディはそれを見て、感心する。
「凄いな。大人気だ」
この呟きに、騎士が答えた。
「当然だ。領主のバーク様と継嗣のイザール様が戦争でご不在の間、この領地を支えてくれたのは、我らがエルーテ様だからな。まだ当時十三歳だったというのに、皆を励まし、守ってくれたんだ。だから、今度は我々が守らなければ、と思っている」
話を終えた後、エルーテたちは屋敷の門を通って中に入った。誰かが知らせてくれたのか、屋敷の前にはニーナが出迎えに外へ出ている。
「エルーテ!」
「ニーナ姉様」
エルーテは下馬すると、ニーナへ駆け寄って抱きついた。ニーナはエルーテを抱きしめて、頬へキスをする。
「おかえりなさい、エルーテ。心配していたのよ。あなたがお父様に暴行された後、私はあの憎たらしい陰険な悪魔領主に、追い出されてしまったから」
エルーテはニーナから、少し体を離した。
「ラルケス様は素直じゃないだけで、本当はとても優しい方だよ。あの後、私をたくさん慰めてくれたし、治療もきちんとしてくれた。あと、結婚の話もね、誤解だったの」
「誤解? それはどういう……」
「ラルケス様がここへ来たのは、兄様に用事があったからなんだって。でもお父様が、ニーナ姉様を妻にどうかと言ったらしくて。でもラルケス様は最初にきちんと断った、って言ってたよ」
ニーナはそれを聞いて、ほっとした様子を見せた。同時に、怒りを滲ませる。
「お父様は、いつも勝手すぎるわ! ……私に、恋人と別れろって言うし」
「姉様……」
ニーナは目に涙を溜めた。だが我慢をし、指先で目元を拭って堪える。そして笑顔を浮かべた。
「疲れたでしょう? あちらでの暮らしがどうったのか、教えてくれる? もうあっちには戻らないんでしょう? 騎士たちにも、きちんとお礼をしないとね」
「そのことなんだけれど、私ね、ラルケス様とけっこ……」
「あの性格がひねくれていそうな領主に、あなたが見初められなくて本当に良かった! あなたがあんな男の元へ嫁ぐことになったら、姉たちに申し訳が立たないもの。さ、家に入って?」
結婚をするかもしれない、とは言えない空気になってしまった。
帰郷した日の夜は、姉との食事や、お互いの暮らしがどんなものだったのか、そんな報告をしあって楽しんだ。久方ぶりに会う使用人たちからも大いに喜ばれ、老齢の家令たちからは無事だったことを泣かれてしまった。彼らはエルーテとラルケスの初対面の様子を見ていたので、かなり心配をしていたようだ。就寝の時間になると、エルーテはニーナのベッドで一緒に並んで眠った。ニーナは心細く思ってくれていたらしく、エルーテの手を握ってずっと離さなかったのだ。
(お父様……)
エルーテが屋敷へ戻ってきたことは知っているはずだが、父からはなんの接触もなかった。エルーテはとても疲れていたのだが、なかなか寝つくことができなかった。
実家へ帰ってきて、五日が過ぎた頃。エルーテは少しばかり精神的に参っていた。父はエルーテが戻ってきた翌日に、どこかへ出かけたそうだ。まだ戻っておらず、どこでなにをしているのか全くわからない。あまりに不気味であり、恐ろしかった。ラルケスからも連絡はなく、相当怒っているのではないか、と不安になる。兄のイザールには、家へ戻ってきてもらうように手紙を送ったが、まだ返事はない。
「もー、辛気臭いなぁ。あんまり落ち込むなよ。でないと、頭からキノコが生えてくるぞ!」
アルディが言った。現在彼は、エルーテの部屋にある暖炉の前で、剣の指南書を読んでいる最中だ。兄のイザールが気に入って読んでいた本、と説明をして以来、何度も読み返している。
「うん、ありがとう、アルディ」
エルーテは領主の仕事を代理で行っていたのだが、その顔には疲れが見えた。二日連続で領地の見回りに出かけ、家へ戻ってからはずっと、帳簿や領地の記録を確認していたからだ。エルーテは目の前に山のように積まれた書類を見ると、溜息をついた。フィルラング領からウィストリアム領までは、約十日かかる距離。往復をすれば二十日だ。つまり往復分の日数と合わせて、約三ヶ月近い量の記録に目を通さなければならなかったのだ。
(二ヶ月もラルケス様の城にいただなんて、嘘みたい。あっという間だったな……)
エルーテは故郷で男性用の服をよく着ていたが、それは外出や、汚れる可能性がある作業を行う場合に限られていた。だがメルフィノン城ではずっと、就寝時を除いて、ほぼ男性用の服を着ていたのだ。そのためすっかり慣れてしまい、久方ぶりに袖を通した女性の服に違和感があった。服は姉が見立ててくれたものなのだが、フォレストグリーン色の絹サテンの生地に、幾何学模様のステッチが施されていた。袖と裾には白の大きなレースがついており、胸元にはリボンがついている。
(……家に呼び戻されなかったら、今もラルケス様の城にいたのかな……)
ぼんやりしかけて、いけないと首を振った。そうして再び、仕事に集中をする。
姉のニーナは領地の管理について、殆ど知らない。イザールは王都と行き来しているため、仕事を片す時間があまりとれない。結果、家に帰宅したエルーテを待っていたのは、膨大な仕事の数だった。
(嫌なことを考え続けるよりかは、仕事をしていたほうが気が紛れる……)
何度目かの溜息をついたとき、アルディが話しかけてきた。
「……もしもお前がラルケス様と結婚したら、俺がお前の騎士になってやるよ」
「え?」
「だ、だから、俺がお前に忠誠を誓う、騎士になってやる、って言ったんだ」
あまりにも唐突な話だったが、エルーテは微笑んだ。アルディからそのような提案をされるとは、夢にも思っていなかったからだ。
「ありがとう、アルディ。でも、ラルケス様と結婚できるか、まだわからないけどね」
姉はラルケスをよく思っていないようだった。父とは不仲なままで、兄はいつ家へ戻ってきてくれるかわからない。果たしてこんな状態で結婚ができるのか、エルーテは自問する。
「……お、お前がラルケス様に捨てられたら、俺がもらってやるよ!」
アルディは顔が真っ赤だった。エルーテは考え事をしていたため、彼の言葉を聞き逃す。
「え? 貰う? なにを?」
「なにって……、わかれよ、バカッ!」
どういうわけか、アルディは頗る不機嫌になってしまった。エルーテは訊き返そうかとしたのだが、その前に扉をノックする控えめな音を耳にする。
「エルーテ様。今、お時間はよろしいでしょうか」
応じると、部屋へ家令が入ってきた。青ざめており、どこか様子がおかしい。
「エルーテ様……、旦那様がお戻りになられました。エルーテ様をお呼びです」
頷くと、ゆっくり椅子から立ち上がった。どのような話をするかはまだわからないが、嫌な思いをするのだけは確実だ。アルディは部屋へ残して行こうとしたのだが、彼はついて行くと言って頑として譲らなかった。エルーテは自室を出ると、父がいる部屋へ向かう。
(お父様、どこに行っていたんだろう……)
古い石造りの廊下を進んだ。とてもひんやりしており、まるで地獄へ向かっているかのような錯覚を感じる。後ろにはアルディがいるのだが、少しだけ気持ちが和らぐ。しかしながら父の扉の前に到着したとき、不安と恐怖で足が竦んだ。扉をノックしようとするが、躊躇う。兄が戻ってきてくれないか期待したが、もう無理だろう。
(また、殴られるのかな)
恐ろしかった。だが部屋の前にずっと、立っているわけにはいかない。エルーテは深呼吸をしてから、扉をノックした。
「入れ」
中から、バークの硬質な声がした。エルーテはアルディに廊下で待っていてもらうように、目配せをする。アルディは不服そうにしたものの、頷いた。それを確認してから、エルーテは覚悟を決めて、扉を開く。自らの父親の部屋に入るのは、数えるほどしかない。そのいずれも、いい記憶がなかった。激しく罵倒されたか、物を投げつけられたか、若しくは殴られたかだ。室内は整然としており、中央には懸花(けんか)装飾のソファーがあった。奥に書架が一つあり、その手前に執務机がある。壁には戦場で用いた剣や家の紋章が刺繍された旗が飾られており、厳かな空気が漂う。部屋の正面には父であるバークがおり、その横に見知らぬ男性が立っていた。てっきり父だけだと思っていたので、エルーテは内心驚く。独特な黒と白の服装から、フレリンド王国の教会の司教だとわかった。司教とは、教区を監督する立場にある聖職者のことだ。だが、エルーテが暮らすフィルラング領の司教ではない。フィルラング領の司教ならば、エルーテもよく知っているからだ。
「お父様、おかえりなさいませ」
挨拶をすると、バークの眉がぴくりと反応した。
「貴様に父と呼ばれる筋合いはないと、何度言えばわかる!」
「……申し訳ありません」
「まぁ、いい。今日はお前にとって重要な人物を、屋敷へ招いた。こちらの方は、メルラ領の司教、ゴードン様だ」
「メルラ領……?」
メルラ領はフレリンド王国の東端にある領土であり、フィルラング領からもかなり離れている。
「あぁ。ゴードン司教は、お前のような悪魔でも改心させることができ、尚且つこれからの人生を修道女として面倒を見てくれるそうだ。まぁ、修道女になるには十八歳からという規則があるから、それまでは見習いとして暮らすことになるだろうが」
何を言われたのか、全くわからなかった。ゴードンを見れば、まるで憐れむような視線を向けてくる。
「これが、悪魔憑きの少女ですか……。ちっともそうは見えないので、おそらく力の強い悪魔なのでしょうね。ここまで一般人に擬態するなんて」
エルーテはサッと青ざめた。
「私は、悪魔なんかじゃ、ありません……っ」
「本物の悪魔は、皆そう言います」
「ちがっ、私は本当に悪魔なんかじゃ、ありません!」
直後、ゴードンが懐から取り出したガラスの小瓶に入った水を、エルーテへ引っ掛けた。
「黙りなさい、悪魔。これは、聖水です。あなたのその邪な心も、少しは清められるでしょう」
髪や顔から床へ滴り落ちた水を見て、愕然とした。自分の言葉は何一つ受け入れられない、絶望感。
行儀見習いという名目で、修道院に貴族の娘を預けることはある。だが今回は、短期間ではなく、一生という意味だろう。
(なんで……、どうして……)
はっきり断れば、間違いなくバークは暴力を振るってくるだろう。だがそれを覚悟の上で、エルーテは首を振った。
「い、行きたく、ないです……。修道院には、行きたくないです」
バークは様相を険しくすると、エルーテの胸倉を掴んだ。
「貴様の意思など、関係ない。我が家の平穏と幸福のために、出て行ってもらう。この、悪魔めっ。私には、わかっているのだぞ。他の兄姉たちとは違い、お前だけ妻にそっくりな容姿で産まれてきた理由を!」
「り、理由?」
「お前が母親の命を食らったからだろう! だからその証拠に、お前だけが妻と同じ髪色をしている!」
エルーテは、自らの髪の色を自慢に思っている。母の姿は知らないが、兄や姉たちが母と同じ髪色で綺麗だと、いつも褒めてくれたからだ。母の姿は知らなくとも、自分の髪色を見ると、いつも母がそばにいてくれるような気がしていた。
(まさか、お父様がそんな風に思っていたなんて……)
エルーテは、父が言うように自分が母の命を奪ったから、母にそっくりな容姿なのだろうかと苦しんだ。この姿は、母親殺しの烙印なのだろうか、と。
「……っ、ぁあ」
思考が麻痺し、言葉を発することができなかった。心の中は恐怖で満ち、喉の奥がカラカラに乾く。
「……あぁ、そうそう。イザールに助けを求めても、無駄だぞ。あいつは国王からの呼び出しを受け、戻ってこれない。ニーナも、今は街へ買い物に行っている。だから、私の邪魔をする者はいない」
兄や姉が助けに来れないのをわかった上で、バークは実行に移したのだ。エルーテは彼から体を突き飛ばされて解放されるのだが、その拍子で床に転んでしまった。
「……っつ」
ゆっくりと体を起こすも、未だ胸倉を掴まれているかのように、息苦しさが消えなかった。嫌な汗が全身を覆っており、指先はとても冷たい。脳裏にラルケスの姿が過ぎったが、すぐに否定した。
(ラルケス様は、ここに来られない。だって、シュバール国からの使者が来るって言ってた)
大事な予定を放り出して、彼がここへ来るとは思えなかった。そうしてエルーテは、目の前が真っ暗になる。今の自分の状況を、誰も助けてくれる人はいないと判断したからだ。そこへゴードンが近づいてきて、エルーテを見下ろす。
「さぁ、私と一緒に修道院へ行きましょう」
彼がエルーテの手を掴もうとした瞬間、俄かに廊下が騒がしくなった。
「か、勝手に入られては困ります!」
大声を発しているのは、どうやら家令のようだった。しかも、アルディのものらしき悲鳴も聞こえてくる。
「えぇーっ!」
何が起きているのだろう、とエルーテは不安になった。そこで、バークの部屋の扉が乱暴に開かれる。
「失礼します」
室内へ入ってきたのは、ラルケスだった。その後ろに続いて部屋へ入ってきたのは、シャル。彼は、ラルケスのそばに控えている。
「ラル、ケスさま……?」
エルーテは床に転んだままの姿で、ラルケスを見上げた。彼はエルーテを視認し、ほっとしたような顔をする。そしてすぐさまエルーテの傍へ屈むと、怪我がないか確認をする。
「エルーテ。立てますか?」
彼に体を支えられ、エルーテはよろけながら立ち上がった。
「……どうして、ここに?」
「決まっているでしょう。あなたが戻ってくるのが遅いので、迎えに来たんですよ」
「え? だ、だって、シュバール国からの使者が……」
「使者とは話し合いをしました。内乱が早く収束するよう、協力すると。あと、シュバール国へ食糧などの援助も行うとも。……あなたとの約束を、反故にはしません」
自らの臀部と引き換えに、復讐をやめてもらうよう取り引きをしたのだ。エルーテは目を丸くする。
(ほ、本気だったんだ……。約束、守ってくれるなんて……)
自分の臀部にそれほどの価値があるとは思っていなかったが、彼にとっては違うらしい。
「私は守れもしない約束は、しませんよ。それはそうと、これはどういう状況ですか?」
エルーテは、どう説明をしていいのかわからなかった。
「……父が、私は悪魔だから、メルラ領の修道院へ入れると言って……」
声を絞り出すようにして、簡潔に述べた。それだけで、彼は理解してくれたようだった。バークといえば信じ難い表情をしており、わなわなと震えている。
「無断で領地へ入っただけではなく、家の中にまで侵入してくるとは……!」
ラルケスは心外そうにした。
「無断? 私はきちんと許可をとって、フィルラング領へ入らせていただきましたよ。現在領主代行役をしているあなたのご子息、イザールから領地へ入る許可証も頂いています。どこぞの無能領主と一緒にしないでください」
「な、なんだとっ、この私を侮辱する気か!」
ラルケスはにこりと微笑んだ。
「おや……、私は無能領主、と言っただけですよ。心当たりがおありなんですか?」
そこで、ゴードンが口を挟んだ。
「可哀想に。あなたは悪魔に魅入られているのですね。彼女は悪魔なのです。すぐに離れなさい」
ラルケスは目を細めた。
「悪魔? 彼女が? もしも彼女が悪魔に見えているのだとすれば、あなたの目は相当曇っているようですね。教会の司教を、ただちにおやめになったほうがよろしいでしょう。まぁ、大方金を握らされて、彼女を修道院に連れて行こうとしているんでしょうが……。一体どちらが悪魔なのでしょうね?」
「なっ……!」
「窓の外をご覧なさい」
窓の外と聞いて、バークとゴードンは怪訝そうに外を見た。エルーテもラルケスと一緒に窓の傍へ歩いていき、外を確認する。そこで、エルーテは驚愕した。というのも、眼下に見知っている顔の者たちが、大勢いたからだ。
「エルーテ様っ!」
「エルーテちゃん!」
そこにいたのは、フィルラング領の領民と、ウィストリアム領の城で仲が良かった者たちだった。使用人や騎士が、大勢いたのだ。家政婦長のハンナもおり、手を振っている。
「エルーテ、迎えに来たわよ! 早く、ウィストリアム領へ戻ってきなさい! あなたがいなくなってから、お城は火が消えたように陰鬱としているわ!」
そう言えば、隣にいたフィルラング領の領民がむっとした。
「エルーテ様は、この領地にずっといるんだ! 絶対によそにはやらないぞ! エルーテ様は、我々の大切なお方だからな!」
「何を言うの! 彼女には、ラルケス様の面倒をきちんと見てもらわないと困ります! ラルケス様と対等に渡り合えるのは、エルーテだけなんですから!」
ラルケスはエルーテの肩を抱いた。
「あなたがフィルラング領へ戻ったあの日。私の城で暴動が起きたんですよ」
「え? ぼ、暴動?」
「一体どこから聞きつけてきたのか、彼らは城を去ったあなたを引き留めるように、私へ抗議をしてきたんです。でもシュバール国の件があったので、無理だと伝えました。それから数日後、私があなたを迎えに行くと伝えたら、彼らは全員ついて来ました。自分たちも一緒に、あなたを迎えに行きたい、と」
エルーテは両手で口元を多い、目からぽろぽろと涙を流した。
「なんで……、私なんかのために、そこまで……」
よく見れば、ラインハルデ国の商人までいた。以前エルーテが通訳をした、あの商人だ。彼らもエルーテへ笑顔で手を振っている。エルーテは窓を開けると、手を振り返した。
「皆、ありがとう……っ」
そう言えば、皆笑顔で手を振ってくれた。
「エルーテ様がいつも我々を守ってくれたから、今度は我々がエルーテ様を守る番だ!」
そう言ったのは、エルーテの家に仕えてくれている騎士だった。ラルケスはバークを見ると、話をする。
「エルーテにここまで人望があるのは、彼女が今まで行ってきたことの結果です。これを見てもまだ、あなた方は彼女が悪魔だと、言いますか?」
バークは顔を赤くして怒鳴った。
「卑怯者め! 一体どんな手を使ったんだ!」
「どんな手もなにも、あなたとイザールが戦地へ行っている間、この領地を守っていたのはエルーテなんですよ。あなたがこの屋敷へ戻ってからも、領主の仕事を代理で行っていたのは、エルーテです。彼女が周りから慕われているのは、当然でしょう」
「なんだと?」
エルーテは場の悪そうな顔をした。
「ラルケス様、あの、それは……」
ラルケスはエルーテの言葉を無視して、自身の話を続けた。
「父親のあなたがそのことを知れば怒ると考え、エルーテではなく、姉のニーナが領主の仕事を代行していた、ということにしていたんでしょう。使用人や領民たちは皆、口を揃えて彼女を庇っていたんですよ。あなたがエルーテに暴力を振るう人間だと、知っていたから。……そうですよね? イザール」
え? とバークとエルーテは部屋の入口へ注目した。室内へ足を踏み入れたのは、長兄のイザール。
「エルーテ、戻ってくるのが遅くなってすまないな。本当はすぐに戻ってきたかったんだけど、王都とフィルラング領を繋ぐ街道が、落盤のせいで通れなくなっててね。撤去されるまで、足止めをくらっていたんだ」
エルーテは久方ぶりに見る兄の姿に、ほっとした。
「無事で、良かった。イザール兄様……」
イザールはエルーテへ一度微笑んでから、バークを見た。その表情は、先ほどと打って変わって、とても厳しい。
「ラルケスの話だけれど、真実だよ。父さんが知ればエルーテへ冷たく当たるだろうから、俺がそうするように、皆に頼んだんだ」
「なぜ、そんなことを……。こいつは、お前の母を殺した悪魔なんだぞ!」
「いい加減にしてくれ! エルーテは俺の大切な妹で、家族だ! うちでエルーテを家族だと認識していないのは、父さんだけだ! これ以上、俺たちの可愛い妹を、侮辱しないでくれ!」
「お前にとっては可愛い妹でも、私にとっては娘ではない!」
エルーテは耳を塞ぎたくなったが、堪えた。父からの罵詈雑言は慣れていたつもりだが、改めて聞かされると、心の傷は広がるばかり。
「父さんはさ、毎年娘が誕生日プレゼントをくれるって喜んでるよね?」
「あぁ。それがどうした」
「あれ、毎年用意をしているのは、エルーテだから。この家で父さんにプレゼントを贈る親孝行者は、エルーテだけだよ」
「は? 何を言って……」
イザールはわざとらしく、嘲笑した。
「まだわからないのか。俺を含め、姉妹たちは全員、父さんのことを嫌悪して軽蔑しているんだよ。エルーテにだけ、辛く当たるから。だから俺たちは、エルーテが三歳になった頃から、父さんに一度もプレゼントを贈っていない」
「……なっ」
「エルーテは、父さんに嫌われていると知っていても、ずっと父さんを裏でフォローし、尽くしていた。健気なほどにね。そんな妹を、父さんはずっと傷つけ、詰ってた。許せるはずがないだろう。こんなにも謙虚で天使みたいな妹に、父さんは暴力を振るっていたんだから」
エルーテは震えていた。父へは、ずっと内緒でプレゼントを送っていたのだ。プレゼントは姉たちの名を借りて贈っていたのだが、父はいつも喜んでくれた。その笑顔は自分に向けられたものではないとわかっていたが、嬉しかったのだ。
「イザール兄様……」
イザールは辛そうな顔をした。
「お前はいつも、母の死に負わなくていい責任を感じていたね。父から当たられても、我慢をしていた。事実は異なるというのに」
「――え?」
どういうことだろう、とエルーテは怪訝そうにした。イザールはすぐに、その意味を教えてくれる。
「母が亡くなったのはお前を産んだせいじゃなく、流行病(はやりやまい)のせいだ」
衝撃の事実を聞かされた。だがすぐには信じられない。
「う、嘘……、だって……」
「母が亡くなった年。つまり、今から約十七年前。あまり良くない病が流行していたんだ。母がいた近くの街でもその病が蔓延し、近隣一帯が隔離されたらしい。その中で、母は運悪くその病にかかってしまい、亡くなったそうだ。父はそのことを、今までずっと隠していたんだよ」
「……どうして、兄様は知っているの?」
「当時母を診た医者を捜し出して、話を聞いたからだよ。ラルケスがね」
驚いて、エルーテはラルケスを見上げた。
「あなたが母親の死に負い目を感じていたので、医者から話を聞いたんですよ。そうしたら、私が知っている事実とは異なる話をされました。あなたの母が亡くなったのは、あなたのせいではなく、病のせいだと。あなたの母は、あなたの父の勧めで、空気のいい静かな別邸で出産することにしたそうです。出産は無事に済んだそうですが、その後運悪く、流行病にかかって亡くなったそうです」
「そ、そんな……。じゃあ、父はどうして、私を産んだせいで亡くなったと?」
「おそらく、良心の呵責に耐えきれず、あなたのせいにしたんでしょう。別邸で出産をするように勧めたのは、あなたの父親です。でも別邸へ行っていたせいで、あなたの母親は死の病にかかり、亡くなってしまった」
イザールは悔しそうにしていた。
「俺たちも、ラルケスが調べてくれるまで、知らなかったんだ。全部、父のせいだったんだよ」
エルーテはバークを見た。彼は放心しており、焦点が合っていない。
「わ、私のせいでは、ない……。妻が亡くなったのは、私のせいでは……」
父のバークはエルーテにとって恐ろしい人物なのだが、このときばかりはとても弱弱しく、小さく見えた。彼はこれ以上ないほど青ざめており、ガタガタと体を震わせている。
「まだそんな言い訳を……、父さんが殺したようなもんだろう!」
「……っ!」
「これまでエルーテにさんざん酷い行いをしたばかりか、まさか母さんまで……!」
バークは自らの頭を両手で抱えた。
「私は……、ちが……、わたし、は……」
「今までさんざん目を瞑ってきたけれど、もう我慢できない! 父さんと血の繋がりがあると思っただけで、吐き気がする」
責めるイザールを、エルーテは彼の手を引いて止めた。これ以上はもう、見ていられなかったからだ。兄が激昂する姿も、バークが尋常ではないほどに汗を流して青ざめている姿も。バークは目が虚ろになっており、明らかに様子がおかしい。
(お父様……)
エルーテはぎゅっと自らの両手を握ると、バークへ向かってはっきり告げた。
「……お母様が亡くなったのは、お父様のせいではありません」
バークは微かに、エルーテへ視線を向けた。エルーテはそれを確認してから、言葉を続ける。
「……偶然、悪いタイミングが重なってしまったんです。だからどうかもう……、自分を許してあげてください。お母様が亡くなったのは、お父様のせいではないのですから」
震えている父に、安心させるようにそう言った。
「……っ……ぅ」
バークはその場に泣き崩れた。大粒の涙が幾つも落ち、床にシミをつくる。エルーテは蹲っているバークのそばへ膝をつくと、父の背中を生まれて初めて撫でた。
(お父様はとても、お母様を愛していた。でもそのお母様を、別邸に行かせたために運悪く亡くしてしまった。そのことをお父様は一人で悩んで苦しんで、やがて心の病になってしまった)
自分のしたことが受け止めきれず、歪んでしまった父。彼はエルーテが生まれてきたせいだと、そう思い込まなければ生きていけなかったのだろう。そう考えると、父がとても悲しい人に見えた。イザールは尚もなにか発言しようとするが、エルーテが首を振って止める。そしてそのまま、暫くの間誰も動けなかった。
その夜、エルーテは遠方から訪れてくれたハンナたちのために酒宴を開き、もてなした。フィルラングの領民にも料理と酒をふるまい、礼をしたのだ。そうしてひと段落ついた後、エルーテは兄のイザールの部屋へ訪れた。だがそこに意外な人物がいると知り、目を丸くする。
「ラルケス様も、ここにいたんですか」
ラルケスはイザールとソファーへ座り、一緒に酒を飲んでいた。イザールはニコニコしており、とても上機嫌だ。
「今、お前の話をしていたんだよ。ラルケスのところに、嫁ぐことになったらしいね」
「……! そ、それは……っ」
エルーテは頬を赤く染めた。恥ずかしさのあまり、思考が停止する。だがそれとほぼ同時に脳裏に浮かんだのは、兄のことだ。イザールは周囲に、こう公言している。末妹と結婚する相手は、自分よりも強い男でなければ認めない、と。つまり、剣での勝負をしてイザールに勝たなければ、結婚を許してもらえないのだ。
(イザール兄様に、ラルケス様のことをちゃんと認めてもらわないと……。勿論、平和的な解決方法で……)
どうやって目の前の兄に納得して認めてもらうか、必死に悩む。
「父が余計なことをしたから、心配をしていたんだよ。でも良かった。予定通り、お前がこいつと結婚を決めてくれて」
今の発言に引っかかるところがあり、エルーテは首を傾げた。
「予定通り、とはどういう意味……?」
「ラルケスは初めてここへ来たときから、お前を妻に欲しいと父に言っていた、という意味だよ」
「え? ……えぇ!」
エルーテは思わず声を上げた。反射的にラルケスを見るが、彼は平然としている。
「事実です。私は初めてこの屋敷へ来たとき、あなたを妻に欲しいと、フィルラング伯爵へ言いました。でもその後、どういうわけかあなたの姉であるニーナを欲しいと言ってきた、ということにされましたが……」
どうしてそんなことに、とエルーテは混乱した。ラルケスの隣に座り、彼を見つめる。
「なぜ、私を妻に欲しいと、ラルケス様が?」
「実は、私とイザールは親友と呼べる旧知の間柄なんですが」
「え!」
エルーテはイザールとラルケスの双方を見た。二人が親友というのは、初耳だからだ。
(そういえばラルケス様、以前に親友がいるって言ってた……)
そのときの会話を思い出した。
『一人、いますよ。親友と呼べる人物が』
『酔狂な方ですね?』
『そうですね。あなたにそっくりですよ』
つまり、あなたにそっくりというのは性格ではなく、容姿という意味だったのだろう。ラルケスは楽しそうにしており、話を続ける。
「彼はいつも、私に自慢をしてきたんですよ。五女のエルーテがとても可愛らしいと。それはもう、鬱陶しいほどに」
「……すみません。うちの兄がご迷惑をおかけして……」
とりあえず謝っておいた。
「ある日、深刻な顔をしていたので、話を聞いたんですよ。エルーテを早くどこかへ嫁がせたい、と。でも妹を託すに見合う男性がおらず、嫁がせるための持参金もない、とね。……今思えば、父親から暴力を受けているあなたを、懸念しての言葉だったのでしょう」
自分の知らないところで、兄のイザールがとても心配をしてくれていたのを知った。
「イザール兄様……」
イザールはエルーテへ微笑んだ。
「俺が悩んでいたら、ラルケスが残っている姉妹の一人を貰ってもいいですよ、って言ってきたんだよ。最初はまぁ、冗談かと思ったんだが、ラルケスは本気だった。俺としても、どこぞの馬の骨に妹をやるぐらいなら、信用できる親友に、妹を嫁がせてもいいかと思ったんだ」
「そうだったんですか……」
「でもまぁ、妹のどちらかを妻にと言っても、ニーナにはもう既に愛する男性がいるだろう? だから必然的に、残っているのはエルーテしかいない。でも俺は、エルーテだけは自分より弱い男に嫁がせたくなかった。だから、ラルケスに言ったんだよ。俺に勝てない奴には、エルーテは絶対やらないって。するとラルケスは、俺に剣の勝負を申し込んできたんだよ。俺がそこまで大事にしている妹なら、猶更欲しい、って」
「うーん……」
エルーテは非常に申し訳ない気持ちで、いっぱいだった。
「で、いざ勝負をしたんだけれど、お兄ちゃん負けちゃったんだよねー」
飄々とした態度で、信じがたい発言をされた。
「え! イザール兄様が?」
イザールは、フレリンド王国で最強の剣の腕前を持つ。ゆえに、その兄が負けたという話を、俄かには信じられなかった。
「手を抜いたわけでもないし、きちんと真面目に戦ったんだけどね。こいつってば柄にもなく、本気で挑んできて……。俺は足を怪我するし、散々だったよ」
イザールは、ラルケスを恨めしそうに見た。だが彼は、気にも留めない。
「あなたの名誉を守るために、黙っていてあげてる私に感謝してほしいですね」
イザールはぐぅ、と悔しそうにした。エルーテは驚きすぎて、どう反応していいのかわからない。
「……兄が負けたこともそうですが、まさか、ラルケス様から結婚を申し込まれていたとは、予想すらしませんでした」
よくよく考えれば、おかしかったのだ。イザールはずっと、末妹の夫となる男は自分よりも強い者としか認めない、と公言していた。だがラルケスが初めてフィルラング領の屋敷へやってきた後、イザールはこう言ったのだ。
『じゃあさ、ニーナの代わりにエルーテがウィストリアム公爵と結婚をすれば?』
と。これまで自分より強い相手としか結婚を認めないと言っていた兄が、自らの宣言を撤回してそんなことを言うのはおかしい。
エルーテが考え事をしていると、イザールがふと怪訝そうにした。
「ところで、ラルケス。目の下に随分と酷いクマができているじゃないか」
ラルケスは答えようとしなかった。これにイザールは思い至ったように、ニヤニヤする。
「あぁ! わかった。大方、エルーテが心配で心配で、夜眠れなかったんだろ」
「……否定はしません。彼女には護衛をつけていましたが、それでも万が一、ということがあったので」
「お前、少々の睡眠不足じゃそんなクマはできないだろ。何日寝てないんだ」
「多少は寝ましたよ。でも、彼女が去ってからまともな睡眠がとれていないので、自分でもそろそろまずいという自覚はあります。まぁ……、今日は眠れるでしょう。彼女を見て、ほっとしたので」
イザールはこれ以上ない程、楽しそうな面持ちとなる。
「お前がここまで、女一人でダメ人間になるとは……。いや、俺の妹が凄いと言うべきか」
エルーテはラルケスの目の下に、とても濃いクマができていると知って、驚いた。しかもやつれたと言うべきか、くたびれた感がある。
(ラルケス様、とても心配をしてくれてたんだ……)
後で睡眠に効くお茶を寝室へ運ぼうと決めた。そんなラルケスは、エルーテを見て感慨深そうにする。
「……それはそうと、彼女との初対面のときは驚きました。男装をしている上、泥だらけだったので。二度目に会ったときも、男装をしていて泥だらけでしたしね。イザールから少し変わった妹だ、とは聞いていましたが、当初ドブネズミかイノシシにしか見えませんでした」
突然の告白に、エルーテは遠い目をした。それを聞いたイザールは、手を叩いて大爆笑する。
「えー、ドブネズミとかイノシシって言われていたの? エルーテ、お兄ちゃんは悲しいよ」
少しも面白くなかった。エルーテは、頬を膨らませて拗ねる。
「イザール兄様に頑張って勝ったのに、五女の私が変わり者で、ラルケス様はさぞやがっかりしたでしょうね」
ラルケスは不思議そうにした。
「以前にも言いましたが、私は初対面のときからあなたを気に入っていましたよ。あなたがそばにいるようになってからは、私の退屈な人生は色彩が鮮やかになったので。それと、私はあなたとの結婚を、一度も嫌だと言ったことはありません」
「え? 嘘! だって……」
エルーテは彼とのやりとりを思い出し、ハッとした。彼の言うように、断られたことは一度もない、と。結婚をしましょうと自らが言ったときも、彼は笑顔で発言を躱していただけだ。
「私はあなたに、最初にきちんと言いましたよ。『無駄な努力にならないように、せいぜい頑張ってくださいね』と。あなたは私に結婚をしてもらう気満々でしたが、私も洟からあなたと結婚をする予定だったんです。つまり、あなたの行いは殆ど無駄だった、というわけです」
エルーテが城への滞在許可を貰ったとき、確かにそう言われた。彼は勝ち誇ったように笑顔を浮かべており、どこか憎たらしい。
「ど、どうして、言ってくれなかったんですか! 最初にきちんと教えてくれたら、良かったのに」
「それについては、あなたのお兄様を恨んでください」
「イザール兄様を?」
「えぇ。あなたが初めてメルフィノン城へ来たとき、イザールからの書簡を持ってきたでしょう。あれはイザールが私へ宛てた信書だったのですが、そこにことの経緯が書かれていたんですよ。父親のせいで、あなた自身が結婚を申し込まれたことは知らず、姉が結婚を申し込まれたものだと勘違いをしている、と。隠しているほうが面白いから、あなたにはそのまま黙っていてほしい、とありました」
エルーテは両手で頭を抱え、項垂れた。イザールが嬉々として言っている姿が、容易に想像できたからだ。
「じゃあ、二人で私を騙していた、ってことですか?」
イザールとラルケスは、互いに満足そうに笑っていた。
(なるほど……。この二人が親友っていうのは、本当なんだ……)
ひねくれ者同士、余程気が合うようだった。イザールは銀杯を手にすると、酒を一口飲む。
「ラルケス。俺の妹は、可愛いだろう?」
ラルケスは頷いた。
「えぇ。あなたが自慢する気持ちが、今ならよくわかります」
「大事にしろよ。俺が一番可愛がってきた妹なんだから。もしも悲しませたら、許さないからな」
「わかっています。彼女のことは必ず、私が幸せにします」
家族の中で、エルーテを誰よりも一番心配していたのは、イザールだ。
「イザール兄様、ラルケス様と会わせてくれて、ありがとう。私、幸せだよ」
イザールは笑った。目尻にうっすらと涙が浮かんでいたのは、見間違いではないだろう。
「お前が幸せでいることが、俺にとっての最大の幸せだ」
そう言ってくれた心優しい兄の表情を、エルーテは一生忘れないと思った。