第五話
ラウルはベッドの上で、真っ青な顔をして眠っているリアを見ていた。彼女が怪我をしたのは、自分のせいだとずっと責めているのだ。
(落ちた時に、俺が抱きとめられていれば)
木の上にいるとわかった。だが、気づいた時には、落ちていた。
「リア。お前、なんで群狼村に帰ってきたんだ。どうしてよりによって、シャンポリオン学院へ来たんだ……」
たとえ群狼村に暮らしていたとしても、朱根塚の街の高校に通っていればよかった。そうすれば、こんなことにはなっていなかった。思い出すのは、リアと再会したときのこと。美術室で一人で暇を潰していたときに、一人の少女がやってきたのだ。懐かしい、山桜のような香りを身にまとう少女が。まさか、と思った。眠ったふりをして顔を伏せていたのだが、声をかけられた。
「ラウル君……?」
そう名前を呼ばれた瞬間、すぐに幼い頃に一緒に遊んだある少女を思い出した。自分のことをそう呼ぶのは、その少女だけだったからだ。同時に、怒りが込み上げてきた。シャンポリオン学院は人間にとって、安全な場所ではないとわかっていたからだ。
「は? 誰だよ、お前」
「あ、突然ごめんなさい。これ、返却されたレポート……」
「あぁ……」
レポートを受け取り、どうして彼女が学院にいるのか悩んだ。学院は、一般人が簡単に入れる場所ではないからだ。制服はシャンポリオン学院のものではなく、お嬢様学校で有名な、私立ベルナーゼ学院のものだった。制服に特徴があるので、知っていたのだ。
「ラウル君。私のこと、覚えてる?」
マロン色の髪に、ヘーゼルの瞳。桜のような唇に、雪のように白い肌。記憶にある子供の姿も十分に美少女だったが、再会した彼女はその綺麗さに磨きがかかっていた。
葉上リア。
名前をはっきりと覚えていた。
「てめぇのことなんて、知らねえよ」
「ち、小さい頃、一緒に遊んだことがあるの、覚えてないかな? 半年ほどしか遊んでないから、覚えてないかもしれないけれど……」
「知らねぇって言ってるだろ」
ラウルは美術室を出た後、苦悩した。子供のころは何も難しいことを考えず、ただ楽しく遊べた。子供のころだったならば、再会できたことを喜んだだろう。けれども、彼女とは住む世界が違いすぎる。だから、なんとか彼女を別の学校へ転入させられないか考えたのだ。
(近づくべきじゃない)
人である彼女が襲われないよう、帰り道をこっそり護衛した。偶然を装って中華料理店へ入ったのは、彼女に会いたい気持ちを我慢できなかったからだ。せっかく堪えていたというのに、リアがノエと一緒にいる姿を階段のところで見かけたときは、怒りでどうにかなりそうだった。だから、「忠告しておく。ノエに近づくな」と釘を刺した。ノエがどういうつもりで接近したのかはわからないが、彼女が殺されるのではないかと危惧したからだ。
「お前を守りたいって思ってるのに、俺は怪我をさせてばかりだな」
おそらく変身するところも見られていただろう。ラウルは、彼女へどう話をするか、憂鬱になった。
ノエはナタナエルと話をしていた。
「申し訳ございません。私どもの管理ミスです」
拷問部屋から遺体を運び出した際、床に血が落ちた。その始末が遅れ、リアに地下室を見られてしまった、ということだった。
「地下牢や拷問部屋があるほうじゃなくて、幸いだった。あの遺体が何かは、適当に誤魔化しておくよ」
今回見られた地下室は、研究や資料保管庫として使っている場所だ。
「本当に、申し訳ありません。ノエ様」
ノエは返事をすることなく、リアがいる部屋へ向かって歩き出した。
(可哀想に。あんなものを見てしまって、とても怖かったはずだ)
彼女にはある程度説明をしていたが、汚いものや怖いもの、余計なものは一切見せないようにしてきた。リアは一般人として育ち、暗く淀んだ闇の世界は知らない。
(屋敷の二階から飛び降りて逃げるほどに、怖がらせた)
想像するだけで、胸が痛んだ。もしも彼女が目覚めたとき、怯えられたらどうしよう、と思う。彼女に避けられたり、怖がられるのは、どんなことよりも苦痛だ。
「リア……」
自分でも驚くほど、愛おしげな声が出た。彼女は逆らうことなく、屋敷にずっと留まってくれていた。それが彼女にとってどれだけ辛いことだったのかは、きちんと理解している。
(リアが人間ではなく、魔の者でよかった)
彼女が人間だったならば、人間としての戸籍を奪った上で、本当に死ぬまで監禁することになっていただろう。屋敷という檻の中で。だがもしもそうなっていた場合、ノエはきちんと責任をとって面倒を見るつもりでいた。どこまでも甘やかし、外の世界を忘れ去る程に。
(でも人間ではなかった。それどころか……)
彼女がいったいなんの種族かは、大凡の見当がついていた。おそらく、シリルとラウルもわかっているだろう。
ノエは二階へ上がると、リアの部屋の前まで来た。扉を開こうとドアノブへ手を伸ばすのだが、室内から声が聞こえてくる。ラウルだ。
「お前を守りたいって思ってるのに、俺は怪我をさせてばかりだな」
一瞬、心の奥底に蓋をしているどす黒い何かが、漏れ溢れそうになった。目の前が真っ赤に染まり、くらくらする。
(あぁ……、本当に邪魔だ。殺してやりたい)
一切の穢れを知らぬまま、彼女の隣にいる彼。自らは汚泥のごとく穢れきってしまっているというのに。しかも、彼女をマーキングした。自分にとって神聖で、唯一の女神である存在を穢したのだ。
(僕だって……)
できることならば、彼女に香りをつけてマーキングをするのは、自分でありたかった。だがノエにはできなかったのだ。そんなことをすれば、彼女に汚いもので凌辱するような気がしたから。
(リア……。僕は、醜く、本来なら君に触れる価値なんてない)
嫉妬のあまり、頭が狂いそうになる。だが、なんとか堪えた。自らの心の奥底に渦巻く醜悪なものに蓋をし、ノエは気を落ち着ける。そうして、彼女の部屋の扉を開いた。
リアは懐かしい夢を見ていた。子供の頃、群狼村にいたときの夢だ。まだ寒い、ある朝。リアは蝋梅の木がたくさん植えられている、並木道へ行ったのだ。透き通るような黄色い花びらを持つ蝋梅からは、とてもいい香りがした。リアはその並木道が好きで、一人でよく見に行っていたのだ。
だがその日、リアは見慣れない一人の少年に気づいた。金髪に青い瞳を持つ、とても綺麗な男の子だ。
「何をしているの?」
「花を見てる」
まだ四歳だった自分には、何という花の名前かわからなかった。だが自分も好きなので、彼に親近感を覚えたのだ。
「私ね、はかみリアって言うの。リアって呼んで。あなたは?」
「……、ミシェル」
「ミシェル? とっても綺麗な名前だね」
不思議な気配を持つ男の子だった。そのときはあまり会話をしなかったが、彼とはその後、よく会うようになった。リアの誕生日に家へ招いたり、リアの両親と一緒に小さな遊園地や、プール、水族館にも行ったのだ。
(ミーシャ、どうして返事をくれないの……)
九年前、リアが引っ越しをしてからも、ミシェルとは手紙のやりとりを行っていた。だが手紙の送り先は彼の自宅ではなく、なぜか私書箱だった。一体彼がどこに住んでいて、どういう子だったのかはわからない。けれども、構わなかった。なぜなら、リアにとってミシェルは、なんでも話せる大切な親友だからだ。群狼村から引っ越しをした後も、リアは何度か家の都合で引っ越しをした。そのせいでなかなか友達ができなくて寂しい思いをしたのだが、いつもミシェルが慰めてくれたのだ。
(三年前から、手紙の返事が来なくなった。昔よりは頻度は減ってしまったけれど、ミーシャには今も手紙を出してる。読んでくれてるかな……)
特別親しい友人は、彼だけだった。その彼と縁が切れるのは、とても悲しいのだ。
「……ミーシャ」
リアはそう呟くとともに、目を覚ました。はじめどこにいるのかわからず、ぼんやりする。
「目を覚ましましたか?」
誰かが顔を覗き込んできた。リアはその人物の頬に手を伸ばし、掌を添える。
「ミーシャ……? やっと、会いに来てくれたの? 私、寂しかったんだよ……」
彼は少し切なそうに微笑むと、リアの手に自らの手を重ねた。
「リア先輩、僕ですよ。ノエです」
そこで漸く、リアははっきりと目を覚ました。
「ノエ君……?」
なぜ彼が部屋にいるのだろう、と思った。反対側にはラウルがおり、椅子に座っている。
「木から落ちたんだぞ、お前。サルかよ」
ずきりと頭が痛んだ。だが木から落ちたと聞いて、すぅっと血の気が引いた。屋敷にある地下室へ入り、そこで見てはいけないものを見てしまったのだ。リアはノエから手を引くと、体を起こしてヘッドボードへ身を寄せる。
「……ぁ、その……」
ラウルは欠伸をした。
「しっかしお前、その体は便利だな。木から落ちた怪我が治りかけてる。……やっぱりお前、人間じゃなかったんだな」
リアはびくりと体を揺らした。自身の怪我を見れば、殆ど残っていない。殺されかけたときの傷さえ、完治していた。
「こ、これは、その……」
泣きそうになっていると、ノエがベッドに腰を下ろした。そして彼は、小さなナイフを取り出す。何をするのだろう、とリアは凝視した。
「大丈夫ですよ、リア先輩を傷つけたりしませんから」
そう言って、彼は自らの掌を傷つけた。血が流れ、リアはぎょっとする。
「ノエ君、何をしてるの! そんなことをしちゃ、ダメだよ!」
すぐに彼から、ナイフを取り上げた。
「リア先輩。見てください。傷はもう塞がっています」
ノエが差し出した掌には、血の跡はあるものの、傷口は消えていた。リアは困惑する。
「……え?」
「僕たちは特殊な武器でないと、傷が残らないんです。これぐらいの傷なら、僕たちも簡単に治るんですよ。だから、リア先輩だけじゃないんです」
その言葉に、リアは少し落ち着きを取り戻した。ノエはリアの手からナイフを取り戻すと、ベッドの横にあるサイドテーブルの上に置く。
「……私、ずっと自分の体が気持ち悪くて……。怪我をしても、すぐに治っちゃうから……。他の子たちみたいに、普通の体がいい、って思ってた」
「異常があるわけではありません。それが、正常なんです。人間とは違う種族なんですから」
ノエはハンカチで自らの血を拭った。リアは恐る恐るラウルを見る。彼が大きな獣になるのを、この目で見たのだ。あれはなんだったのか。
「ん? なんだよ、言いたいことがあるなら言え」
「……ラウル君、その……、狼みたいな姿にならなかった?」
質問をしていいのか迷ったが、敢えて聞いた。ラウルは平然としている。
「そういう種族だからな。動物は苦手か?」
「う、ううん、好きだよ」
「じゃあ怯えるな。気が向いたら、お前を背中に乗せて遊んでやるから」
リアは想像してみた。白い大きな狼の背に乗る、自分の姿を。怖いと思っていたが、一気に楽しそうになる。
「ふわふわ、もこもこ?」
「知るか」
「ふわふわの姿で昼寝とかしてくれるの?」
「お前の胸に顔を埋めてもいいなら、昼寝をしてやるぜ」
「ラウル君って、発言がオジサンだよ……」
少し空気が和らいだ気がした。ノエは不服そうに、リアの隣へ寝ころぶ。
「リア先輩が望むなら、僕がいくらでも添い寝をしますよ。獣の姿でも、この姿でも、リア先輩がお好きなほうで」
どこか甘えた口調で言われ、きゅんとした。リアは思わずノエの頭をよしよしと撫でる。だがすぐに正気に戻った。
「っぁ! ごめんね、勝手に触っちゃって」
「気にしなくていいんですよ? リア先輩になら、何をされても嬉しいので」
「そ、そうなんだ?」
「はい。……それはそうと、リア先輩。屋敷の地下室に入りましたよね?」
それまで緊張が和らいでいたが、リアは硬直した。脳裏に蘇るのは、ストレッチャーに乗せられた、よくわからないもの。血の臭いや腐臭を思い出し、吐きそうになる。
「……っ」
自分もあんな姿になるのでは、と喉が引き攣った。だがノエはきょとん、としている。
「どうしたんですか? そんなに怖かったんですか? 腐った肉を見たのが」
「だ、だって……」
「屋敷の冷凍倉庫が壊れたせいで、中にあったものが全部、腐っちゃったらしいんですよ。そのせいで牛や豚の肉のドリップがいっぱい出た上に、この暑さだから腐ってしまって」
「……そ、そうなの?」
「はい。倉庫に入れっぱなしにしておいたら不衛生なので、涼しい地下に移動させたってナタナエルから聞きました。明日、冷凍倉庫の修理業者が来るそうですよ」
リアはそうだったのか、とほっとした。人間の遺体ではないかと、ずっと疑っていたからだ。
「……勝手に地下室へ入って、ごめんなさい」
「いいんですよ。悪いことをしたわけじゃないんですから。それよりも、もう二階のバルコニーから飛び降りる、なんてことはやめてくださいね。僕、すっごく驚いたんですから」
そういえば、とふと疑問を抱いた。
「どうして私が屋敷を出たことが、すぐにわかったの?」
「僕はまだ屋敷に戻ってきていなかったので、そのときの状況は知らないんですけど。ナタナエルたちが、すぐに異音に気づいたらしいんです。おそらく、リア先輩が二階から飛び降りたときの音だと思うんですが。だからラウルさんに報告をしに行ったらしいんですが、ラウルさんも別のトラブルに対処していたので、リア先輩を追うのが少し遅れたそうです」
「……トラブル? 何かあったの?」
どんな問題があったのだろう、とラウルを案じた。だが彼は、大したトラブルじゃないと大きな溜息をつく。
「寮を抜け出した生徒がいると連絡が来たから、連れ戻しに行っただけだ」
それを聞いて、リアの表情が曇った。寮を抜け出した生徒は、なんの目的で外へ出たのか。この疑問に答えたのはノエだった。
「人間を食べたい、って思う連中ばっかりじゃないんですよ。中には、人間の女の子と関係を持ちたい、っていう物好きもいるんです」
「……ノエ君たちって、人間の女の子には興味がないの?」
「僕はありませんね。豚や牛に恋愛感情を抱かないのと同様に、人間には異性としての興味がわかないんです。そもそも、僕たちは人間の女性と性交をしても、子供ができませんしね」
ラウルは何とも言えない顔をしていた。
「だからこそ、人間の女とヤる連中がいるんだろ。後々面倒なことにならないから」
ノエはうつ伏せになると、頬杖をついた。そして足を上げて交互にぷらぷらと揺らす。
「僕は好きな子とだけ、そういうのを楽しみたいです。ね? リア先輩」
なぜ同意を求められたのか。
「まぁ……、普通はそうだよね。私も、そういうのは好きな人とだけ、したいなぁ……」
ラウルは身を乗り出すと、リアの顎を指で軽く持ち上げた。そして、唇が触れ合う寸前の距離にまで、顔を寄せる。
「お前が誰かを好きになるのを待ってたら、掻っ攫われる。だったら、惚れさせるほうが早い」
リアはラウルの顔を手で突っぱねた。
「すぐそういうことをするの、やめて」
「うるせえな。いいだろ、これぐらい」
「よくない!」
「どうせ、好きな男もいねえんだろ?」
リアは眉を寄せた。好きな男性がいると公言すれば、彼はやめてくれるのだろうか、と。
「す、好きな人、というか、一番大事な親友の男の子ならいるよ!」
「ほぉ? 誰だよ」
「ミシェル……」
そう告げると、ラウルの表情が真顔になった。
「また、ミシェルかよ。お前、小さい時もミーシャ、ミーシャばっかだったが、今もまだ言ってるのかよ。そいつ、確か連絡が途絶えたんだろ?」
「い、忙しくて連絡できないんだよ。きっと」
「お前のことなんざとっくの昔に忘れて、今頃美人の彼女でも作ってデートをしてるんじゃねえのか。……あぁ、むしろ、彼女ができたから、お前と連絡しなくなったのかもな」
リアは目を潤ませると、ぼろぼろと涙を流した。
「うぅ……、なんで、そんなヒドイことを言うの? ミシェルは、私にとって大切な親友なのに……」
「親友だったら、今でもちゃんと連絡をしてるだろ。連絡が途絶えたってことは、お前のことなんざ、どうでもいいんだろ」
胸が痛くて、とても悲しかった。そんなリアを抱きしめたのは、ノエ。
「リア先輩、ラウルさんの言葉なんかに傷つかなくていいんですよ。適当に聞き流していればいいんです」
「……っ、……っ」
ノエの腕に抱かれながら、リアは泣いた。さすがにラウルは、ばつの悪そうな顔をする。
「悪かったよ。本気じゃない」
ノエはよしよしとリアを慰めた。
「リア先輩は、繊細なんです。ゴミ虫みたいなラウルさんとは、違うんですよ」
「お前、どさくさに紛れて自分の株を上げようとするな。お前こそゴミ虫だろうが」
「僕は純粋に、リア先輩を心配しているだけですよ。ラウルさんと一緒にしないでください」
「お前、よくそんな……」
いつの間にか、リアは涙が止まっていた。
(ほっとしたら、お腹が空いたなぁ……。お肉が食べたい)
リアはノエの服の袖を、ぐいぐいと引っ張った。
「どうしましたか、リア先輩」
「ノエ君の手料理が、食べたいな……」
「喜んで作らせていただきます。何が食べたいですか?」
「シチューが、いいな」
「わかりました。では、早速作ってきますね」
ノエが離れようとした。だがリアはぎゅっと抱きついたまま、離さない。
「……ぁ」
「どうしましたか?」
「……もうちょっとだけ、ノエ君に抱きしめてもらいたい、かも……」
自分で何を言っているのだろう、と恥ずかしさで体温が上がった。ノエはリアをぎゅっと抱きしめ、リアの後頭部に頬を寄せる。
「なんでそんなにいじらしいんですか。リア先輩が可愛すぎて、死んじゃいます」
「ご、ごめん! 今の、忘れて!」
ラウルがノエの体を押した。
「おい、離れろよ」
「嫌ですよ。リア先輩は、僕に抱きしめてほしいって言ってるんですから」
「どうせ、異性として見られてないからだろ。異性として意識してたら、言わねえだろ」
「負け惜しみですか?」
そこで、リアのお腹が鳴った。わりと大きな音だったので、リアは気まずくなる。笑われるだろうと思いきや、ノエに頭を撫でられた。
「食事が完成するまで時間がかかるので、少しだけビスケットをお持ちしますね」
ノエは離れると、サイドボードのナイフを持って、部屋から出て行った。ラウルは椅子へ座ると、面白くない顔をする。
「すっかりノエに懐きやがって。無害な顔をしてるが、あいつだって男だぞ」
わかってはいるが、ノエといると、とても安心するのだ。彼はまるで、家族のように、あるいは大事な宝物のように、親身に接してくれる。
ノエが作ったホワイトシチューを食べたリアは、あまりのおいしさに作り方を聞いた。だが彼は教えてくれなかったのだ。
「秘密です」
「えぇ? どうして?」
「だって、作り方を教えたら、僕がリア先輩に作ってあげられなくなります。僕、リア先輩を餌付けしたいので」
ふと、気づいたことがある。彼はまるで束縛したいようなことを言ったり、ベタベタと接触してくるが、実際に手を出す気配がないのだ。それがわかるために、リアもつい気を許している。
リアは自室へ戻ると、試験勉強をすることにした。勉強を見てくれるのは、ラウルだ。
「ねぇ、ラウル君」
「なんだ?」
「私、やっぱり外には出られないんだよね?」
そう問いかければ、予想とは異なる答えが返ってきた。
「お前が寝ている間にノエと相談をしたんだが、村の中ならばどこへでも自由に行動できるようにしようと考えてる。お前だってずっと屋敷じゃ退屈だろうし」
「……どうして、急に方針が変わったの?」
ラウルは真面目な顔つきだった。
「お前が、人間じゃないからだ。お前だって正体をばらされたくないだろうし、俺たちのことを口外するとは思えない。……まぁ、お前が人間じゃない、っていうのは俺たちだけの秘密に留めておくつもりだ」
そのほうが勿論助かるのだが、理由が知りたかった。
「なぜ?」
「お前が魔の者だと知れば、俺たちの一族が興味を持つ。当然調査されるだろうし、下手をしたら連れて行かれる可能性がある。お前は、少し特殊で珍しいからな。それに、もう一つ理由があるが……、そっちは知らなくていい」
何がどう珍しいのかは、説明をしてもらえなかった。リアは真面目に勉強を続ける。夕暮れになると、ラウルが部屋の明かりをつけた。
「ありがとう、ラウル君」
「今日はもうそれぐらいにして、休め。昨夜あんなことがあったばかりだし、無理するな」
「平気だよ。運動しているわけじゃないし」
「怪我がまだ治ってないだろ。それに、お前とちょっと話しておきたいことがある」
改まった態度に、リアも彼の方へ体ごと向いた。
「話って?」
「お前の、今後についての大事な話だ」
「う、うん……」
彼は、話をするか迷っているようだった。どこか言いにくそうにしている。
「昼間にノエが少し言ってたが、俺たちは人間と性交をしても、子供を成すことができない。その逆もまた然りで、俺たちと同族の女が人間の男と交わっても、子供を成すことができない。……おそらくだが、お前もこの条件に当て嵌まる」
どこか遠い世界の話として聞いていたのに、そうではなくなった。
「……じゃあ、私は、私と同じ種族の人としか、子供を作れないの?」
頭の中が真っ白であり、声を出すのがやっとだった。
「多分な。シリルが戻ってきたら色々と説明をしてもらえると思うが、そう考えておいたほうがいい。お前が望むなら、ノエの親戚の病院で検査をしてもらえるはずだ。だが多分、結果は俺が言ったとおりになると思う」
どうしていいのかわからなくなった。焦点が定まらなくなり、リアは目を閉じて俯く。
「……私と同じ種族の人って、いるの?」
「あぁ。たくさんいる」
「そっか……」
たくさんいると聞いて、ほっとした。自分と同じ種族が大勢いるとわかっただけで、心に希望が持てたからだ。しかしながら、自らがどういう種族なのかは、まだ知るのが怖かった。
「心配するな。そんな世界の終りみたいな顔をせずとも、お前は幸せな人生を送れる。大丈夫だ」
ぽんぽんと、頭に手を置かれた。それだけで、リアは憂いが晴れる。
「私を育ててくれているカイお兄ちゃんには、心配をかけたくないの。身寄りのなかった私を引き取ってくれて、学校にも通わせてくれて……」
いつか恩返しをしたいと、ずっと思ってきたのだ。奇妙な体質についても、カイは長所だと言って慰めてくれた。
(実は人間じゃない、だなんて、言えない……)
これから先の暮らしが、全く想像できなかった。
二日後、リアは屋敷内での授業が終わってから、自宅へ戻っていた。一人での外出は久方ぶりであり、郵便物の確認や家の掃除を行ったのだ。
(屋敷からここまで歩いて帰ってきたけど、気分転換になったな)
執事のナタナエルは体調を心配し、車で送り迎えをすると言ってくれた。だがリアは断ったのだ。
「携帯電話の修理も、未だにできてない」
突如音信不通になったリアを、カイはとても心配をしてくれているだろう。リアは家での用事を終えると、屋敷へ戻るために外へ出た。だが家を出てすぐ、一台の黒い高級車が近くで停車した。スーツ姿の運転手が下りてきて、声をかけてくる。
「葉上様、お迎えに上がりました」
無碍に断ることもできず、リアは乗って帰ることにした。そうして屋敷へ到着すると、ナタナエルとノエが出迎えてくれた。ノエは学院から戻ってきたばかりなのか、まだ制服姿だ。
「おかえりなさい、リア先輩。どうでしたか? 久しぶりの外は」
「うん、楽しかったよ」
「それは良かった。……そういえばリア先輩。携帯電話を持ってる姿を見たことがないんですけど、携帯電話って持ってるんですか?」
リアは頷いた。
「うん。でも、この前壊しちゃってね。修理に出さないといけないんだけれど、ずっとできていないの……」
「そうだったんですか。実は今日、リア先輩の保護者だという方から、学院に電話があったんです。携帯電話に何度連絡をしても繋がらない、って」
「え! うわわ、どうしよう。カイお兄ちゃん、すっごく心配してるよね……」
「すぐに連絡をしたほうがいいですよ。僕の携帯電話を貸しますから」
ノエはミントブルーの携帯電話を差し出した。リアは受け取る。
「ごめんね。貸してもらうね」
リアはカイの携帯電話に繋がる番号を押した。呼び出し音が鳴り、少しして相手が出る。
「はい」
「あ、カイお兄ちゃん? 私。リアだよ」
「リア! お前、今までどうしてたんだ! 連絡をしても、全然繋がらないし……。俺はお前に何かあったんじゃないかって、ずっと心配をしてたんだぞ。シャンポリオン学院にも電話をかけたが、休んでるって言われるし……」
どう誤魔化そうか困った。だから、真実を交えて説明をする。
「あー……、ちょっと怪我をして、ここ暫く学院をお休みしていたの」
「は? 怪我? お前、大丈夫なのか?」
「うん。怪我自体は平気だったんだけれど、すぐに怪我が治ったら、周りから怪しまれるでしょう? だから、怪我が治るまで家にいたの」
「そうだったのか……」
「ごめんね、カイお兄ちゃんに連絡をしたかったんだけれど、携帯電話を壊しちゃって。まだ修理に出していないから、使えないの」
「そうだったのか……。だから、知らない番号からかかってきたんだな。友達の携帯電話か?」
「うん。友達が、携帯電話を貸してくれたの」
「そうか。……お前が元気ならいいんだ」
「カイお兄ちゃんは、元気だった?」
「あぁ。こっちはずっと快晴で、天気がいいよ。まだ仕事がもうちょっとかかりそうなんだが、俺が帰らなくても平気か?」
「うん。友達の家で食事を食べさせてもらったり、一緒に遊んだり、結構楽しんでるよ」
「良かった。……じゃあ、また連絡してくれ。俺も仕事が終わり次第、そっちへ戻るから」
「うん。カイお兄ちゃん、気をつけてね」
「お前もな。しっかり勉強をするんだぞ」
リアはカイとの通話を終えた。陽気な人であり、久方ぶりに声をきけたことで安心する。
「ノエ君。携帯電話を貸してくれて、ありがとう」
「いいんですよ、これぐらい。必要な際は、いつでも言ってください」
そんな会話をしていると、玄関の扉が守衛によって開かれた。中へ入ってきたのは、スーツ姿のシリルだ。髪をきっちり整えており、気品と華やかさが溢れている。
「おや……。二人とも、僕を出迎えてくれたのかな?」
ノエはにこりと微笑んだ。
「おかえりなさい、シリルさん。お疲れ様でした」
リアも挨拶をした。
「おかえりなさい、シリル先輩」
数日ぶりの再会だった。
「ただいま。君たちとゆっくり話がしたいけれど、まだ片づけなければならない用事が残っているんだ。だから、夕食後、僕の部屋へ来てほしい」
「わかりました」
シリルはナタナエルを伴って、二階へ上がっていった。ノエとリアは、自然と互いを見る。
「それではリア先輩。僕も部屋へ行きますね。制服を着替えて、シャワーを浴びたいですし」
「うん。……あ、ノエ君」
「はい」
「今度の土曜日、予定は空いてる?」
「はい。空いていますよ」
「もしもよければ、朱根塚の街まで付き合ってもらってもいいかな。携帯電話を修理したいの」
「わかりました。僕でよければ、お付き合いします。どうせですから、映画館にでも行きましょうか。夏休み向けの映画が、今度の土曜日から始まるんですよ」
「そうなんだ! 観たいな」
「じゃあ、お出かけを心置きなく楽しむためにも、明日からの期末試験、頑張らないといけませんね」
う、とリアは怯んだ。金曜日に終業式があるらしいのだが、リアは明日からの三日間、期末試験がある。
「徹夜で頑張るよ……」
「では、お夜食をお持ちしますね」
「ありがとう、ノエ君。もしも寝てたら、起こしてね」
リアはしっかり勉強を頑張ろう、と気合を入れた。
夕食後、リアはシリルの部屋へ向かった。いったい何の話をするのだろう、とドキドキする。
(やっぱり、私が脱走した件かな? それぐらいしか心当たりがないけれど……)
シリルの部屋の前まで来ると、ノエとラウルに会った。どうやら彼らも今来たところらしい。先にシリルの部屋の扉をノックしたのは、ラウルだった。
「入るぞ、シリル」
相手の返事も待たずに、ラウルは扉を開けた。ノエも後に続き、リアも遠慮気味に部屋へ入る。すると、豪奢な家具の数々が視界に飛び込んできた。壁はクリームゴールド色で、幾何学模様になっている。装飾がされた柱や天井は白で、ふんわりといい香りがしている。
(本当に、王子様みたいな部屋だ……)
壁際に置かれた棚の上には、大きな花瓶に花が飾られていた。部屋の中央には白のローテーブルがあり、大理石の天板がついている。そのテーブルを挟むように置かれているのが、草花が刺繍された椅子とソファーだ。シリルはソファーに座って待っていた。
「掛けるといい」
それぞれ一人用の椅子へ着席した。リアは周囲をちらりと見まわす。
「すごくいい香りがしますけど、香水ですか?」
「アロマキャンドルだよ。確か、今日はフィグとスパイスの香りにしてみたんだ」
少し甘いが、高貴で洗練された香りだった。
「こんなにもいい香りがするアロマキャンドルが、あるんですね。シリル先輩って、趣味がいいなぁ」
この発言に、隣の椅子に腰かけていたノエが反応を示した。
「リア先輩。僕が愛用しているアロマキャンドルやルームフレグランスでよければ、後でおすそ分けしますよ」
「ノエ君も、そういうのを使うんだ?」
「僕もいい香りのものが好きなので。特に、ウィンタースイートの香水が気に入ってます」
「へー、ノエ君もおしゃれだね。私、香水は使ったことないよ」
「リア先輩も、今度僕の香水を使ってみますか? ユニセックスな香りなので、女性でも使えますよ」
「え、いいの? 試してみたいなぁ」
そんな会話に、シリルは苦笑していた。
「まるで兄妹のように仲がいいね。それはさておき、本題に入ろうか。葉上リア」
リアはぐっと姿勢を正した。彼がこれからどんな話をするのか、緊張する。
「はい」
「お前が人間ではないとはっきりと証明されたことで、僕たちの正体を教えることにした」
「え? いいんですか? 私に教えて」
これまでずっと、彼らは秘匿としてきた。
「お前にも無関係じゃないしね。……色々呼び名はあるけれど、日本語で言おうか。僕たちは、人狼族、と呼ばれる種族だ」
「人狼族?」
「そう。狼に変身する種族なんだ」
「映画とかでよくある、狼人間、ということですか? 満月を見ると変身するっていう……」
「あれはフィクションだし、満月だからといって衝動的に変身することはないよ」
ラウルが何やら狼のようなものに変身するとは知っていたが、本当に狼だとは思わなかった。彼が変身した姿は、牛よりも巨大だったからだ。
「……確か、同じ種族同士でないと、子供が作れないんですよね? ということは、シリル先輩の親戚って、全員人狼族なんですか?」
「賢いね。そのとおり。ヴェルテート国の王家やその親族は、全員人狼族だよ」
「どうしてヴェルテート国の人狼族が、日本に?」
とても不可思議だった。何の目的で日本にいるのか、と。
「昔、人狼族はある出来事のせいで、数が大幅に激減したことがあったんだ。そのせいで近親婚をせざるをえなくなり、血が濃くなった。これでは種族が滅びてしまう、と危機感を覚えた僕らの先祖は、他国に人狼族がいないか探したんだ。……で、日本へ辿り着いた」
「日本に、人狼族が?」
「そう。僕の家の神狼家と、ラウルの大狼家だ。昔こそ純粋な日本の人狼族だったけど、今はヴェルテート国側の者と結婚をしすぎて、かなり血が薄まっているよ」
確かにシリルは外人にしか見えないし、ラウルも日本人離れした体格の良さと、堀の深い顔立ちをしている。
「人狼族というのはわかりましたけど……、その、人間を食べたくなるんですよね?」
今まで避けていた質問をした。
「人間を食べたいという欲求は、通常の食欲とは異なる。僕らは他の生物の肉を摂取することで、生命を繋いでいる。でも人間だけは特別でね。彼らを食べると、我々の身体能力が飛躍的に上がるんだ。自身の治癒力が向上するだけでなく、魔力も漲る。それを本能で知っているから、食べたくなるんだ。……まぁ、人間を食べることが許されているのは僕ら上位種だけの特権で、中位や下位は認められていない。全員が食べたら、人間側に排除されるからね。だから、僕らの一族が定めたルールに違反をした者には、罰が与えられる」
人間を食べるなど、想像しただけで吐きそうになった。だが堪えて、リアは質問を続ける。
「じゃあ、人間を食べなくても、生きられるんですね?」
「余程でなければ。滅多にないことだけれど、怪我を繰り返しすぎたり、魔法を使いすぎて魔力がなくなったり、または何らかの理由で生気が失われた場合、飢餓状態に陥る。こうなってしまうと、人間を食べるぐらいでしか助からない。まぁ、お前の言うとおり、日常生活を送るぶんには、人間を食べなくても平気だよ」
リアはノエとラウルを見た。その視線に気づいたラウルは、にやりと口元に笑みを浮かべる。
「なんだ、もしかして俺たちが人間を食べてるんじゃ、とか思ってたのか? 俺は人間なんて一度も食べたことねえし、食べなくても力が強い上位種だから、必要ない」
そうなのか、とほっとした。けれども、シリルは複雑な表情を浮かべている。
「僕らは人間を食べることを厳しく禁じているけれど、中にはそうでない人狼族もいる。僕らとは敵対していて、人間を食らうことをなんとも思っていない連中だ」
「え? そんな、怖い人たちがいるんですか?」
考えただけで、ぞっとした。人を食う魔物が、平然と闊歩しているなど。
「僕らは西欧のヴェルテート国の人狼族だけれど、他にも人狼族がいるんだ。例えば北欧の連中だけれど、彼らは基本的に排他主義で、他の人狼族のことは一切関知しない。厄介なのは、僕らと同じく西欧の国々で暗躍する人狼族だね。人間を食らった数だけ強さが比例するのを知っているから、連中は人間を食べることを何とも思っていない。それどころか、推奨すらしている。……まぁ、そんなことをされたら人狼族の存在が明るみに出るし、大変な事態になる。だから僕らは、連中の悪行を阻止、または被害を最小限に抑えてきた」
自分が知らないところで、そんな争いが起きていたとは知らなかった。
「……、人間を食べたかどうかって、わかるんですか?」
「外見上からはわからないね。それにそういう連中は、自分の気配を巧妙に隠している。身体能力が異様に高かったり、生気や魔力量が桁外れだったりすると、人間を食べているかどうかがわかるよ」
自分の想像すらしなかった話をきかされ、リアは落ち込んだ。だが、シリルたちは人間を進んで食べる者たちではない、というのはわかった。
「よく、存在を知られることなく、人間社会に溶け込んでいますよね……?」
「全くばれていないわけじゃないよ。人狼族は悪だとして、問答無用で狩りにくる頭の悪い奴らがいるし」
「そうなんですか?」
「うん。教会のハンターどもだよ。あいつらの思考、中世から進歩してないから」
おかしそうにシリルは笑っていたが、侮蔑と嫌悪が滲んでいた。そのことから、よほど嫌いなのだとわかる。
「あ、あの。シリル先輩」
「なにかな?」
「私の正体について、見当がついてるって聞いたんですけど……」
「あぁ……、うん。そうだね」
「教えてもらうのは、もうちょっと待ってもらえませんか。……私はずっと、自分が人間だと思って生きてきたんです。だから、自分が人間以外の存在だっていうのが、まだ受け入れられなくて……」
「仕方ないよ。お前がそう感じるのは、当然のことだ。……まぁ、お前が知りたくなったら、僕でもノエでもラウルでも、聞くといい」
リアは小さく頷いた。
「感謝します、シリル先輩」
「それじゃあ、そろそろこの話は終わりにしよう」
ラウルは椅子から立ち上がると、ぐっと背伸びをした。ノエはリアへ声をかける。
「リア先輩。お部屋に戻りましょうか」
ノエが差し出してきた手につかまると、立ち上がった。
「ありがとう、ノエ君」
「お部屋までお送りします」
リアは部屋を出る直前にシリルへ挨拶をすると、ノエと一緒に部屋を出た。廊下に出ると、ラウルは立ち止まる。
「お前、明日から試験だよな?」
「うん……」
「じゃあ、勉強を見てやる」
ありがたい申し出だった。
「すごく助かるよ」
「そうか。じゃあ」
ラウルはリアの体を両腕に抱き上げた。それとともに、リアはノエと手を離す。
「ラウルく……っ!」
「ってなわけだ。ノエ、こいつは俺がしっかり面倒を見るから、お前はもう部屋へ戻っていいぞ」
ノエを見下ろすラウル。だがノエはにこりと微笑んだ。
「いえ、僕はリア先輩が安心して勉強ができるように、サポートする役目があるので。特に、どこかの図体がでかい駄犬がマーキングしないように、見張りをしないといけませんから」
ラウルとノエが無言で互いを見ていた。リアは、どうして二人はいつもこうなのだろう、とがっくりする。そして、こういったやりとりに慣れつつある自分に、二重にへこんでしまう。
「部屋に戻ってもいいかな……? 勉強がしたいんだけれど……」
結局、ラウルとノエと一緒に部屋へ戻ることになった。リアが勉強をする間も二人は何かと嫌味の応酬を繰り返していたのだが、リアは途中から耳栓をつけて勉強に集中した。
群狼村を眼下に捉える者たちがいた。彼らは夜闇に紛れ、標的に気取られないようにずっと監視していたのだ。
「己岡さん。朱根塚の件は、やはり魔の者の仕業のようです。遺体が焼却される前に、確認することができました。匿名の情報通り、この村に潜伏しているのでしょうか」
問いかけてきたのは、まだ年若い修道士だ。己岡は、日本の枢機卿から聞かされた話を思い出す。日本の群狼村という場所に、人狼がいるらしい、と。匿名でもたらされた情報に、最初は半信半疑だった。だがよく調査をすると、不審な点が多かったのだ。
ヨーロッパ大陸では、人狼族という魔物は珍しくはない。古来より数多く狩られてきた、ポピュラーな魔物だ。だが日本という土地で、人狼の話は少ない。有名なのは送り犬や、大白毛の狼の伝承だ。送り犬は送り狼とも言われることがあり、夜道に歩いている人間が転ぶと、その人間を襲うとされている。だが、逆に山犬たちから守ってくれる者もいるという話もある。大白毛の狼は、白い毛並みを持つ雌の人食い狼だ。人に化けたという記述が残っている。
(日本という狭い島国で、人狼のような魔物が繁殖するのはよくない。ヨーロッパでの人狼による年間死者数は、膨大だ。行方不明者まで含めれば、更に被害者は増えるだろう。……一匹残らず駆除しないと、日本は大変なことになる)
ここ数百年間確認はされていないが、人狼族の中には稀に、人間を人狼に変える恐ろしい存在が誕生することがあるらしい。人狼族の間でも特別な存在とされ、救世主とされている。
「魔物どもめ」
己岡は、必ず見つけ出すと心に誓った。