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悪魔公爵

 フィルラング領は農業や牧畜を中心に成り立つ、長閑な場所だ。フレリンド国では森や山が多いが、フィルラング領だけは広大な平原を持っている。この環境を生かし、フィルラング領では農業や牧畜が栄えてきた。しかしながら、いい面だけではない。農業や牧畜は古来より発展を遂げた一方で、商業などにはあまり力を入れていなかった。そのため、香料や高価な織物などの奢侈品(しゃしひん)は街であまり見かけない。これは取引そのものが領内で行われていないからだ。
 今でこそフィルラング領は平和でどこにでもあるような田舎だが、四年前の戦争時にはとても困窮していた。まず男たちは戦争に駆り出され、人手が足りなかった。人手が足りないために農作物などの収穫が足りず、冬はどこの家庭も貧しい思いをしたのだ。それは、フィルラング領を統治するエルーテの家も例外はない。四年前の戦争時には領主の父と兄が戦地に行って不在だったのだが、エルーテは姉のニーナと二人で領地の管理をしなければならなかった。しかしながらニーナは体が弱く、昔からよく寝込むことがあったのだ。それゆえに、当時十三歳だったエルーテがたった一人で全てを担わなければならなかった。
 約一年の戦争が終わった後、父と兄が戻ってきてくれた。だが父は戦争で負傷した怪我が原因で、片足が不自由な身となっていた。兄は王都にて政務に携わる仕事をしているため、屋敷を行き来してとても大変そうだ。結局エルーテが領地の見回りや領民の話を聞く役となり、戦争時と変わらず現在も奔走している。
 忙しいながらも平穏な日々を送っていたのが、ある日。姉のニーナに好きな相手ができた。王都で開かれた晩餐会で出会った貴族の男性であり、手紙のやり取りをする内に親しくなったらしい。お互い結婚の約束までしたらしく、関係はとても良好とのこと。ところが、ここで大きな問題が一つ浮上した。それは、ニーナが嫁ぐために必要な持参金が、家にない、ということ。どういう事情かというと、エルーテには兄と姉のニーナ以外に、姉が三人いた。その姉たち三人は既に結婚をしており、家から離れて暮らしている。女性が嫁ぐ際には持参金というものが必要なのだが、これには莫大なお金が必要なのだ。簡単に言うと、多くの娘たちを嫁がせたがために、家を失った貴族がいるほど。つまり、ただでさえ姉たち三人を嫁がせて困窮している状態だったというのに、戦争があったせいで更に財政が逼迫している、ということだ。そのことをニーナも知っているため、結婚したい相手がいるというのに、一年半も父に話を切り出せないでいる。姉のニーナは結婚適齢期ぎりぎりの、もう二十歳だというのに。エルーテとしてもなんとかしてやりたいが、どうにもできないのが現状だ。


 エルーテ・フィルラングは、フィルラング領を統治するバーク・フィルラング伯爵家の五女として生まれた。うっすら紫がかった銀の髪に、瞳は朝焼け色。光の加減で薄紫やピンク、青色に見える美しい大きな瞳を持っている。肌は白く、唇は果実のように瑞々しい。とても綺麗な顔立ちをしているのだが、華やかさはなく、むしろ地味なほうだ。つい先日十七歳になったばかりであり、彼女と同じ年頃の娘は通常花嫁修業やお見合いで多忙な日々を送っている。しかしながらエルーテには、花嫁修業などをしている暇はなかった。農作業用の上下が繋がった男性の衣服を着用し、腰から下はずぶ濡れの状態。髪は結い上げて一つにまとめているが、ボサボサだ。顔にも泥が付着しており、とても伯爵令嬢には見えない姿をしている。
「エルーテ様、手伝ってくださり、ありがとうございます。おかげさまで水車が直りました」
 そう言ったのは、エルーテ同様に泥だらけになった、領民の男性だった。製粉用水車に不具合が生じたので数人がかりで修理をすることになったのだが、エルーテも手伝ったのだ。
「これぐらい、大したことじゃないから。私はからみついていた水草と泥を、掃除しただけだし」
「いえいえ、十分です! これでまた、製粉所でパンの粉を挽けます。やっぱり、エルーテ様が一番頼りになりますね。皆、言っていますよ」
 周りにいた領民たちも、うんうんと頷いていた。エルーテは思わず照れる。
「もー。煽てるの、上手だなぁ」
「事実ですからね。そういえば、まだこちらにいても宜しいんですか? 確か今日は、お兄様が王都より戻ってこられる日なのでは?」
 それを聞いたエルーテは、ハッとした。今日は数ヶ月ぶりに兄が戻ってくる日だ、と。
「ごめんなさい! 後のことはお願いするね」
 久方ぶりに会う兄を、泥だらけの姿で出迎えるわけにはいかない。エルーテは大急ぎで屋敷へと走った。田園風景を横手に進み、近道をしようと小さな林道を一気に通り抜ける。すると、眼前に大きな屋敷が見えた。建築されてから凡そ百年は経つであろう、石造りの古い建物だ。外側はゴツゴツとした石の壁が剥き出しになっており、見た目はまるで砦のよう。しかも屋根はなく、屋上は全て見張り台となっている。どうしてこんな造りになっているのかというと、今から百年前、当時この辺り一帯は盗賊の根城となっていて、とても物騒だったそうだ。そのため昼夜問わず兵士が見張りをし、領民たちを守っていたらしい。盗賊たちは先祖の奮闘によってなんとか追放したが、屋敷の屋上は当時の名残でそのままとなっている。
(百年も経っていれば、ボロボロだなぁ……)
 あちこち老朽化しているので補修をしなければならないが、残念なことに修理費用を捻出できない状態だ。エルーテは老朽化が激しい木製の正門を通り抜け、屋敷へと歩いていく。そこで、屋敷の前に立派な赤黒い馬車が停止しているのが見えた。黒と金の蔓草の浮彫(レリーフ)がされており、四隅には蘭(オーキッド)の形をした金のランプがぶら下がっている。更に馬車を守るように甲冑を付けた騎士たちが二十名ほど控えているのだが、彼らの連れている馬は通常の馬と比べて、体格が筋肉質で大きい。そのことから、兄の愛馬と同じ軍馬だと推測した。しかも馬の体に掛けられている馬衣には紋章が描かれているのだが、そこには一つの体に三つの頭を持つ、翼の生えた蛇が描かれていた。しかも右上にはフレリンド国の国花である、ダンデライオンの花も刺繍されている。
(三頭の蛇? しかもダンデライオンの花が刺繍されてるってことは、王家に縁のある人が来ているということ?)
 エルーテが騎士たちの威圧感に負けて屋敷へ入り損ねていると、中から誰かが出てきた。見知らぬ男性と、見送りに出てきたと思われる家令(スチュワード)と使用人たちだ。男性は恐らく客人だと推測したのだが、その人物を見た瞬間、エルーテは思わず魅入る。というのも、この国ではとても珍しい赤褐色(ラセット)の肌を持っていたからだ。その肌の色だけで、彼が異国の血を引いていることが窺えた。だがエルーテが魅入った点は、そこだけではない。年齢は恐らく二十代だと思われるのだが、彼が類稀なる絶世の美青年だったのだ。薄いベージュの髪は少し短く、前髪は横に流していた。瞳の色はまるで宝石のようなほの暗い赤であり、鼻筋はすっと通っている。唇はやや薄く、全体的に怜悧な顔立ち。背は高く、すらりとした体躯をしていた。ウエストコートは銀糸で刺繍が施された絹でできており、その上に纏っている上着と脚衣は揃いの赤銅色。金糸でできた花模様と硝子の模造宝石が縫い付けられており、その身なりからかなり地位が高い人物だとわかる。エルーテが彼にぼうっと見惚れていると、男性と目が合った。
「おや。この家では、使用人も主人と同じ扉を使うんですね」
 通常、使用人は屋敷の裏口を利用する。主人やその家族と同じ正面扉を使うことはなく、それはエルーテの家に勤めている使用人たちも同様だ。エルーテは、使用人たちがルールも弁えない礼儀知らずだと誤解をされたままではいけないと、すぐに言葉を返す。
「このような身なりで申し訳ありません。私はエルーテ・フィルラング。フィルラング家の五女です」
 そう告げれば、男性はじっとエルーテを観察した。
「これは失礼。あなたは女性だったのですね。小姓かと思いました」
 とても女性には見えなかった、という男性の軽い嫌味。通常の貴族の女性は男装をすることもなければ、泥だらけになることもないので、奇人扱いをされても仕方がなかった。エルーテは気にも留めなかったが、見送りに出てきていた家令と使用人たちは違ったようだ。皆一様に、むっとしている。だが彼らも優秀な使用人なので、客人に気取られないよう、すぐにすました表情へ戻した。
「それだけ溌剌として元気そうに見えた、という意味に受け取っておきます」
「好意的に受け取ってもらえて恐縮です。……あぁ、そうそう。頭に水草がついていますよ。とても斬新な髪飾りですね」
「え!」
 男性は口元に軽い笑みを浮かべると、馬車の中へ乗り込んだ。すぐに馬車は出立し、護衛の騎士たちも同様に去っていく。エルーテは手を上へ伸ばし、頭へ触れた。すると、男性が言ったとおり、大きな水草がぺったりと張りついていた。
(頭に水草をぶら下げたまま、ここまで歩いていたなんて、さすがに恥ずかしい!)
 早く湯浴みをして服を着替えなければ、と正面扉から屋敷内へ入ろうとする。だが濡れたままの姿で入るわけにはいかないので、使用人へお願いをする。
「申し訳ないんだけれど、体を拭く布を取ってきてもらえる? あと、今の方はお父様のお客様?」
 答えたのは家令である、老齢の男性だった。別の使用人の女性が布を取りに行く間、エルーテは入口のところで話す。
「おそらく……。旦那様は足の不調で、見送りには出て来られなかったのですが。なんでも、ウィストリアム領の領主様だとか」
 ウィストリアムといえば、フレリンド王国の西にある、海側に面した領地だ。陸地にあるフィルラング領とは、かなり離れている。しかもウィストリアムの領主といえば、四年前に起きた戦争の英雄であり、かなりの有名人だ。
「ウィストリアムの領主? それって確か、ラルケス・ウィストリアムのこと?」
「はい。午後にお客様がお見えになる、というのは聞いていたのですが、予定より早く午前中に来られたので、驚きました」
 使用人の女性が体を拭く布を持って、戻ってきた。エルーテはお礼を言って受け取ると、服や足などを拭きはじめる。
「一体何の用で来たんだろう……。でも、とっても綺麗な人だったね。ウィストリアムの領主には異国の血が流れている、とは噂で聞いていたけれど、本当だったんだ」
 これに、布を持ってきてくれた女性が憤慨した。
「私たちは大嫌いです! エルーテお嬢様に失礼な態度でしたし、エルーテお嬢様に名前を名乗らなかったんですもの。いくら国の英雄とはいえ、さすが悪魔の異名を持つだけのことはあるって思いましたわ。性格が悪すぎです」
「悪魔、ねぇ……」
 見る者を魅了せずにはいられない赤褐色(ラセット)の肌を持つ人間離れした外見も、悪魔と言われる要因の一つになっているのだろうか、とぼんやりと考えた。そうして屋敷の中へ入ると、湯浴みの支度をしてくれている浴室へ向かおうとする。ところが、二階から悲壮な怒鳴り声が聞こえてきた。
「嫌です! 私は絶対に、結婚をしません!」
 声から察するに、四女である姉のニーナらしかった。扉を叩きつけるような音が響き渡り、二階から階段を下りてくる。どうやら泣いているらしく、手で涙を拭っていた。
「どうしたの、ニーナ姉様」
 ニーナはエルーテに気づくと、すぐに駆け寄ってきた。そしてエルーテへ抱き着こうとするのだが、手で制して止める。なぜなら、エルーテの服は泥だらけだからだ。
「エルーテ、お父様が……っ」
「落ち着いて。何があったのか、ゆっくり聞かせて?」
 ニーナは頷いた。大きなアイスブルーの瞳は涙で濡れており、濃い灰色の長い髪はまるで絹のように光沢がある。エルーテ以外の兄と姉たちは、全員華やかな美貌を持っている。しかもニーナは線が細くて華奢なので、どんな服装でも着こなす。今日はピンクベージュ色の服を着ているのだが、裾につけられた赤色の縁飾り(ブレード)と小花の刺繍が可憐さに磨きをかけている。
「お、お父様が、さっき来た貴族の男性と、結婚をしろって……」
「け……、は?」
「私を妻に欲しいって、言ってきたって。私にはもう、心に決めた方がいるのに」
 一体何がどうなっているのか、エルーテは混乱した。
「結婚って……、どうしてウィストリアムの領主様が、ニーナ姉様を? そもそも持参金はどうするの。それがないから、ニーナ姉様は結婚ができなかったのに」
「それが、持参金はウィストリアムの領主様が用意してくださるって。結婚後は、うちに支援もするって、仰ったらしくて……」
 エルーテは眩暈を覚えた。だが一番辛くて悲しいのは、ニーナだろう。普通ならば破格の条件だが、ニーナには愛する男性がいる。父の命令とはいえ、簡単に頷けるわけがない。しかもニーナの想い人も両親が薦める縁談を全て断っているらしく、フィルラング家に持参金ができるまで待ってくれているらしい。これは、とても凄いことなのだ。貴族として生まれたからには、政略結婚を覚悟しなければならない。だがニーナと相手の男性は、絶対に夫婦になろうと誓いを立てているのだ。それを知っているエルーテは、心から二人を添い遂げさせたいと思っている。
(私が守らないと……)
 エルーテは泣きじゃくっているニーナの両手を、強く握った。
「ニーナ姉様。私がなんとかしてみる。だから、元気を出して」
「エルーテ……」
「大丈夫」
 エルーテがそう告げると、ニーナは少しだけ微笑んだ。
「不思議ね。エルーテが大丈夫って言うと、本当に大丈夫な気がしてくる」
「うん、うん。私に任せて。今日は久しぶりにイザール兄様が戻ってくるし、笑顔で迎えないと」
 ひとまずニーナに自室で休むように言い、使用人の女性へ付き添いを任せた。エルーテは浴室へ向かって歩きながら、考える。
(なんとかするとは言ったものの、どうすればいいのやら。……そうだ。イザール兄様に相談をしてみよう。イザール兄様なら、ウィストリアムの領主様を、知っているかもしれないし)
 まずは、兄が戻ってくるのを待つことにした。


 兄のイザールが戻ってきたのは、夕方だった。兄は父へ挨拶を済ませた後、自室にいるエルーテへ会いに来てくれたのだ。帳簿をつけていたエルーテは手を止めると、兄に室内にある緑色のソファーへ勧めた。元々派手な家具は好まないというのもあるが、エルーテの部屋は必要最低限のものしかないので殺風景だ。箪笥(ドロワーチェスト)と幼い頃から勉強用に使っている書き物机(ビューロー)、そしてソファーと小さなテーブルがあるだけ。寝室とは間続きになっているのだが、寝台以外の家具は、全て兄や姉たちのお下がりだ。
「やぁ、偉いね。領主の仕事を代理で行っていて。お前はお兄ちゃんの自慢の妹だよ」
 二十六歳のイザールは、フィルラング家の長男であり、長女の次に生まれた。父譲りの濃い灰色の髪を持ち、大きなアイスブルーの瞳を持つ。自他ともに認める美形であり、女性からの恋文が絶えない。兄自身は甘い顔立ちなのだが、それに似合わず割とストイックな性格をしている。その証拠に、剣や弓の練習など日々欠かさない。剣の腕前は特に優れており、毎年開かれる王家主催の剣術大会では、十六歳のときから九回連続で優勝をしている。戦争があった年は開催されなかったのだが、それ以外はずっと勝ち続けているのだ。衣服はダークブルーの生地に銀糸で蔓草が刺繍されたものであり、袖口(カフ)には銀糸を巻いた釦(ボタン)がついていた。実に兄好みな、動きやすくてシンプルな服装だ。
「ニーナに挨拶をしに部屋へ行ったんだけれど、具合が悪いと言って、会ってくれなかったんだ。大丈夫?」
「実は……」
 エルーテはイザールへ何があったのか、事情を説明した。イザールは最後まで黙って聞いていたのだが、次第に渋面となる。無理もない。エルーテとて、同じような気持ちだ。
「……ウィストリアム領のラルケスが、ニーナを? それは何ともおかしな話だね」
「そうなの。ニーナ姉様、すっかり落ち込んでしまって。イザール兄様は、ラルケス・ウィストリアムっていう領主様がどういう人なのか、知ってる? このままじゃ、ニーナ姉様が好きでもない相手と結婚をさせられることになるから、どうにか助けたいの」
 兄はニーナに意中の相手がいると知っているので、エルーテも相談がしやすかった。
「ラルケス・ウィストリアムについて俺が知っていることは、王族で公爵の位を持ち、四年前の戦争の立役者ってことだよ。性格は冷徹で容赦のない性格をしているらしく、氷の血が流れている、って囁かれている。悪魔、とも言われているね」
「ニーナ姉様は繊細だから、相性が悪そう……。そもそもなぜ、ウィストリアム公爵はニーナ姉様を、妻に欲しいって思ったんだろう。もしや、晩餐会などのパーティーで見かけて、一目惚れしたとか?」
「疑問があるなら、直接ウィストリアム領へ行って、本人に聞いてみれば? 話をすれば、相手も事情をわかってくれるかもしれないし」
「そ、そう? 冷徹で容赦のない性格をしてるって、今説明をしてもらったばかりだけど……」
 イザールはにっこりと微笑んだ。
「じゃあさ、ニーナの代わりにエルーテがウィストリアム公爵と結婚をすれば? 相手は持参金もいらないって言ってるし、結婚後はうちの援助をする、とまで言ってるんだろう? 援助をしてもらうことができれば、ニーナも結婚ができる」
 エルーテは、ラルケスと初めて会ったときのことを思い出した。頭に水草をつけて泥だらけの姿で、会話をしたのだ。しかも使用人と間違えられただけではなく、男とも勘違いをされた。初対面のときの印象が、あまりにも悪すぎる。
「え、あぁ……、いやいや、無理無理無理……。そもそ私、姉様たちのような美人じゃないし」
「何を言ってるの。お前は姉妹の中で一番努力家で、愉快……、いや、面白……、ユニークだよ」
「それ、女性に対しての褒め言葉じゃないよね?」
 イザールはスッと視線を逸らした。わりと地味に傷つく反応だ。
「……、まぁ、でも、お父様は結婚に乗り気だから、このままだとニーナはウィストリアム公爵と結婚をしなければならない。俺が間に入れたらいいけれど、三日後にはまた王都へ戻って仕事をしなければならなくてね。止められるのは、エルーテ、お前だけだ」
「私には、お父様の代わりに領主の仕事が……」
「それは、ニーナと俺がなんとかするよ。だから、公爵様の件はお前が何とかしてほしい」
 エルーテは眉根を寄せて、どんよりとした。
「イザール兄様。面倒事を、私に押し付けようとしてない?」
「流石は俺の聡明な妹だ。よくわかっているじゃないか」
「こういうのは普通、継嗣(けいし)のお仕事でしょ!」
「だって怖いじゃないか。冷徹とか、氷の血とか、悪魔って呼ばれている人物だよ? 俺に何かあったら、この家は潰れちゃう。その点、お前は大丈夫だ。何かあっても、昔から変わり者で、で済む」
 いや、済まないだろう。エルーテは本気で頭を抱えた。イザールは戦う能力が格段に優れている代わりに、昔からどこかおかしい。今の発言も、おそらく本気だ。
(私も大概変だから、人のことは言えないけれど……)
 エルーテは大きな溜息をついた。
「わかった。私がウィストリアム公爵様のところへ行って、話をしてくる」
「うんうん。話の分かる妹で、助かるよ。じゃあ、紹介状を書いてあげるよ。あと、道中は危険だから護衛もつけてあげるね。旅をするのに大きな鞄も必要だろうから、俺のを貸してあげるよ」
 イザールは満面の笑顔で、ノリノリで支度を始めた。厄介ごとを押しつける気満々だ。だが長兄には昔からこういうところがあるので、今更驚きはしない。エルーテが覚えている一番古い記憶では、兄が領民の牧場の柵を壊したり、馬の飼料である燕麦が入った袋をうっかりぶちまけてしまったことがあった。そのときに謝罪の付き添いを頼まれたのだが、当時エルーテはまだ十歳だった。九歳年上の兄の付き添いで謝罪をしたことを、かなり悲しく思ったものだ。
「お父様は……」
「当分は、俺とニーナでなんとか誤魔化すよ。まぁ、心配しなくても、大丈夫だよ。あの人は。お前のことは、暫く王都で観光してる、とでも伝えておく」
 エルーテは表情を曇らせたが、小さく頷いた。


 ウィストリアム領へ出立する日になったのは、二日後の夜明け前だった。領民やニーナに黙って行くのは気が引けたが、もしも知られれば止められるのは確実だ。そのため、一部の使用人と兄にしか伝えていない。見送りも家令と兄の二人だけであり、ひっそりとした旅立ちになったのだ。兄が用意してくれた護衛は五人であり、いずれも兄と共に戦場を駆け抜けた屈強な騎士たちだった。彼らはフィルラング家に忠誠を誓っているというよりは、兄個人の強さに魅入られて仕えている。
 選りすぐりの精鋭に護衛されているとはいえ、やはり女性が旅をするのは危険が伴う。そのため、エルーテは男装をしていた。敢えて顔を泥でうっすら汚し、髪もボサボサにして少年だと偽ったのだ。当然騎士たちも民間人に変装をしており、傍目には貴族の護衛だとはわからないようしている。
 騎士たちは予めエルーテがどのような性格をしているのか聞いていたらしく、堅苦しい接し方はしなかった。まるで親しい友人のように気を遣ってくれるので、緊張せずに済んだのだ。
「まさか貴族のお嬢様が馬に乗れるとは、思いませんでした。イザール様がじゃじゃ馬娘、と言っていただけのことはありますね」
 騎士たちからそんな冗談を言われれば、エルーテも笑顔で応じた。
「ロバも上手に乗りこなせるよ。その内イザール兄様をも、上手に乗りこなせるようになるかも」
 茶目っ気たっぷりに返せば、騎士たちは「違いない」と楽しそうに笑ってくれた。兄の人選は正しく、気のいい人物たちだ。
 陸路は多少遠回りでも、できるだけ安全な街道を選んで進んだ。近道を選べば比較的短い日数で到着できるのだが、がけ崩れの恐れがある山道や、山賊がよく出る街道を通るわけにはいかない。そのため、ある程度の日数がかかるのは仕方がなかった。
 ウィストリアム領に入ったのは十日目の早朝であり、公爵が暮らす街までは半日もかかった。
「エルーテ様。ウィストリアム公爵様の城が見えてきましたよ」
 そう言われて騎士が指差した方向を見れば、小高い尾根の頂に、大きな城が建っていた。幾つもの石造城塔が見え、屋根は青色をしている。断崖の麓には青々とした海と煉瓦造りの街が広がっているのだが、かなりの人口が暮らしている大都市だとわかった。
(あれがウィストリアム領の最大都市アリシャスタ。……わぁ、まるで王都みたい)
 港もあり、大きな帆船が幾つも停泊していた。正直、フィルラング領とは比較にならないほど、発展している。騎士たちを見れば早く街に行って遊びたいと嘆いており、エルーテは羨ましくなった。これからウィストリアムの領主に会って話をしなければならないと思うと、とても憂鬱だからだ。しかしここまで来て、引き返すわけにはいかない。
(まずは城へ行って、兄様が用意してくれた書簡を渡さないと)
 男装をした汚い姿のまま、城へ行くわけにはいかない。ひとまず街で宿をとり、身支度をしてからだ。
「おや。あなたはフィルラング家の小姓……、いえ、五女でしたか」
 ふと聞き覚えのある声を耳にして、エルーテは右手側を見た。そこには黒い馬に跨り、配下の者たちを引き連れたラルケス・ウィストリアムの姿があった。初めて見たときと同様、その容姿は悪魔めいた美しさだ。エルーテはなんと間の悪いことか、と頭の中が真っ白になる。つい反射的に顔を逸らし、人違いを装うか悩む。だが嘘はよくないと、正直に言ってしまう。
「……このような身なりで申し訳ありません」
「いいんですよ。人の趣味はそれぞれですし。大変よくお似合いですよ。それはそうと、我がウィストリアム領へは観光ですか? こちらへ参られると事前に連絡をくだされば、丁重にお迎えをしましたのに」
 この言葉の意味を素直に受け取るのは、間違いだ。つまり彼は、事前に連絡もなく領地に入るとは、礼儀知らずですね、と言っている。正しくその通りなので、エルーテは項垂れた。
「非礼はお詫び致します。実は私、公爵様に大事なお話が――」
 ラルケスはにこりと微笑むと、わざとらしく声を発した。
「あぁ、申し訳ありません。城へ戻って仕事をしなければならないので、失礼致します。我がウィストリアム領にて、ゆっくりと観光を楽しんで帰ってくださいね」
 彼は配下の者たちを引き連れて、馬を走らせていった。取りつく島もない。否、用件をわかっていて、敢えて去ったのだろう。エルーテを護衛している騎士たちも、顔を引き攣らせ気味だ。
「はー、あれがウィストリアム公爵様ですか。手強そうですね。大丈夫ですか? エルーテ様」
「うん、大丈夫……。きちんと正装をしてから行こうと思っていたけれど、やめる。このまま城へ行って、この姿のまま公爵様とお話をする」
「え。それはちょっと……。相手は公爵様ですよ。きちんと身だしなみを整えてから行ったほうがいいのでは」
「似合っていると言われたので、このまま行きます」
 騎士たちは互いに顔を見合わせていた。困っているというよりは、はしゃいでいる。
「まぁ……、我々は面白そうなので止めませんが。でも一応、やめたほうがいいって、立場上ちゃんと言いましたからね」
 絶対に止めないあたり、騎士たちは兄のイザールと性格がそっくりだと思った。


 ウィストリアムの領主が住むメルフィノン城は、壮麗な白い外観を持つ。広大な敷地を囲む城壁前には大きな跳ね橋があり、そこを超えても更にまだ環状城壁があった。
(城壁内、とても広い。小さな町ならすっぽり入る大きさだ。表からは見えないけれど、裏側には兵舎や厩舎があるんだろうな)
 三つ目の城壁を通ると、城塔と組み合わさった城門へ到着した。城壁上にある通路、歩廊(アリュール)を歩いている見張り役の兵士がおり、正面は二つの黒い落とし門で閉ざされている。城壁の壁面には矢狭間(やざま)があり、そこから矢で不審者を射られるようになっていた。
「なんだ、貴様ら。ここはウィストリアム公爵様の居城だぞ」
 エルーテは下馬すると、持ってきた書簡を見せた。書簡には封蝋がされているのだが、一目で誰からのものかわかるように、印璽(シール)で刻印されている。今回は兄がいつも用いている印璽を使っており、馬とスズランの紋章が描かれているのだ。スズランはフィルラング家が代々受け継ぐ家紋であり、馬はイザールだと証明するために新たに付け加えられたものだ。エルーテも印璽を持っているが、やはりスズランの花があり、そしてエルーテだと証明するために、コマドリが描かれている。
「私はフィルラング家から来た使者です。どうかウィストリアム公爵様に、書簡を渡していただけないでしょうか」
「フィルラング家?」
「この書簡は、イザール・フィルラング男爵からのものです」
 イザールは伯爵家の跡継ぎだが、まだ伯の爵位を受け継いでいない。そのため、伯爵を名乗ることはできないのだ。だが剣術大会で優勝をした際に、国王から男爵の位を賜っている。ゆえに正式な場では、男爵と名乗るようにしているのだ。エルーテが名前を出せば、兵士の顔つきが一変した。
「イザール・フィルラング男爵だと! あの、剣術大会で連戦連勝のか! これは失礼いたしました。暫しここでお待ちください。書簡を届けて参ります」
 兄の名前を出しただけで、凄い態度の豹変だった。エルーテは心の中で、イザールに感謝する。兵士は書簡を受け取ると、すぐさま一つ目の落とし門を上げてもらった。兵士が通ると再び一つ目の落とし門がおろされ、次に二つ目の落とし門が上げられる。その二つ目の門も、兵士が通った後に閉じられる。
(安全策が凄い。うちとは大違い……)
 少しばかり呆気にとられた。そうして待たされること約二十分ほど。先ほどの兵士が戻ってきた。開門するように合図を行うと、二つの落とし門が豪快な音を立てて上がっていく。それは正に壮観だった。
「お待たせいたしました。ウィストリアム公爵様がお会いになるとのことです。どうぞ城内までお越しください」
 巨大な城門を通り抜けると、圧巻とも言うべき城の前へ到達した。寸分違わず築かれた外壁は滑らかで、一体どれほどの名のある石工たちが招聘(しょうへい)されたのかと眩暈を覚える。遠目に見える小塔には教会のシンボルがあることから、おそらく礼拝堂だろう。城を挟んだ左右は庭園になっており、並列して流れる用水路がある。アーチ状になった正面扉は既に開かれているのだが、エルーテはやや怖気づく。するとここで、案内役の兵士が振り返った。
「使者様以外の方は、城へ立ち入る許可をいただいておりません。ここより先は、使者様だけでお願いいたします」
 途端に不安になった。エルーテはここまで護衛をしてくれた、頼もしい騎士たちへ振り返る。だが彼らは一様に、陽気な笑顔だ。
「じゃあ、エルーテ様。我々は街の宿屋で過ごします。帰るときは声をかけてください。また護衛をしますので。泊まる宿が決まったら、連絡します」
 そうあっさり言われ、エルーテは困惑した。
「え、あ、うん……。ゆっくり休んでね?」
 彼らはエルーテが乗ってきた馬も、連れて行ってしまった。
(まぁ……、領主様へ話が終わったら、私もすぐ帰ることになるだろうし……)
 そう気にすることもないと、エルーテは城の入口へ一歩足を踏み入れた。床はヘリンボーン紋様になっており、艶が出るほどに磨かれている。吹き抜けになった天井は三階までの高さがあり、天井からは見事なシャンデリアがぶら下がっている。蝋燭の火を灯すだけでも、かなり大変そうだ。奥には赤い絨毯が敷き詰められた大階段があり、そこから二階と三階へ上がれるようだった。エルーテが城の中へ三歩ほど進むと、正面で待っていたラルケスと目があった。彼の後ろには、ラルケスと非常によく似た肌の色を持つ男性が立っていた。淡いベージュ色の短い髪を持ち、ひっそりと控えている。
「すみませんが、それ以上、汚い姿のまま入らないでいただけますか?」
 ラルケスは笑顔とともに告げた。
「え?」
「外の井戸水を浴びるか、その汚い服を全部脱ぎ捨ててから、城へ入ってください」
 エルーテはぽかん、とした。そこですかさず、ラルケスの背後にいた山猫のような男性が、発言をする。
「今のは主の軽い冗談です」
 そう言われたものの、冗談には聞こえなかった。ラルケスは尚も、威圧感漂う笑みを浮かべたままだ。
「いいえ、冗談ではありませんよ」
 エルーテは自らの服を見て、暫し悩んだ。衣服や荷物は馬の背に積んだままであり、着替えはない。ならば衣服を脱ぐわけにはいかないので、井戸水を浴びることにした。
「わかりました。井戸水を浴びてきます。井戸はどこですか? お借りしたいのですが」
 そこで、山猫のような男性がすぐに対応した。エルーテが本気で井戸水を浴びに行こうとしたのが伝わったのか、いたたまれない様相だ。
「浴室までご案内を致します。どうぞこちらへ」
 ラルケスを見れば、彼はおかしそうに笑っていた。
「シャル。湯浴みを終えたら、客室へ通しておいてください。私は仕事があるので、部屋へ戻ります」
 シャル、と呼ばれた男性は、恭しく頭を垂れた。
「承知致しました」
 ラルケスが去った後、エルーテはシャルを見た。物静かそうな印象だ。
「初めまして。私はエルーテ・フィルラングです」
「お初にお目にかかります、エルーテ様。私はシャル・クラートリーと申します。ラルケス様の身の回りの世話や、補佐をしています」
 彼の肌の色はラルケスよりも薄く、切れ長の瞳はまるでアメジストのような紫色だった。細身であり、背も高い。エルーテは案内されながら、彼と話をする。
「とても大きくて、立派なお城ですね。びっくりしました」
「主の城を褒めてくださり、ありがとうございます。この城は、前国王とご兄弟の関係にあられた、ラルケス様のご祖父様のために、前国王が築城されたのです」
 城内はとても壮麗であり、息をのむほどだ。廊下には異国の陶器や絵画が飾られており、歩いているだけでも楽しい。浴室へ到着すると、中へ通された。
「着替えなど、湯浴みに必要なものは用意してあります。どうぞご自由にお使いください」
「ありがとうございます、シャル」
 シャルが下がった後、エルーテは好意に甘えて湯浴みをすることにした。台の上に置かれている体を拭く布と、着替えを確認する。
(今この城に来たばかりなのに、本当にもう着替えが用意してある。……ん?)
 服を手に取って広げてみるのだが、女性用の服ではなく、男性用の服だった。しかも、作業用だ。
(やけに手配がいいと思ったら、こういうことか……。いい性格してる。これは、一筋縄ではいかないかもしれない)
 普通の貴族の娘ならば、こんな扱いを受けては屈辱だと、怒るか泣くかの二択だろう。だが普段から動きやすい男性の服を着て領内を見回っているエルーテからすれば、全く抵抗はない。
(女だからと見下しているのか、それとも怒らせて主導権を握ろうとしているのか、見極めないと)
 領主の仕事を代理で行っていたときも、これぐらいのトラブルはわりとあったのだ。エルーテは服を脱ぐと、湯浴みをすることにした。


 湯浴みの後、エルーテは客室へ通された。色鮮やかな糸をたくさん用いて刺繍がされた花柄の水色のソファーへ腰かけると、室内を見回す。奢侈品の一つとされている、手に入れるのが難しい異国の白磁の綺麗な皿が、飾り棚(キャビネット)に十枚ほど飾られていた。結婚した姉の嫁ぎ先で一度見たことはあったが、そのときは一枚だけだった。他にも木目が美しいウォールナットのチェストは取っ手が金でできており、壁際に置かれた流麗な曲線が見事なキャンドルスタンドには、赤い宝石がついている。おそらく、普段は商談や貴賓をもてなすために、使用される部屋なのだろう。
(持参金は出す、そして結婚後はこちらに支援する、って言えるだけのことはある……)
 エルーテは、用意されていた男物の服を着ていた。髪は邪魔にならないように、丸めて結い上げている。そのため、中性的な容姿だ。
「さて、どうしよう……」
 相手の機嫌を損ねないように、慎重に姉の結婚を断らなければならない。ぼんやりと考えている内に、すっかり夕方になっていた。窓の外に海鳥が飛んでいる姿が見え、感動する。故郷ではまず見かけることのない、生き物だからだ。そうしてシャルが運んできてくれたお茶を飲みながら三十分ほど待つと、扉がノックされた。部屋へ入ってきたのは、ラルケスだ。彼一人だけであり、シャルの姿はない。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません。本日はあなたと会うお約束はなかったものですから、予定を空けるのに苦労しました」
 嫌味を言われても仕方がなかった。エルーテはソファーから立ち上がると、挨拶をする。
「お忙しい中、私のために時間を割いてくださり、ありがとうございます。改めて自己紹介をさせていただきます。私はエルーテ・フィルラングと申します。今日は私個人の勝手なお願いがあり、こちらへ参りました」
 ラルケスは両腕を抱えたまま、立っていた。ソファーへ座る気配がないことから、まともに話をする気がないのでは、と不安になる。だが決して態度には出さない。
「あなたのお兄様からの手紙に、結婚についての相談事がある、と書かれていました。どんな内容なのか、詳しく聞かせていただけますか」
 エルーテは小さく頷いた。
「では率直に申し上げます。姉のニーナとの結婚を、諦めていただきたいんです」
「結婚を諦める見返りはなんですか? 私に取り引きを持ちかけるからには、それに見合う対価、またはそれ以上の対価を用意しているのでしょうね?」
 対価と言われ、それもそうだと思った。だが残念なことに、差し出せる金品はない。
「わ、私が、ニーナ姉様の代わりに、あなたの元へ嫁ぎます」
 声は裏返らなかったものの、自信のなさは表に出てしまった。予想通り、ラルケスは値踏みをするかのように、エルーテを見ている。
「あなたが、ですか? あなたのようなドブネズミ……いえ失礼。あなたはきちんと状況を理解しているんですか? 男装で身なりも整えず、しかも事前に連絡もなくここへ来た。私が並みの神経の持ち主なら、重大な問題にしているところですよ」
「それについては、申し訳ありません。私の不徳の致すところです」
「まず、私はあなたを信用していません。私の命を狙いに来た刺客かもしれませんし、間諜という線も捨てきれません。……まぁ、間諜はもっと優秀で頭のいい者がなるので、あなたのような粗忽者が間諜だったら驚きですが」
 散々な嫌味を述べられていた。
「私だってあなたの元になんて嫁ぎたくありません。でも仕方がないじゃないですか。選択肢は三つしかないんですから。ニーナ姉様を諦めていただくか、私で妥協して結婚をしていただくか、今回の話をなかったことにするか、です。そもそも、どうしてニーナ姉様を娶りたいんですか? うちに支援をしてまで……。確かにニーナ姉様はどこに出しても恥ずかしくはないほどに、美人で聡明で、非の打ちどころがありません。ラルケス様の妻として嫁いでも、ニーナ姉様なら完璧に役割をこなすでしょう」
 ラルケスは面白がっていた。なぜ彼がそのような態度なのか、エルーテには読めない。
(うーん、苦手なタイプだ。腹の底で何を考えているのか、全然わからない)
 だがニーナのためにも、ここは引くわけにはいかないのだ。
「そうですか。あなたのお姉様はとても優秀な方なのですね。あなたは、ご自分の姉の素晴らしさを私に伝えに来たのですか? 姉を敢えて貶すほうが、私が諦めるとは考えないのですか?」
「そんなくだらない嘘はつきません。姉が聡明で素晴らしい方というのは、事実ですから。……で、なぜニーナ姉様を欲するんですか?」
 ラルケスは微笑んでいた。
「あなたにお答えする義理はありません。……さて、困りましたね。私は生意気な女性は嫌いなんです。先ほどあなたは私の妻となる、と言いましたが、その際はどんな誠意を見せてくださるんですか?」
「誠意、ですか? 例えば、それはどういう……」
「そうですね。あなたが本気で私の妻になりたいとお考えなのであれば、私好みの女性になるように、努力をしていただきましょうか。お望みであれば、私自らが調教してさしあげますよ」
 エルーテは、馬鹿にされているのだとわかった。冷静でいなければならないとわかっているのに、ついむっとしてしまう。
「調教ってなんですか。私はラルケス様の犬や馬になるつもりはありません」
 ラルケスはじっとエルーテの顔を見つめると、やがて歩き始めた。彼はエルーテの目の前までやってくると、立ち止まる。
(間近で見ると、やっぱり恐ろしいほどの美貌の主だ……。悪魔というより、神話の神様みたい)
 赤い瞳から目を逸らすことなく、じっと見つめ返した。
「本当に、口うるさいドブネズミですね。今のままでは、あなたを娶る気が起きません」
 そう言って、ラルケスはエルーテの顎を冷たい指で持ち上げた。ひんやりとした感触に驚いていると、更に驚くべきことが起きた。
(――え?)
 ラルケスはエルーテの唇へ、口づけをしてきたのだ。これにはエルーテもどういう反応をしていいのか、わからなかった。初めてのキスを、よくわからないままに奪われ、終わってしまったのだから。ラルケスは目を細めて、口元に笑みを湛えている。
「おや、泣かないんですか?」
 呆然としすぎて、感想すら出てこなかった。だが彼が好意で口づけをしたわけではない、というのはさすがにわかる。
(そっちがその気なら)
 エルーテは彼の胸ぐらを両手で掴んで引き寄せると、背伸びをした。そして彼の唇へ、自らの唇をしっかりと押し当てる。そして軽く突き飛ばすようにして、彼から離れた。
「こう見えて、根性と諦めの悪さだけは自慢なんです。あなたが姉を妻に娶るのを諦めないというのであれば、私はそれを断固として阻止します」
 彼は楽しげにしていた。やはり何を考えているのかがわからないので、エルーテは背筋がぞくりとする。
「あなたが生半可な気持ちでここへ来たわけではない、というのは理解しました。話は以上でよろしいですか?」
 エルーテの用件は伝えた。ゆえに、これ以上話をする必要はない。
「はい」
「でしたら、お帰りはあちらですよ」
 彼が手で示したのは、客室の外へ通じる扉だ。エルーテは思わず首を傾げる。
「……このまま帰ったら、どうなるんですか?」
「そうですね。現状ではあなたを妻にするメリットは何もないですし。大変残念ですが」
 先ほど彼はエルーテへキスをしてきたというのに、その口で事も無げに言った。エルーテは無性に腹が立つ。
「では、帰りません」
「帰らないのですか? 今から宿を探すのは大変ですね」
「いいえ、ここに居座らせていただきます」
「おや、なんとも図々しいですね」
「承知の上です。私を妻にすると認めていただけるまで、帰らないことにしました」
 当初は姉を諦めてさえくれればいい、と思っていた。だが彼はあろうことか、エルーテの初めての口づけを許可なく奪い去り、侮辱したのだ。このまま帰るのは、エルーテの矜持が許さない。
「あなたのような厚かましい女性を置くのは、お断りしたいのですが」
「では、この城に置いていただけるのであれば、なんでもいたします」
「ほう……。それは本当ですか?」
「はい」
「ならば、あなたの覚悟を試しましょうか。そこのソファーの上で四つん這いになってください」
 奇妙な指示に、エルーテはどういう意味だろう、と動けなかった。
「え?」
「おや、できないんですか?」
 ろくでもないことをされる予感はあったが、エルーテは黙って従うことにした。靴を脱いでソファーの上に上がると、四つん這いになる。そのままじっとしていると、ラルケスが動いた。彼はエルーテの脚衣の上から臀部を両手で掴むと、撫でる。
「ひゃあぁっ! 何をするんですっ!」
「耳障りな悲鳴をあげないでください。あなたが私の妻になりたいというので、私はあなたの腰を調べているだけですよ」
「こ、腰? つまり、後継ぎを産めるかどうか、ということですか?」
「えぇ。……小ぶりですが、形はいいですね」
 脚の内股を撫でられ、ぞくりとした。脚衣を穿いているので、彼にははっきりと臀部の形が捉えられているだろう。まるで彼に尻を突き出しているかのような姿勢なので、エルーテは恥ずかしくてたまらない。
「あ、あのっ、もういいでしょうか」
「いいえ、まだですよ。長旅でずっと馬に揺られていたせいで、随分と腰回りの筋肉が硬くなっているようですね。私がほぐしてあげましょう」
 一見すると善意のようにも受け取れるが、彼の場合は違うだろう。エルーテは逃げようとしたが、遅かった。ラルケスはエルーテの臀部を両手でしっかりと掴むと、揉み始めたのだ。
「やっ」
 くすぐったさに、体が震えた。しかも男性にお尻を揉まれているという滑稽な体勢に、泣きそうになる。
「感謝してください。公爵であるこの私自らが、労わって差し上げているんですから」
「も、もう、やめてくださ……、んっ」
 最初はくすぐったいだけの感覚だったのだが、次第に得体の知れない奇妙な気持ちになった。臀部から腰にかけて、じわじわと痺れのようなものが襲ってくる。次第にそれは強まっていき、息が上がった。
「あなたは、感度がいいみたいですね」
 エルーテは前を向いているため、彼がどのような表情で言っているのか、わからなかった。
「か、感度? ひゃっ」
 なんとも卑猥な揉まれ方をされているのがわかった。羞恥に耐えかねて俯くのだが、臀部はラルケスの大きな指で円を描くようにして、弄ばれている。しかもなぜか体温が高まっていき、両脚が戦慄いた。
「……おや。大分、感じてきているようですね」
 大きく臀部を割り広げられたかと思えば、その状態でまた揉まれ続けた。脚衣で見えないが、大事な場所を彼に見透かされているような錯覚に陥る。それが、余計にエルーテの羞恥心を煽った。ねっとりした手つきで臀部をひたすら揉まれ、いいようにされているのだ。エルーテは今自分がどういう状況なのか、想像すらできなかった。
「やっ、もうやめてくださ……っ、あんっ」
 今まで自分が発したことのない、甘ったるい声が出てしまった。エルーテは恥ずかしさで、泣きそうになる。だがラルケスはくすくすと笑い、やめてくれる気配がない。
「とっても気持ちよさそうですね。私に気遣って、遠慮をしなくていいんですよ」
 気遣ってなどいない。彼はわかっていて、そう言っている。エルーテは彼が成すままに耐えるのだが、体の熱はこもる一方だ。特に下半身の熱は凄まじく、先ほどからおかしな疼きがある。
(やめてほしいのに、どうしてやめてくれないの)
 その瞬間、エルーテは臀部と繋がった場所にある大事な部分が、ひくつくのがわかった。今まで一度もそのようなことはなかったので、困惑する。しかも物欲しげに何かをねだるように、ひくつくのが止まらない。
「あ……っ、くっ」
 堪えようとして臀部に力を入れようとしたが、背後にいるラルケスはより一層、臀部をねっとりとした手つきで揉んだ。
「どうしたんですか? なんだかとても、苦しそうですが」
「そ、そう思われるのでしたら、もう、やめてください」
「あぁ、わかりました。きっと、脚衣のサイズがきついのでしょう。脱げばきっと、楽になりますよ」
 そう告げて、彼は腰から脚へとエルーテの脚衣を一気に引き下ろした。大切な場所は下着(ブライズ)できちんと覆われているとはいえ、異性に見られたショックで悲鳴を忘れる。
「どうですか? 少しは楽になりましたか?」
 できることなら、今すぐ立ち上がって彼の頬を平手で叩きたかった。だが臀部を揉まれている内に、エルーテはその行為が心地いいと感じ始めてしまう。
「う……、いや……、や……ぁ」
 彼にみっともない姿を眼前に晒しているというのに、動けなかった。ひくつきは収まらず、同時に何かが下半身から溢れてくるのがわかる。
(な、なに?)
 それは脚を伝い、外気に触れてひんやりとする。
「お尻を触られているだけで濡れてしまうなんて、はしたないですね。あぁ、でも気にしなくていいんですよ。あなたがそういう淫乱な娘ということは、秘密にしておいてあげますから」
 とてもいけないことをしてしまったのだと教えられ、エルーテは混乱した。
「ご、ごめんなさ……っ」
「なるほど、あなたはこのような行為のときは、従順で可愛らしくなるのですね」
 たくさんの液体が、こぽりと割れ目から溢れて落ちた。臀部を揉まれているので体がずっと揺らされているのだが、エルーテの体から溢れた液体が、ソファーへ落ちる。そのシミに気づき、エルーテは蒼白になった。
「っあ、ラルケス様、ソファーが汚れ……」
「気にしないでください。これぐらいのソファーはいくらでも買い換えられるので」
 彼の指で、自らの臀部が形を変えているのがはっきりとわかった。臀部を広げられる度に割れ目に空気が入り、しかもくちゅくちゅと卑猥な音がする。それだけではなく、エルーテへもたらされる奇妙な快楽が、より強くなった。
「んぅ、……ぅうっ!」
 声が出るのを堪えようとしたが、できなかった。
(やだっ、どうしてこんなことをするのっ)
 逃げたければ逃げればいい。だがエルーテは決めたのだ。彼をなんとしてでも、自分の妻にすると認めさせると。だから逃げない。このような背徳的な行いが恋人でもない相手にされているのは腹立たしいが、我慢する。
「じょ、女性に、飢えてるんですか?」
「生憎と、女性には困っていません。私、もてますからね。あなたは……、あぁ、質問するのは失礼でしたね」
 エルーテが男性からもてないだろうことを、指摘された。実際にその通りなので、反論できない。
(女性に飢えていないなら、やっぱり私を辱めて苦しませようとしてる?)
 そんな考えを戒めるかのように、木綿の下着の中へラルケスの手が入ってきた。先ほどまで布越しに臀部を揉まれていたのだが、現在(いま)は生々しい彼の掌がしっかりと伝わってくる。美しい顔に似合わず、彼の掌の皮は厚かった。それは兄のイザールの手とよく似ている。
(武人の手だ)
 つまり彼には、剣などの武器の心得があるということ。
「どうしましたか?」
「あ、その、剣を使うのかと思って。手の豆は、筆記をするときにできたものだけではありませんよね?」
 膨大な書類仕事も行っているのがわかった。なぜなら、エルーテも同じ掌の位置に、豆があるからだ。それは、筆記をする作業が多くてできたもの。ラルケスは暫し、臀部を揉むのをやめた。手は相変わらず、臀部に置かれたままだが。
「えぇ。よくわかりましたね。私の掌がどんな形をしているのか、お尻でわかるだなんて。あなたは面白い特技をお持ちなんですね」
「え! そんな特技は持っていな……っ」
 言い終える前に、再び臀部を揉まれた。彼の熱い手がはっきりとわかり、先ほどよりも感覚が鋭敏になる。
「あなたを妻にするメリットは何もなさそうだと言いましたが、訂正しましょう。あなたのお尻だけは、滑らかで触り心地がいいですよ。まるで白磁のように」
「そ、それは、どうも……ひぅ……んっ」
 ポトポトと、割れ目から液体がどんどん滴り落ちているのがわかった。それがなんの液体なのか、エルーテにはわからない。寧ろ、知りたくはなかった。ラルケスの指が臀部に食い込み、形を変えて動いている。エルーテはぞくぞくとした快楽に、ただ耐えるしかない。全身は汗ばみ、息が上がった。もう両手で体を支えているのが、辛い状態だ。
「ふふ。ぐしょぐしょですね。これはまた後で、湯浴みをしなければならないでしょうね」
「うぅ……っ」
 エルーテをそのような状態にした本人は、酷く楽しげだった。お尻を揉まれているだけで、このような痴態を晒しているのだ。彼はさぞや面白いだろう。
(も、もうダメ……っ)
 がくん、と腕の力が抜けて前のめりになった。上半身が崩れてしまう。だがラルケスはまだ、臀部を触るのをやめない。それどころか、先ほどよりも快楽を与えるような動き方になっている。
「どうしましたか? とても、ぐったりしているように見えますが」
 彼はわかっていて、わざと尋ねている。しかもエルーテのお尻を大きく広げ、割れ目をも指で広げた。下着で隠れているので見られはしないが、エルーテは恥辱で頭がどうにかなりそうになる。
「っあ、そこは……」
「ビチャビチャになっていますよ。見ますか? ほら」
 ラルケスは指先をエルーテへ見せた。エルーテはこんなことは初めてだったので、衝撃を受ける。
「な、なんで、濡れてるの……」
「簡単ですよ。あなたが私にお尻を弄ばれて喜ぶ、はしたない女性だからです」
「そんな……っ」
「気持ちよかったんでしょう? もっとしてあげましょうか?」
 綺麗な顔に似合わず、彼は予想以上に底意地の悪い性格をしていた。またもや臀部を揉まれ続け、エルーテはもう無理だと無言で首を振る。しかし彼がそれでやめてくれるような心根の持ち主であるはずもなく、逆に快楽を与えらえる。
「は……っん、ぁあ」
 膝だけ立てているため、彼に腰を突き出すような姿勢をしていた。腰を下げようとすれば、咎めるように臀部を軽くつねられるので、できない。しかも彼は時折、美術品を愛でるかのように、臀部を撫で上げるのだ。
「本当に滑らかで、傷やざらつきのない肌ですね。弾力も良く、上を向いている。普段から何か運動でもされているんですか?」
「と、とくには……。ふ……っ、村の子供たちと、ん、一緒に遊ぶぐらいで……」
 がくがくと腰が震え、もう膝をついていられなかった。足の間からとめどなく溢れる液体は、下着をぐっしょりと濡らしていて冷たい。ひくつきも限界を超え、痛いぐらいだ。
「そうですか」
 彼は堪能するように、エルーテの臀部を揉みしだいていた。だがやがて満足したのか、エルーテから離れる。
(や、やっと……、解放された……)
 だがエルーテは疲れ果ててしまい、すぐには動けなかった。呼吸を整え、なんとか思考を無理やりクリアにする。そうして、自分が臀部を持ち上げたままの姿でいることに、蒼白になった。よろよろと体を起こして、脚衣を持ち上げようとする。だがその前に、ラルケスが布を下着の中へ差し入れ、股の間を拭う。その拭き方はやはり、美術品を扱うかのように丁寧だ。
「これで、少しはマシでしょう。あとはご自分で、浴室で綺麗にしてください」
「あ、ありがとう、ございます……?」
 礼を言っていいのかどうかも、もうわからなかった。ラルケスはにこりと、満足そうに微笑む。
「ドブネズミらしい、素敵な鳴き声でしたよ」
 エルーテは恥ずかしさのあまり、顔が真っ赤になった。急いで脚衣を履くと、ラルケスから距離をとる。今回のことではっきりわかったのは、この男性がニーナの夫になったら、間違いなく姉が大変なことになる、ということ。
(この人のこと、今日から尻公爵って呼ぼう)
 心の中での呼称を決めると、エルーテは威勢よく彼を見上げた。今しがた受けた辱めについて、必ず彼に責任をとってもらおうと、決意を強める。
「ひねくれ公爵様。是が非でも必ず、私と結婚をしていただきます。どうぞ、覚悟をしていて下さい!」
 彼は相変わらず、考えの読めない笑みを浮かべていた。
「おや、そんなにもお尻を揉まれたのが、気に入ったのですか?」
「お、お尻は関係ありません!」
「そうですか。素直ではありませんね。まぁ、いいでしょう。あなたが一体どうやって、この私を誘惑するのか興味がありますし、この城への滞在を許可しましょう。まぁ、無駄な努力にならないように、せいぜい頑張ってくださいね」
 他人事のように、彼はそう言った。

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