第六話
期末試験が無事に終わり、リアは夏休みを迎えた。そして今日は、ノエと一緒に出掛ける約束をしている日でもあった。
(まずは携帯電話を修理に出して、それからノエ君と映画を見たり、お昼ご飯を食べたりするんだよね?)
試験から解放された喜びで、朝から機嫌が良かった。朝食の時間も、ずっとニコニコしていたのだ。
「夏休みでそこまで喜べるなんて、単純なお前が羨ましいよ」
シリルから皮肉られたが、リアの笑顔は途切れなかった。
「だって、夏休みですよ。いっぱい遊ばないと」
「遊ぶ時間なんてあるのかな? 宿題がたくさん出ているはずだけれど。まさか、とは思うけれど、神狼家の屋敷で暮らしている者が、夏休みの終了間際にまとめて宿題をしよう、なんてことは考えていないよね?」
リアはちらりとラウルを見た。ラウルは眉を寄せる。
「宿題のノートは、写させないぞ」
「そんなこと思ってないよ。一緒に勉強をしようかな、って思っただけで」
「お前のペースに合わせてたら、宿題が終わらねえだろ。きちんと自分の力で宿題をしろ」
リアはしょんぼりした。ノエは苦笑しながら、焼き立てのパンを指でちぎる。
「じゃあ、僕と一緒に宿題をしましょう、リア先輩。面倒な宿題も、リア先輩と一緒なら楽しいですし。わからないところは、教えてあげますよ」
リアは首を傾げた。
「……え、でも、ノエ君って私より学年が一つ下だよね?」
「はい。でも、ヴェルテート国で暮らしていたときに、高校を無事に卒業できる程度の勉強は学んでいるので、リア先輩の勉強範囲もわかりますよ」
「そうなの? 凄い!」
ヴェルテート国で暮らしていたとき、ということは、まだ高校生になる前のことだ。リアは純粋に感心した。
「はい。ですので、僕でもお教えできると思います」
リアはノエの手を取ると、ぎゅっと握った。
「ノエ君、ありがとう。ノエ君が、神様に見えるよ」
これにラウルが、皿の上にあったウィンナーを、フォークで思い切り突き刺した。
「おい、ノエ。リアを甘やかすな」
「いいじゃないですか。きちんと理解させながら学習するほうが、大切ですよ。ラウルさんはどうぞお一人で、勉強をしてください」
シリルはサラダを食べながら、同情の目をリアへ向けた。
「ノエは大らかに見えて、結構厳しいよ。夏休みの宿題がきちんと終わるまでは、当分外出禁止だろうね」
リアは言われてみれば、とパンを頬張った。ノエは純粋無垢なように見えて、容赦ないところがある。
(でも、今日は前々から約束をしていたし、一緒に出掛けるよね?)
ちらりとノエを見れば、視線が合った。彼はにこりと微笑んでくれる。時間がなかったのでどんな映画を見るかなど相談をしていなかったが、リアは出かけるのが楽しみで仕方がなかった。
朝食後、リアはライラック色のワンピースへと着替えた。腕はチュールレースになっており、ロング丈のスカートにはレースとパールがついている。髪は女性の使用人が整えてくれたのだが、編み込みにサイドアップをし、そこへとてもキラキラした花のヘアアクセサリーをつけられた。その際、デートを楽しんできてくださいね、と笑顔で言われたのだ。
(単にお友達同士のお出かけで、デートじゃないんだけれどな……)
そう思いつつも、なぜか気恥ずかしかった。
支度が終わると、リアはノエと待ち合わせをしている一階の玄関ホールへ向かった。既にノエは待っており、階段を下りるリアを見るなり、とても驚いた顔をする。
「ノエ君、ごめんね。お待たせ。……どうかした?」
階段を下りきると、ノエの前に立った。彼は頬を赤くし、口元に手を当てる。
「いえ、リア先輩があまりにも綺麗すぎたので、びっくりしてしまって。僕のために、おしゃれをしてきてくれたんですか?」
リアは内心焦った。ノエと出かけるから一緒に服を見立ててほしい、とお世話になっている使用人の女性に手伝ってもらったのだ。
「そ、その、コーディネートは私じゃないの。いつもよくしてくれる使用人さんに、服を選ぶのを手伝ってもらったんだ」
「そうだったんですね。とても似合っていますよ」
服は全てノエが購入したものなので、似合っていると言ってもらえてほっとした。彼はチャコールのパンツに淡い水色のリネンシャツを着ており、黒いサンダルを履いていた。
「ノエ君、カジュアルな服装だね。わ、私ももっと、カジュアルな服装にすればよかったかな」
なぜか声が震えてしまった。
「僕はカジュアルよりも、可愛らしい服装をしているリア先輩が好きなので、そのままでいてください」
「え?」
「リア先輩は、僕のお姫様ですから」
どうしてこうも恥ずかしくなるセリフを、彼はさらっと言えるのか。リアは照れてしまい、動けなくなる。そんな彼女を見て、ノエは腰を抱いてエスコートをした。
「さ、リア先輩。行きましょう」
車へと乗せられ、朱根塚の街の駅まで行くことになった。車だと、一時間近くかかる。その間、リアはノエと話をすることにした。
「ノエ君。今日はどんな映画を見ようか。朱根塚の映画館って、確かミニシアターだよね?」
記憶にあるのは、小さな古びた映画館だ。スクリーンが二つしかないので、上映される映画も少なかった。
「いえ、最近シネコンになったらしいですよ」
シネコンとは、シネマコンプレックスのことだ。一つの施設内に複数のスクリーンがあるので、上映される映画の本数も多い。
「そうなんだ……。昔私が暮らしていた子供の頃と比べて、すごく変わっちゃったんだろうなぁ」
引っ越しの際に駅前の道を通ったが、知らない店がたくさんできていた。
「映画は、なんのジャンルがいいですか? 今日から公開の映画は、アクションものとファンタジーものですね。あとは恋愛ものとホラーがあるようです」
「ホラーは、ちょっと無理かも……。私、ホラーは苦手で……」
「じゃあ、恋愛ものにします? 恋愛ものなら、残酷なシーンはないと思いますし」
ノエと二人で恋愛ものの映画は、想像しただけで気まずかった。ベッドシーンが出てきたときには、目も当てられない。
「アクションものか、ファンタジーがいいかな?」
「わかりました。では、映画館に到着してから、どっちにするか考えましょう」
駅前に到着すると、ノエと二人で車を降りた。先に携帯電話を修理に出し、代替機を受け取った。
(これで、カイお兄ちゃんといつでも連絡できる)
リアは隣に並んで歩くノエを見上げた。リアがなるべく日陰を歩くようにし、彼は日向を歩いている。
「人が多いですね」
ノエの言うとおり、往来は人で溢れていた。土曜日であることや、夏休みに入っているために、混雑している。しかも、ノエは道を歩く女性たちの視線を集めていた。
(ノエ君、目立つからなぁ。たくさんの人が見てる)
しかも、声が聞こえてきた。
「うわぁ、すっごくかっこいい外人がいる」
「スタイルいいよね。足、なっが!」
「あんな彼氏、ほしーい」
「隣のハーフっぽい女の子、彼女かな?」
リアは俯いた。今の会話を、隣にいるノエが聞こえていなければいい、と願いながら。だがふと、掌を握られた。指と指を絡ませるように。
「こうすれば、もっと恋人らしく見えるんじゃないでしょうか」
悪戯っぽい笑みを浮かべるノエ。恋人繋ぎをされており、リアは挙動不審になる。
(聞こえていないはずがなかった!)
リアは少しだけ、唇を尖らせた。
「ノエ君、私を困らせたくて、わざとやってるでしょ」
「困っちゃうんですか? 僕は困らせたいなんて思っていませんよ?」
「だ、だって、こういう手の繋ぎ方、友達同士ではしないもの」
「僕は、リア先輩とこういう手の繋ぎ方をしたいですよ? いいじゃないですか、友達同士でこんな繋ぎ方をしても」
話が通じないと思った。そのままリアとノエは、映画館がある建屋へ入る。すると、冷気が体を包んだ。かなり冷房がきいており、汗が引く。
「へー、アクション映画はスパイものなんだね。ファンタジー映画のほうは……」
凶悪な吸血鬼や狼人間、ドラゴンなどを爽快に切り倒す、騎士の話となっていた。
(あー……、ファンタジーのほうは絶対にないなぁ……。こんなの見たら、ノエ君が気分を害するよね)
恋愛ものは、悪魔に変身した王子と姫が恋に落ちるものらしく、ホラーものはゾンビのせいで世界がパニックになる話のようだった。リアは考えるまでもなく、アクション映画一択だった。
「どれも面白そうですね。……アクション映画は、よくバッドエンドで終わるのが好きな監督の作品なんですね。……じゃあ、今回ももしかすると、バッドエンドかなぁ。僕はハッピーエンドが好きなので、幸せな結末で終わる映画がいいんですけど……。あ、リア先輩が見たいものなら、なんでもいいですよ」
ならば、ファンタジーか恋愛か、ホラーの三つしかなかった。マイナーな映画も上映しているようだが、全身タイツ姿のヒーローが、珍玉という名の悪と戦う変態コメディとなっている。勿論、絶対に見たくない。
「じゃあ、ホラーものにする?」
ホラー映画は苦手だが、ファンタジーや恋愛ものを見て気まずくなるよりはマシに思えた。
「ホラー映画ですか? ……あ! R指定がついていますね。僕たちは年齢制限で見れません」
ならば、残る選択肢はファンタジーか恋愛しか残されていなかった。
「……じゃあ、恋愛ものでいい? ファンタジー映画のほうは、ちょっと残酷そうだし……」
「そうですね。そうしましょう」
リアはチケットを買いに、走ろうとした。いつも彼にお世話になっているので、せめてお礼にチケットを買おうとしたのだ。だが、後ろから腹部に腕を回されて、動きを止められる。
「ノエ君? なに?」
「いい子ですから、ここで待っていてください。気持ちだけで十分ですから」
「やだよ! 今回ばっかりは、譲らないからっ」
ノエはリアを振り向かせると、唇へ軽くキスした。
「駄々っ子なリア先輩も、可愛くて大好きですよ」
ノエはリアを近くにあったソファーへ座らせると、チケットを買いに行ってしまった。
(……? え? 今、キスされた?)
頬が熱くなり、リアは動揺する。
「ノエ君、ズルイよ……」
悔しいので、リアは飲み物とポップコーンを二人分買った。ノエが好きな飲み物は、お茶だ。なので、アイスティーにした。そうしてノエが戻ってくるのだが。
「……あれ、リア先輩。飲み物を買ってくれたんですか? ありがとうございます」
「ううん、こっちこそ、チケットありがとう。ノエ君の、アイスティーにしたんだけれど、良かったかな? 違うのがよければ、別のを買ってくるけど」
「いいえ、アイスティーがいいです。……よく、わかりましたね。僕がアイスティーがいい、って」
「だってノエ君、屋敷にいるとき、お茶以外の飲み物を飲んでる姿、見たことがないもん」
いつもリアが使っている休憩室に茶葉が多いのは、おそらくノエが使っているからだろうと想像した。
「他の飲み物が嫌いというわけじゃないんですけど、お茶が一番ほっこりするから、好きなんですよね。あ、持ちます」
ノエはドリンクとポップコーンが乗ったトレーを、リアから受け取った。
(すごく、普通だ。さっき、キスをしてきたのに……)
リアは悶々としたが、顔には出さないように努めた。
映画が始まると、リアは集中した。
(よかった。恋愛ものということで心配したけれど、すごく健全だ……!)
しかも、姫と悪魔になった王子の関係がどうなっていくのか、非常にハラハラする。王子がなぜ悪魔になったのかという理由のシーンでは、リアは涙ぐんでしまった。
(う……、こんなの泣かないほうが、無理……)
王子は幼馴染の姫を敵兵から守るために、悪魔に魂を売って契約をしたのだ。だが王子は姫に本当の正体を言えず、苦悩する。しかしながら、姫は悪魔が王子だと気づき、なんとか元の姿に戻す方法を探す。
ちらりと隣の席にいるノエを見ると、リアは体が固まった。というのも、普段の彼には似つかわしくない、どこか冷めた目をしていたからだ。リアはすぐに映像へ目を戻すのだが、不安になる。
(館内が暗いから、そう見えただけだよね? あ、もしかして、この映画はノエ君には合わなかったのかな?)
クライマックスのシーンでは、王子は悪魔から人間へと戻ることができた。そして姫と結婚をし、ハッピーエンドで幕を閉じた。
映画館の入り口まで戻ってくると、ノエが笑顔で話しかけてきた。
「面白かったですね、映画」
「う、うん。……ノエ君、大丈夫だった?」
「何がですか?」
「恋愛ものって女性は好きだけれど、男性は苦手な人が多いから……」
「僕は平気ですよ。それに、とっても面白かったです。最後、二人が結ばれて、本当に良かった。悲劇で終わる物語は、好きじゃないので」
リアはノエの腕の裾を掴んだ。
「あ、そうだ。ノエ君。せっかく二人で初めてのお出かけだし、写真を撮ろう?」
「いいですね。じゃあ、僕の携帯電話で撮りましょうか」
映画のポスター前で、並んで撮ることになった。ノエが腕を伸ばし、セルフ撮影をしようとする。
「えと、こんな感じ?」
「もっと僕の方へ寄ってください」
「う、うん」
腰を抱かれ、引き寄せられた。ノエと体が密着している。これにより、リアは恥ずかしさで緊張した。
「いきますよ」
写真が撮れた。撮れた画像を見せてもらうのだが、明らかに自分の表情は強張っている。
(う。残念な顔)
しょんぼりすると、ノエが笑った。
「そんな顔をしないでください。今度、とびきりおいしいホットケーキを作ってあげますから」
「本当? 嬉しい!」
笑顔を浮かべたところで、ノエがリアの額へキスをした。それとともに、何か電子音が鳴る。よく見ると、ノエは携帯電話を持ったままだった。しかも、携帯電話で何かを確認し始める。
「あ、上手に撮れました」
「え! まさか、さっきの撮ったの?」
ノエはリアを見て、すっと携帯電話を服のポケットへ入れた。
「いえ、何も撮っていませんよ」
「嘘! だって、音がしたよ?」
「気のせいですよ。さ、外へ出ましょう。お腹が空きましたしね」
ノエの手を引かれて、映画館の外へ出た。リアも、確かにお腹がすいた、と考える。
「どこに、食べに行く?」
「幾つか候補はつけてきたんですが、和食、洋食、中華、何がいいですか?」
「ノエ君が行きたいところでいいよ。私、ノエ君が食べたいものを、食べたいな。ノエ君のこと、もっと知りたいから」
ノエはうーん、と暫し考え込んだ。
「……では、鴨のロティが食べられるおいしいお店があるんですが、そこへ行きませんか? 車で少し移動をしなければいけませんが」
ロティとはなんだろう、とリアは思いつつ、頷いた。そうして車で隣町にあるレストランへ到着したのだが、リアは早くも後悔していた。
(え。何この高そうなお店……)
店構えからして、普通のレストランではなかった。ごく限られた者しか利用できない、会員制の店らしい。外観はモダンな和風建築だが、内装は洋風になっている。壁紙はシノワズリであり、立派な庭園にはまるで神殿の廃墟のようなフォリーがあった。部屋は全て個室らしく、壁にはカメオガラスのランプ。
「ポークリエットでございます」
給仕人によって、料理が運ばれてきた。座り心地のいい椅子にいるというのに、リアは場違いな気がして震える。それを見たノエは、クスクスと笑った。
「リア先輩、緊張しすぎですよ。もっと楽にしてください。個室だから、誰も見ていませんし」
ノエは慣れた様子で、食事をしていた。リアは先ほどから味が全くわからない。なぜ昼から豪華な料理を食べているのか。
「こ、このスープ、おいしいね?」
カリフラワーの冷製スープの中には、パスタのようなものが入っていた。
「そうですね。このオマールエビのラビオリも」
オマールエビと聞いて、リアはいったいどれだけ高い料理なのかと、生きた心地がしなかった。
(そういえば、さっきの前菜に、黒いキャビアっぽいものとか、金粉とか乗ってた)
はっきりと聞いたことはないが、おそらくノエの家は裕福だ。そのため、庶民のリアとは価値観などが異なることが度々ある。
「……ねえ、ノエ君。私に結構お金を使ってるけど、ご両親に怒られない?」
「え? どうしてですか?」
「だって、かなりの金額を使っているでしょう?」
「いえ、そんなことはないですよ。それと、リア先輩に使っているお金は、全て僕のポケットマネーです。だから、安心してください」
少しも安心できなかった。関係図にするならば、年下の男の子から貢がせる、悪女である。リアは軽く眩暈を覚える。
「それって、貯金を崩して私に使っている、ってことじゃないの?」
「ちゃんと僕が働いて稼いだお金ですよ?」
「えぇ! ノエ君、働いているの?」
「はい。兄たちの仕事を手伝わされたり、一族の仕事を手伝わされたり……。かなりまとまったお金になるので、少々お金を使ったところでなくなることはありません」
知らなかった、とリアは唖然としていた。
(私、ノエ君のこと、全然知らないんだな……)
ショックを受けた。
「リア先輩。こういうお店は、苦手ですか?」
「う……」
「慣れてくださいね。これからもっと、こういうお店に来る機会が増えるでしょうから」
「……わ、私は庶民だから、こういうお店には慣れたくないよ」
「……まぁ、僕と結婚をしたら、嫌でもその内慣れますよ」
冗談とも本気ともわからぬ声音だった。リアは聞こえなかったふりをし、目の前にあるレモネードを飲む。
(ノエ君が何を考えているのか、全然わかんない……)
ふと、リアはしょんぼりした。その挙動に、ノエはすぐに反応をする。
「どうかしましたか? リア先輩」
「……私、ノエ君たちのこと、何も知らないな、って思って……」
ノエは自分のリンゴのジュースを一口飲んだ。
「僕も彼らのことはそんなに詳しく知っているわけじゃないんですけど」
「え? そうなの?」
「はい。僕、十三歳まで体が弱くて、あまり外に出られなかったんですよ。だから、シリルさんやラウルさんとは、それまで面識すらなくて」
その話は、以前シリルから聞いたことがあった。
「もう、体はいいの?」
「えぇ。今は問題ありません。……そういう事情なので、僕もリア先輩とそんなに変わらないですよ。僕が知っていることなんて、誰でも知っているようなことばかりですし」
「誰でも?」
「はい。たとえば、ラウルさんは大狼家の御曹司、っていうことでしょうか」
「大狼家の、御曹司?」
「はい。ホテルオーガミ、とか、オーガミリゾート、とか、オーガミコーポレーション、とか聞いたことありませんか?」
聞いたことがあった。全て、有名な名前だ。テレビのコマーシャルやスポンサーなどでもよく目にする。
「う、うん、知ってる」
「あれ、全てラウルさんのご実家が経営してるんですよ。……まぁ、ラウルさんはとある事情で、ご実家とは疎遠なんですけどね」
「そうなんだ……?」
ラウルがそういう出自だとは、思わなかった。
「あとは、シリルさんが極度の甘党、っていうことは知っていますよ。本人は隠していますけど」
「へぇ? シリル先輩、甘党なんだ?」
「はい。ストレスが溜まると、ケーキとかバクバク食べるみたいです。いつもは執事のナタナエルが厳しく目を光らせていますけど、そうでないときは三食甘いものを食べたりするみたいです」
「シリル先輩って自分の生活をきっちり管理してるイメージがあるけど、そんなことをするんだ?」
「ね、意外でしょう?」
想像すると、可愛らしかった。ケーキばかり食べているシリルの姿は、まるで子供のようだ。
「じゃあ、ノエ君のことも教えて?」
メインディッシュの、鴨のロティが運ばれてきた。グリーンペッパーと、スライスされたトリュフ、そして塩がかかっている。
「いいですよ。僕は四人兄弟の末っ子で、上に兄が三人います」
「うん、うん」
「一番上の兄は医者で、二番目の兄は社長で、三番目の兄は芸能人です」
「へー、芸能人なんだ?」
「僕はテレビをあまり見ないので知らないんですが、それなりに売れてる若手アイドルらしいですよ」
美少年のノエの兄ならば、さぞや美形だろうと簡単に想像がついた。
「ノエ君のお兄さんなら、応援しないとね。今度、テレビをチェックしておくね」
「いいですよ、そんなことしなくて。三番目の兄は調子に乗ると、うざいですし」
リアは笑った。彼の口から家族の話がきけて、嬉しくなる。
「夏休みは、家族とどこか旅行に行く予定はあるの?」
「いえ、僕以外の兄たちは全員成人していますし、予定も合わないので、旅行はしません。正月だって、家族全員が揃うのは滅多にありませんしね」
「そっか……。なんだか、寂しいね」
「リア先輩は、夏休みは何かご予定が?」
その問いで、リアは思い出した。
「うん。私の保護者のカイお兄ちゃんと、友達と一緒に旅行へ行く予定があるよ」
「友達?」
「うん。普段は海外で暮らしてるんだけれど、夏休みに日本へ遊びに来る、って連絡があったの」
ノエはへー、とどこか思案していた。そして彼は、天使のような笑顔を浮かべる。
(あ、この笑顔は、怒ってるときの笑顔だ……)
その予感は的中した。
「それって、リア先輩へブランドのリップクリームや、高価なバッグを送ってきた人ですか?」
「……、う……、うん」
「なるほど。とっても親しい間柄なんですね。……あぁ、そうだ。リア先輩。これが、鴨のロティですよ。どうぞ、食べてください」
一口大にナイフで切られた鴨肉を、ノエはフォークに刺してリアの口元へ持って行った。リアは鴨肉とノエの顔を交互に見る。
(う……。食べないと、機嫌がもっと悪くなりそう)
リアは躊躇いがちに口を開いた。ノエはリアの口の中へ、鴨肉を運ぶ。
「おいしい! すっごく柔らかい! なにこれ!」
あまりのおいしさに、リアは味わって食べた。その様子に、ノエはやや拗ね気味。
「ずるいですよ、僕怒ってるのに。そんなリスみたいな可愛い顔でモグモグされたら、怒れないじゃないですか」
リアは自分の鴨肉をナイフとフォークで切ると、ノエの口へ鴨肉を運んだ。
(ノエ君も、リスみたいにモグモグするのかな?)
そんな期待感といたずら心があった。
「ノエ君も、あーんして?」
このときばかりは、年の近い男の子が相手だというのを、ほんの一瞬忘れてしまった。そんなリアの心を見透かしたかのように、ノエの雰囲気が変わる。
「まさかリア先輩から間接キスを強制してくれるとは、思いませんでした。結構大胆だったんですね」
「え!」
ノエがリアの手首に手をそっと添えると、自分の方へフォークを引き寄せた。そしてゆっくりと見せつけるように、フォークから鴨肉を口で取って食べる。
(うぅ、思ってたのと全然違う……っ。ノエ君、なんでこんなに色気があるのっ)
小動物らしさは全くなかった。感じるのは、自分の手を掴んでいる彼の手が大きいことや、彼が男性だということ。しかもこの状況で、彼にキスされたことを思い出してしまった。
「ふふ。なんだかとっても甘く感じます。この鴨のロティ。もっとリア先輩に、食べさせてもらいたいなぁ」
これ以上は、妙な雰囲気になりそうな予感があった。だからリアは、無理やりその空気を壊す。
「だ、だめ! もうおしまい!」
「ふふ。残念。間接キス、ごちそうさまでした」
ノエは楽しそうにずっと笑っていた。リアは、机に突っ伏して叫びたい気持ちになる。
「……そういえば、鴨って冬のイメージがあったけれど、夏でもおいしいね?」
「夏鴨は脂が少ない分、鴨の赤身の味が楽しめますしね」
料理の最後には、薔薇の香りがするライチのジェラートが出てきた。ガラスの容器に、白いジェラートと、ピンクのバラのソースがかかっている。
「うわぁ、キレイ……。食べるのがもったいない……」
そう言えば、ノエは笑った。
「リア先輩って、まるで小っちゃい子供みたいですね」
ノエが大人びているのだと、リアは心の中で反論しておいた。
食事が終わった後、リアはノエにお礼を言った。
「ノエ君、ありがとうね。ごちそうしてくれて」
「いいんですよ。またおいしいものを食べに行きましょう」
「う、うん。そうだね。今度は、私が食べたいものに、付き合ってほしいな」
「はい。何が食べたいですか?」
「たこ焼き」
「え? たこ焼き?」
「うん。たこ焼き」
「好きなんですか?」
「うん、大好き」
たこ焼きならば、高級な店はないだろうと、そう言ったのだ。
「そうですか……。では、一流のたこ焼き職人を雇って、目の前で焼いてもらいますね? タコや青のり、それから鰹節や小麦粉など最高級のものを用意して、紅しょうがも取り寄せましょう」
「そんなことしなくていいから。普通に、路地で売ってるたこ焼きでいいから」
ノエは困った顔をした。
「路地、ですか?」
「うん。ノエ君と公園のベンチに座ってたこ焼きを食べたり、たい焼きを買い食いしたり、そういうことがしたい。……ノエ君は、嫌かな?」
彼の育ちから考えるに、そういうのはしたことがないのでは、と不安になった。
「いえ、僕も好きです。今度、そうしましょう」
リアはほっとするとともに、笑みがこぼれた。
「私、おいしいたい焼き屋さんを知っているの。小さい頃、よくそこで買っていたの。今もまだお店があれば、そこのたい焼きをノエ君に食べさせてあげたいな」
ノエはリアの様子に、微笑ましそうにしていた。
「リア先輩。僕に遠慮とかしなくていいですからね」
ぎくり、とリアは内心焦った。おそらく彼はなぜリアがたこ焼きやたい焼きがいいと言い出したのか、わかっている。
「ふ、普通の学生のお出かけは、これぐらいだもの。ノエ君がおかしいの」
「リア先輩には、僕はなんだってしてあげたいんです。おいしいものがあれば食べさせたいし、欲しいものがあるなら、なんだって贈りたい。リア先輩の幸せは、僕にとっての幸せなんです」
彼の脳内はどうなっているのだろう、と物凄く心配になった。彼はどこまでも、甘やかそうとする。
「ノエ君。もしも私がノエ君を誑かして惑わす、悪い奴だったら、どうするの?」
「敢えて騙されてあげます。リア先輩になら、何をされても構わないので」
彼は病気かもしれないと思った。さすがにちょっと怖くなる。
(でもノエ君って、私にはいっぱい尽くすのに、見返りを求めない)
それは、期待されていないのと同じだった。リアはそれが無性に切なくなり、ノエの体を抱きしめる。
「ノエ君は、私にして欲しいこと、ないの? 私もノエ君に何かしたいよ」
「リア先輩が抱きついてきているのが可愛すぎて、今とても幸せです」
「もう! そういうことじゃなくて」
「リア先輩が僕の手料理をおいしいと言って食べてくれたり、僕の買った服を着てくれたり、僕とこうして一緒にお出かけをしてくれたり。僕はリア先輩にしてもらいたいことを、いっぱいしてもらっていますよ。他にもして欲しいことはありますが……」
「なに? 私にできることなら、するよ?」
「リア先輩が入浴のときに、僕がお世話をするとか、入浴が嫌ならマッサージをしたいです」
リアは顔から表情が消えた。
「うーん、そのお願いは、一生きかないかな」
「じゃあ、今はキスで我慢します」
ノエはリアの額へと、口づけを落とした。それがくすぐったいのだが、同時に心地良くもある。
(……なんだか、おかしいな。ノエ君の都合がいいように、掌の上で転がされてるような……。気のせい、だよね?)
群狼村へと入る、風目橋が見えてきた。頑丈な鉄橋を渡りきると、車はそのまま大通りへさしかかる。ところが、背後で爆音が轟いた。いったいなにが、と車が停車する。ノエとリアは同時に後部座席の窓へ顔を向けるのだが、もくもくと煙が上がっていた。
「リア先輩は、車で待っててください。僕は外を見てきます」
ノエが車を降りて、背後へ走って行った。何が起きたのだろう、とリアは不安になる。それとほぼ同時、何かぞわりとするものが空を覆うのを感じた。気になって空を見上げれば、何か膜のような薄いものがある。
「あれは……」
そこでノエが戻ってきた。彼は車に乗ると、運転手へ屋敷へ戻るように指示を出す。
「ちょっと、厄介な事態になりそうです」
「え?」
「橋が何者かによって爆破されたみたいです。橋が使えないので、村からは誰も出られなくなりました」
「えぇ! す、すぐに警察か消防を」
「それも、無理です。おそらく橋を落としたであろう存在が、この村全体に結界を張って、隔離したので」
「結界……?」
「はい。魔力がない者は、この村を結界の外から視認できません。入ることはおろか、たどり着くこともできないでしょう。そして外界から切り離されているので、電話もネットも繋がりません」
「外界から切り離されてるって、どういうこと?」
「ここは今、異空間にあるんです。僕らは狭間の世界、と呼んでいるんですが……」
「……ぅ、うん?」
よくわからなかった。自分の理解力の乏しさに、悲しくなる。
「もっと簡単にわかりやすく説明をするとですね、鏡の中に閉じ込められた、または絵の世界に閉じ込められた、という感じに近いです。ここで例えた鏡や絵の世界のことを、僕らは狭間の世界、と呼んでいるんです」
少しも現実感がなかったが、狭間の世界という場所に閉じ込められたのは理解した。
「……その、狭間の世界、というのは、どんな場所なの?」
「ここは現実世界と異界の間にあるので、狭間の世界と言われています。この世界自体は、普段は何もありません。でも結界などの術で現実世界から隔絶されると、自動的にこの世界へ入るんです」
「……危険性は?」
「ほぼありません。……まぁ、ごく稀に異界に飛ばされる人がいますが」
「異界って、なに?」
「ほら。日本でも神隠し、とかあるでしょう? あれと同じで、妖精が住む国や、神と称される者がいる世界へ、行ってしまう人間が稀にいるんです。普通の人間や僕たちは、結界が消えれば現実世界へ強制送還されます」
リアは周囲を見回した。
「本当に、現実世界から別の場所へ移動してきたの? 狭間の世界、っていう場所にいる感覚がないんだけれど……」
「村の外にある景色は、全て現実のものですよ。ただ現実の景色が見えるだけで、あちらへは辿り着けません。薄い膜のようなもの、つまり結界が張られていて、それが阻むんです。……まぁ、今はただ単純に、結界が張られているから向こう側へは行けない、とだけ覚えてください」
なるほど、とリアは頷いた。
「……戻れるの? この、狭間の世界? から……」
「戻る方法は四つです。一つ目は、この術を展開した者が解除する。二つ目は術を展開した者が死ぬ。三つ目は、術の起点を破壊して、結界を無効化する。四つ目は、展開した術者よりも、高位の力を持つ者が解除する、ということです。まぁ、四つ目は魔法に長けた種族でなければ、無理ですね」
「そんな……。じゃあ、三つ目は? 結界の起点を壊せば……」
「はい。僕もそれがいいと思います。でも簡単に壊されないように、巧妙にその場所を隠しているでしょう」
不安感が増し、どきどきと心臓が速くなった。だがそんなリアを落ち着かせるように、ノエは手を握ってくる。彼は車の外の景色を見ており、リアもそちらを覗き込んだ。
「……通常術者は、結界や狭間の世界に引き込む者を自由に選別できるんです。でも今回は、一般の人間が大勢います」
住民や店にいた者たちが外へ出てきて、何事かと橋が落ちた方角を見ていた。
「……これ、いけないんじゃないの?」
「はい。通常、僕ら魔の者がこういう術を使う際、人間は結界内に取り込んだりしません。僕らは人間に自分たちの存在を秘匿していますし、もしも存在が暴露されるようなことになれば、捕えられて実験にされるか、狩られるからです。なので、こんな風に多くの人間がいる目の前で、魔法の類はあまり使いません。もしも人間に僕たちの存在が知られた場合は、その対象に暗示や薬を用いて、記憶を消去しますしね」
リアは自らが記憶を消されかけたときのことを、思い出した。結果的には暗示が効かなかったので、記憶を消されることはなかったのだが。
「じゃあ、こんな風にたくさんの人間がいる前でこんなことをしたのは」
「相手が手段を択ばない無差別な連中か、それとも村ごとこうする必要があったのか……。いずれにせよ、シリルさんたちに報告をしないと」
大変な事態になった、というのは理解した。