第七話
朝になった。リアは目を覚ましてすぐに、窓の外を見た。見事なまでの青空であり、いつもと変わらぬ光景が広がっている。ノエの説明によれば、狭間の世界では天候や時間の流れというものが、ないらしい。だが術を用いた者が現実世界の天候や時間を同調させると、結界の中も同じように、天候や朝晩が変わるらしい。
(ノエ君は、何者かが人間にパニックを起こさせないように、そうしている、って言っていたけれど)
窓を開けてみれば、暑くも寒くもない、丁度いい気温だった。もうすぐ八月になろうとしている気候とは、とても思えない。
(いつもと変わらないように見えるのに……)
だが実際、電気やガスは使えないので、神狼家では自家発電に切り替えた。一応燃料に限りがあるので、必要最低限しか使えない。幸いだったのは、群狼村の殆どの家庭では、井戸水を使っていることだ。おかげで、飲み水などには今のところ困らない。
リアが食事部屋へ行くと、室内にはラウルだけだった。
「シリル先輩と、ノエ君は?」
「シリルは学院の寮生に、寮から出ないように通達を出した。ノエは、親戚がいる病院へ行ってる。昨晩、ちょっと厄介な出来事があって、その応対に追われてるよ」
「何か、あったの?」
「偵察に放っていた奴が、殺された。今朝、狼の生首が大通りのど真ん中に放置されているのが、見つかったらしい。俺たちが人狼だとばれるわけにはいかないから、首は回収できていないが……。随分な挑発だよな」
リアは足が竦んだ。聞かされた話が、あまりに猟奇的だったからだ。
「……ね、ねえ、確か人狼族って、特殊な武器でない限り、傷はすぐ治るって、言ってなかった?」
「あぁ。だから、持ってるんだろうな。俺たちを殺せる武器を」
そんな恐ろしい存在が群狼村にいる。リアは深刻な表情になる。
「今回の騒動を起こしているのは、人狼族が狙いなの?」
「そうだろうな。……シリルも言っていたが、今回の件はおそらく、敵対している人狼族や魔の者の仕業じゃない」
「……なぜ、わかるの?」
「俺たち魔の者は、人間に存在を知られないように、生きている。情報操作や隠蔽ができるよう、各所に仲間を潜り込ませているぐらいだしな。これは人狼に限らず、他の魔の者もやっていることだ。……だが、道端に狼の生首が置かれた。これは俺たちだけではなく、魔の者にとって生命や存在を脅かす行為だ」
「……言われてみれば、確かに……」
もしも人を食べる魔物がいるなどと知られれば、人ならざる者たちにとって由々しき事態になるだろう。
「橋を爆破して物理的に村から出られなくし、更に結界でも閉じ込めた。そんな用意周到な連中が、道端に首を放置するなんて手口が荒いマネ、どう考えても不自然だろ。だから、今回俺たちに喧嘩を売ってるのは魔の者じゃなく、人間だ」
「……え?」
「おそらく、教会のハンターどもだろう。どこから嗅ぎつけてきたのかは知らねえが」
リアはとても不安な顔をした。もしも人狼が狙われているのだとすれば、ラウルたちが危ないからだ。
「ど、どうするの?」
「暫くは様子見だ。連中が他の人間に混ざって、どこで監視してるかわからねえからな。あと」
「ん?」
「お前は念のために、自宅へ戻ってろ。ここにいたら、何があるかわからないし」
こんな状況で、一人で家に戻るのは怖かった。
「で、でも」
「万が一ここが襲撃されたら、どうするつもりだ」
そう言われてしまっては、何も言えなかった。
(……私、この屋敷にいるのが当たり前のようになってた……)
監禁されていたはずだというのに、彼らと一緒に暮らすのはとても楽しかったのだ。
「本当に、大丈夫?」
「あぁ。こういうトラブルはよくあるし、シリルたちも初めてってわけじゃない。お前は何も心配せず、家に戻って大人しくしてろ」
何か協力できればよかったが、屋敷に留まったところで足手まといになるだけだろう。リアは自宅へ戻ることに決めた。
群狼村は大混乱に陥っていた。橋が落ちた上に、電話なども使えないとあって、完全に陸の孤島になったからだ。だがそんな中、ひまわりマーケットの店主が機転を利かせ、村の住民たちへ食料を無料で配布することを決めた。店の前には長蛇の列ができ、住民たちは食料を受け取る。だが住民たちは皆一様に不安な面持ちをしており、助けはまだ来ないのかと怯えていた。
神狼家の屋敷を昼前に出てきたリアは、そんな住民たちの姿を見て無理もないと思う。
(状況を説明された私でさえ、どうしていいかわからないんだもの。皆はもっと怖いよね……)
リアはひまわりマーケットで食料を分けてもらうと、家へ帰ろうとした。だが、頭上から何かが降ってきた。液体だ。
「雨?」
直後、悲鳴が上がった。何が、と声が聞こえた方を見れば、蹲って顔を手で押さえている男性の姿がある。
「ぐあぁっ」
どうしたのだろう、と人々は動揺していた。リアも何が起きたのかわからず、混乱する。
「毒薬だ!」
誰かが叫んだ。毒薬という言葉に、その場の誰もがぎょっとする。
(え? 毒?)
数名の者が、その場から即座に逃げようとした。だがいつの間にか、周りに黒い服の男たちが立っていた。まるで修道士のような、黒いローブ姿。彼らは全員、柄に赤い十字が刻まれた、剣を手にしていた。そしてそれを手に、逃げようとした者たちの首を切り落とす。即死だというのは、誰の目にも明白だった。
「ひ……っ」
倒れた者たちの体から、夥しい量の血が道路に流れた。逃げ出したいが、全ての通路は男たちによって封鎖されている。そのため、誰も動けなくなる。
「安心してください。我々は、善良な人間には何もしません」
現れたのは、教会の神父などがよく着用するカソック姿の男性だった。首までしっかり隠れる襟に、足元まで隠れる長い裾。丸い眼鏡をかけており、リアは凝視する。
(あの人って、確か私に道を尋ねてきた……)
男性もリアに気づいたようだった。
「あぁ、お久しぶりです。お元気でしたか?」
平然と挨拶をしてきた彼は、この場にそぐわない笑顔を浮かべていた。
「げ、元気なわけ、ないです。たった今、人が殺されたのに……」
「あぁ……、彼らは我々人間を食らう、バケモノですよ。駆除しなくてはならないものです」
「何を言って……」
彼はローブを着た男性から水筒を受け取ると、掌に透明の液体を少し垂らした。その手で、リアの手を掴む。
「……君は、人間なんですね」
「え?」
「つい最近この村へ引っ越してきたあなたを、我々は疑っていたんですよ。群狼村に入り込んだ、魔物ではないかと。でもこの水に反応しないということは、あなたは人間なんですね」
リアは掌についた液体へ視線を落とした。透明であり、無臭。
「こ、これ、なんですか?」
「それは我々が、聖水、と呼んでいるものです。ただの水ではなく、本当に魔物に効果があるんですよ」
殺された者達を見れば、彼らは全員体のどこかに火傷のような傷があった。先ほど空から降ってきた水は、彼らが撒いた液体だったようだ。
「あなたは、何者なんですか?」
「私は、己岡治輝と言います。教会からこの群狼村へ、派遣されてきました。普段は怪事件を調査したり、人間に害をなす怪物たちを専門に退治する、ハンターをしています。我々の仕事は人間を守ることであり、その原因を取り除くこと。申し訳ありませんが、あなた方の身柄はこちらで預からせていただきます」
少し前ならば、あまりに胡散臭すぎて彼らの正気を疑っていたことだろう。けれども今は、彼らがどういった存在なのか、僅かながらも理解できている。
(この人、多分日本人だよね? 日本にも、魔物を狩るハンターが、いるんだ……)
ハンターというものは、ノエたち同様に、異国の者だと勝手に思い込んでいた。それゆえに、まさか日本人でそういう存在がいるとは思わなかったのだ。
(さっきの人を殺すことに、一切の躊躇がなかった)
それだけ、彼らが魔物という存在を殺し慣れているという証にならない。
こうして彼らにより、問答無用で拘束されることになった。
リアが連れてこられた場所は、群狼村の講堂だった。二階建てであり、村の会議やちょっとした催しの際に使用されている。リアも小さい頃に、子供会の催しで何度か来たことがある。
(三百人ぐらい、いるのかな?)
村人全員を収容することはできないが、かなりの人数が集められていた。食料は没収され、後程全員に均等に配給すると言っていた。冷房が使えないので窓が開いているが、風がないので室内は少し暑い。だが、見張りに立っている黒いローブ姿の男たちは、額に汗の一つもかいていなかった。
(悪夢だ……)
もしもリアの特殊な体質を知れば、彼らは魔の者だとして、リアを殺すだろう。
(ノエ君たちは、大丈夫かな……。ここがこんな状況だとすれば、学院もどうなっていることか……)
男たちは、人間と魔の者を選別する、特殊な薬を持っている。もしもそれを学院で使われれば、かなりの人数の人狼族が見つかるだろう。リアはふと、先ほど己岡という男性に聖水をかけられた手を見た。腫れたり、痒くなったりなどの異常はない。念のためにお手洗いへ行った際に手を念入りに洗ったが、痛みなどもなかった。
(どうして、私には効かなかったんだろう)
理由はわからないが、もしも聖水に反応をしていたら、首を真っ二つにされていただろう。リアは斬られた遺体を思い出し、気分が悪くなった。
「大丈夫ですか?」
声をかけられて見上げると、己岡がいた。
「何か、用ですか?」
「具合が悪そうに見えましたので、声をかけたんです。涼しい場所へ、移動しましょう」
手を引かれ、二階から一階の事務室へと案内をされた。事務室には黒いローブ姿の男性たちがたくさんおり、部屋へと入ったリアと己岡へ一瞬注視する。だがすぐに、食糧の数や、まだ保護できていない村人の話をしていた。リアは椅子へ座らされると、水が入った紙コップを手渡された。
「どうぞ」
「……、毒とかおかしなもの、混入していませんか?」
さすがに疑った。彼らのことは信用できないからだ。
「入っていませんよ。心配なら、新品の水のペットボトルをあげますよ」
リアは紙コップの水を飲んだ。とても冷えており、体温が下がる。
「これから、何をするんですか? 橋を爆破するなんて……。あそこは唯一の出入り口なのに……」
「それについては、こちらに非があります。ですが、この村に巣食う怪物を退治するためならば、神もお許しくださるでしょう」
目的のためならば、それがいかなることでも正当化される、と言われているようだった。リアは背筋が寒くなる。
「……いつ、私たちを解放してくれるんですか?」
「全ての脅威を取り除いてからです。あなたは信じられないでしょうが、この世界には怪物がたくさんいるんです。人間の血肉を好む、おぞましき怪物が」
村人たちの怯えた表情を思い出した。彼らは、目の前にいる男たちをカルト集団だと思っている。けれども、講堂へ集められてすぐに、大きな狼の生首を見せられた。否、狼というよりは歪で、奇怪な顔だ。彼らはその首を見せて、人を食べる人狼が紛れ込んでいる、と言ったのだ。
(ラウル君が変身した姿を見たことがあったけど、あんな恐ろしい怪物の姿じゃなかった)
どういうことだろう、とリアは水を飲みながら思う。
「さっき皆に見せた首が、怪物がいるっていう証拠なんですか?」
「えぇ。あの首の持ち主は、人狼の中でも一番力が弱い、劣等種です。完全体である狼の姿になれないので、人の体に毛が生え、顔も狼というより、醜く歪んだ獣の顔になるんです。力が強い上位の人狼ほど、美しい姿をした狼になるんですよ。まぁ、上位の人狼は希少なので、滅多に遭遇することはないんですが」
その情報は知らなかった。だが、以前にリアを襲ってきた女生徒たちは、狼というより、得体の知れない怪物の姿だった。ならば彼女たちは、劣等種と呼ばれる存在だったのかもしれない。
リアは水を飲み終えると、椅子から立ち上がった。
「二階へ戻ります」
窓を見れば、日が沈みかけていた。
「すぐに夕食と毛布の配給が始まると思います。私でよければいつでも話し相手になるので、気軽に声をかけてください」
彼らは、自分たちのことを正義だと信じて疑っていないのだろう。リアは答えず、そのまま部屋を出た。
夜になった。夕食にはオニギリが二つと椀物が配給されたが、食欲のない者が多いようだった。群狼村は過疎化が進んでおり、高齢の住民も多い。しかも電気が使えないので、室内の明かりは全て、蝋燭かランプだ。
(こんなこと、早く終わってほしい)
怪物を退治する彼らは、人間からすれば善良なのだろう。手段は強引であっても、彼らのおかげで守られる命があるのは事実だ。けれども、リアはもう、人間だけが大事だとは思えなくなっている。ノエやラウル、そしてシリルやお世話をしてくれた使用人たちは、リアを邪険にすることなく、色々と助けてくれたのだ。彼らは人ではない存在だが、決して悪い者達ではない。
リアは自らの膝を抱えて座ったまま、顔を伏せた。己岡たちは仲間を連れてどこかへ行ったらしく、講堂にいるローブの男たちは少ない。けれども、誰も逆らおうという者はいなかった。
(ここ以外の場所、どうなっているんだろう。屋敷や学院、ノエ君の親戚がやってる病院……)
リアはここで、心を決めた。
(……ノエ君たちのところに、戻ろう。何ができるかわからないけど、せめて逃げる手助けとか……)
講堂を出られないか、リアは窓の外を見た。外の見張りは、昼間よりも夜のほうが多
い。それに、どうやって外へ出ればいいかわからなかった。
(相手は凶器を持ってるし……)
彼らは人狼を殺せる特殊な武器を持っている。そんなものでもしも傷をつけられれば、さすがに自分の体も危険かもしれない。試しに切られるには、リスクが大きすぎる。
「夜は少し寒い……」
時計を見れば、もうすぐ二十三時になろうとしている。リアは二階から一階へ下りると、お手洗いへ行こうとした。だがふと、正面の入り口から大きな音が響く。
「こいつ、まだ生きているぞ!」
バンッ、と玄関の扉が内側へ倒れた。それとともに講堂の中へ入ってきたのは、爛々と目が血走った、獣。体は人間だが、全身が毛に覆われている。口からは泡のような血を吐いており、背中には剣が突き刺さっていた。
「ニンゲンどもめっ!」
ぞっとするほど、憎悪がこもった咆哮をあげた。すぐにローブ姿の男たちがやってきて、彼の首を切り落とした。リアは目の前が真っ暗になり、絶句する。
「まだいるぞ! 夜襲だ!」
黒いローブの男たちは、声がしたほうへ駆けていった。リアはその隙に講堂の外へ飛び出すと、路地裏から更に細い道へ入った。男性が通るには少し狭い通路だ。子供の頃に鬼ごっこなどでよく通った道であり、そこから学院近くの丘の下へ出ることもわかっている。そのことを、リアは知っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ」
リアは学院へ通じる道へ出る前に、茂みから気配をうかがった。
(誰かがいるような気配は感じないけれど……)
己岡たちに見つかれば、なぜ講堂を逃げ出したのかと追及されるだろう。
(シリル先輩の敷地までは、あまり隠れられる場所がない)
走っている最中に見つかるのは、避けたかった。もしも見つかれば、追求は免れないだろう。ノエたちにさんざん言われたが、リアは嘘をついたり誤魔化すのが下手なのだ。もしも彼らから質問をされた場合、隠す自信がない。
(ノエ君、ラウル君、シリル先輩、皆、大丈夫かな?)
いつまでも同じ場所にはいられない。リアはどうするべきか悩む。ローブ姿の男たちに会わないことを祈ってこのまま移動するか、それともどこかに隠れるか。
「名前を呼んだら、誰か気づいてくれないかな? おーい、ノエくーん。ラウルくーん。シリルせんぱーい」
小声で呼んだ。
「なぁーんて……、ふふ。こんな小さな声、聞こえるわけないか」
そう呟いた瞬間、背後から砂利音がした。とても小さな音だ。
「リア先輩、ちゃんと聞こえてますよ」
その声に、リアは振り返った。まさかの出来事に、一瞬呆ける。
「ノエく……、なんでここに……」
「リア先輩の様子を確認しに行こうと、屋敷から出てきたところなんです」
リアは彼を見るなり、ボロボロと涙をこぼした。
「ノエくん、よかった……、無事で」
「ほっとしたのは、僕のほうですよ。先輩が教会のハンターたちと一緒にいる、って知って、心配していたんですから」
リアはノエにしがみつくように、抱きついた。彼はしっかりと、リアの体を抱き返す。
「すみません。連中がまさかあんなバカなマネをするとは、思わなくて」
「……バカな? え?」
「だって、あんな風に密集したら、襲ってください、って言ってるようなものでしょ? あぁ……、違うか。連中は、わざとあぁしてるんでしょうね」
ノエはくすくすと、おかしそうにしていた。
「わざと?」
「えぇ。彼ら、僕たち人狼族をおびき寄せるために、人間たちで罠を作ったんですよ」
それがどれだけ残酷なのか、リアはぞっとした。
「なんで、そう思うの? 純粋に、人間を保護してるだけかもしれないよ?」
「本気で保護するつもりがあるなら、ちゃんと結界を作って、そこに入れますよ。そうしないのは、彼らがわざとそうしている、ということです。現に、先走った人狼族の若者が何人か乗り込んでいって、返り討ちにされましたからね」
ノエはリアを両腕に抱き上げた。まるでぬいぐるみでも抱き上げるかのように、軽々とした動作だ。
「っ! ノエく……」
「リア先輩。いい子ですから、しばらく喋らないでくださいね。でないと、舌を噛んじゃうので」
そう言うなり、ノエが走り出した。人間では決して不可能な速さで、風を切るように駆けていく。
(速い……っ。景色がどんどん後ろへ流れていく)
そうして、あっという間に神狼家に到着した。屋敷は暗く、しんとしている。
「ここ、大丈夫なの?」
「はい。……さぁ、行きましょう」
ノエが歩き出した。リアは下してもらうように、頼もうとした。だが、少しとどまる。
(普通にお願いをしても、断られそう……)
悩んだ末に、精一杯可愛らしい声でお願いをしてみることにした。
「ねえねえ、ノエ君」
「どうしたんですか? リア先輩」
「屋敷に到着したから、自分で歩くよ。だから、おろして?」
「え? 嫌です」
最上級の笑顔とともに言われた。リアは撃沈する。
(す、凄く頑張ってお願いしたのに、恥ずかしいだけだった……)
リアが暮らしていた南館へ到着すると、守衛が入口の扉を開けてくれた。するとリアはぎょっとする。というのも、黒いローブ姿の男たちがいたからだ。
「ノエく……っ」
「大丈夫ですよ。彼らは、この屋敷を人狼族から守るために、護衛で来た方々です。今はシリルさんに洗脳されているので、危険性はないですよ」
「そ、そうなんだ……」
漸く、床に立たせてもらえた。そこで、階段を下りてくるラウルの姿が見える。
「無事だったか、リア」
リアはラウルに向かって軽く手を振った。彼はほっとした様相で目の前までやってくると、リアの頭にぽんぽんと手を置く。
「ラウル君……?」
「講堂から、逃げ出してきたのか? よくできたな?」
「う、うん。ちょっと、隙をついて……」
ラウルはノエを見た。
「リア先輩が後をつけられていないか、ちゃんと確認してから連れてきましたよ」
ラウルはリアの手を引いた。
「疲れているだろうが、話を聞かせてほしい」
「う、うん。わかった。でも私、ずっと講堂にいただけだから、大した話はできないと思うよ?」
「それでもいい」
連れて行かれたのは、シリルの部屋だった。シリルは前と同じようにソファーへ座っており、入室したリアを見ると笑みを浮かべる。
「葉上リア。こんな深夜に悪いね。お前に聞きたいことがあるんだ」
「な、なんでしょうか」
リアは三つ並べられた椅子の内、真ん中へ座った。ノエとラウルも、その横へそれぞれ座る。だがシリルは二人に構うことなく、話す。
「リア。囚われていたときの話をしてほしい」
「わかりました」
リアは何があったのか、話をした。自分が人狼族ではないかと疑われていたことや、己岡という男性に以前から接触があったことなども。
「私が知っている情報は、これぐらいです……」
「なるほど……。うーん、弱ったな。お前に話をきけば、連中の本拠地のヒントが得られるかと思ったのだけれど……」
ラウルも後ろ頭を掻いていた。
「群狼村で隠れられる場所なんて、限られてくるぞ。……くそっ、あいつら一体どこを根城にしてやがるんだ」
リアはずっと、群狼村から離れていた。今の群狼村のことならば、彼らのほうが詳しいだろう。
「私、難しいことはよくわかっていないんだけれど、今ここって、狭間の世界、という場所にあるんだよね?」
ノエが頷いた。
「えぇ。そうです」
「群狼村だけなの?」
「どういうことです?」
「見えている山とかは、行けないのかな、って……」
ラウルは気だるげに肘掛けに右肘を置くと、頬杖をついた。
「いや、群狼村に接している周囲の山まで、結界が張られているようだ。橋がないから、山へは行けないが……」
リアは首を傾げた。シリルはその様子を見逃さない。
「何か、気になることでも?」
「風目橋を壊されたので、群狼村からは出られない、って思いこんでいるんですけど、もしも出られるとしたらどうかな、って……」
「風目橋はかなり大きな橋だ。そこに細工があれば、気づくだろう」
「はい。私が言っているのは、風目橋とは反対側にある、黒平峡谷のことです。今は壊れているんですけど、あそこは昔、小さな吊り橋があったんですよ」
「そんな橋があった、という話は聞いたことがある。確か、橋を渡った先の荒骨山は、何十年も人の出入りがないそうだね。もしも本当に連中が荒骨山に潜んでいるのだとすれば、事前に僕らに気配を悟られることなく、ここまで大がかりな魔術が行使できたことに説明がつく。わざわざこの村に入らなくても、周りの山を迂回すれば入れるからね」
ラウルもリアの話を考えているようだった。
「……荒骨山と群狼村を繋ぐ橋は、簡単なものならばすぐに作れるだろうな。だが、数十人単位の人間が山で生活をするとなった場合、どこに潜む。テントなんて張れば、ここからじゃ丸見えだぞ」
どういうわけか、荒骨山は高木があまり育たない。苔や芝生、そして低木ばかりが生えているのだ。中腹より下は森のようになっているが、かなりの急斜面になっている。
「群狼村からは全く見えないけれど、荒骨山には大きな窪地があってね。そこに、廃村があるの」
シリル、ラウル、ノエの三人は大きく目を見開いた。リアの話が、余程意外だったらしい。シリルは足を組むと、両手を膝に置く。
「廃村? どうして君はそんなことを知っているのかな? そんな話、僕らは聞いたことがない」
興味深げにシリルが呟く。
「小さい頃に、親からきいたの。私の祖父たちは、その廃村で暮らしていた、って」
「その廃村の名前は?」
「群狼村」
そう答えると、気だるげにしていたラウルがぽかん、とした。ノエも首を傾げる。
「リア先輩。群狼村って、ここのことですよね?」
「群狼村は元々、荒骨山にあったらしいの。だから、荒骨山にある廃村は、旧群狼村。……過疎のせいでここにあった村と合併し、今の群狼村になったんだって」
シリルは顎に手を当てて、目を伏せた。
「ここから死角になっている場所に、廃村がある……。だが、あの山は何十年も放置されていて、誰も入らなかった場所だろう。廃村がある、という話を聞いただけで、実際に確認をしたわけじゃない」
「いえ、私、実際に見に行ったことがあります。といっても、子供の頃ですけど……」
そこで、ラウルがすぐに反応をした。
「は? 何十年も吊り橋が壊れていたのに、お前はどうやってそこへ行ったんだ」
リアは言うのを少し躊躇った。その不自然な態度に、他の面々は注目をする。
「……このことは、親からずっと誰にも言ってはいけない、と口止めをされていたことなんですけど……。私の家の土地って、結構広いんです。その敷地内には森も含まれているんですけど、そこに天然の地下洞窟と繋がっている納屋があるんです」
シリルは眉を顰めた。
「地下洞窟?」
「はい。……両親がいつも、私に言っていたんです。もしも何かあった際は、その地下洞窟を通って、黒平峡谷の真下へ出なさい、って」
ノエはすぐに意味を察した。
「おそらく、リア先輩のご両親は、自分たちが人間ではないことを、知っていたんでしょうね。だから有事の際のために、逃げ道を教えておいたんでしょう」
リアは頷いた。ずっと子供心に、奇妙だと思っていたのだ。
「まぁ、私もその逃げ道を、今の今まで忘れていたんですけど……」
シリルは苦笑した。リアは自分が情けなくなる。
「その道が使われた可能性は?」
「多分、ないと思います。もしも誰かが無断で家や納屋に入ったら、すぐに通報が入るように、セキュリティ会社にお願いしていたので……」
「セキュリティ会社?」
「はい。ずっと無人だったとはいえ、家に誰かが侵入するのは困るので……。それに、こっちへ引っ越しをしてくる前、異常がないか保護者のカイお兄ちゃんと一緒にチェックしました。そのときに納屋も確認しましたが、誰かが使用した痕跡はありませんでした」
シリルは頷いた。
「わかった。では、僕の部下たちに、荒骨山へ通じる橋がないか、または橋が架けられた痕跡がないか、調べさせよう。もしも連中が荒骨山へ行っているのだとすれば、何かあるはずだから」
ここで一旦、話は終了した。