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ひねくれ公爵の従者と、
平穏ではない日常

 その日、シャルは監視役の一人から報告を受けた。彼はシャルの直属の部下であり、陰ながらエルーテを護衛している者の一人だ。
「このような件、お知らせするまでもないとは思ったのですが、念のために……」
 彼が報告してきた内容は、耳を疑うものだった。
「エルーテ様の?」
「は。……すでに、七十名ほど所属しているとのことです」
「発起人は?」
「騎士のアーレンです」
「アーレン? 確か彼は、内向的な性格をしていて、そういったものに関わるような人物には見えなかったが……」
 シャルはアーレンという人物について、知っている情報を思い出した。まだ年が若い青年であり、美形、そして女性たちからそこそこ人気が高い。大人しい性格ではあるが、剣の腕前はなかなかのものだ。
「はい。……おそらく害はないと思われますが」
「おそらく……?」
 監視役の曖昧な表現に、シャルの眉間に皺が寄る。彼は悩みの種がまた増えそうな予感に、頭痛を感じた。


 ラルケスに報告をするかどうか、迷う内容だった。だが隠し立てをするわけにはいかない。ゆえに、彼は報告することを選んだ。
「『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』というものがあるそうです」
 執務室で仕事をしていたラルケスは、珍しく戸惑った表情を見せた。だがシャルの大真面目な顔を見て、冗談ではないと理解したようだ。
「なんです、その……、不気味な名前の愛好会は……」
 ラルケスは僅かに顔を引き攣らせていた。無理もない。シャルも初めてきいたときは、非常に戸惑ったからだ。額に変な汗が浮かんだことを、今でもはっきりと覚えている。
「エルーテ様に近づいただけで、遠方の勤務に回されると知った者たちが、そういう愛好会を作ったようです。……かなりの人数を、遠方に飛ばしましたからね。彼らもバカではないので、エルーテ様に近づけば、ラルケス様の怒りを買う、と学習したんでしょう」
 中にはエルーテの寝室へ忍び込んで、夜這いをしようとした猛者もいたのだ。当然、ラルケスの忠実な護衛が阻み、なにごともなかった。
「世の中には、随分と物好きな方が多いんですね……。一体、彼女のどこがいいのやら……」
 シャルは少しだけ視線を下げた。
「それを、ラルケス様が仰いますか……」
「は?」
「最近、エルーテ様に過保護を通り越して、過剰なほど護衛をつけているでしょう」
「それは、エルーテの寝室へ忍び込もうとする犯罪者や、隙を見て襲おうとする愚か者がいるからです。警護を厳重にするのは当然でしょう」
 普段は遠方へ追いやるだけのごく軽い罰で済ませているラルケスだが、その件に関しては厳格に対処をした。
「……護衛の件だけではなく、彼女のためにおいしいと評判の果物やお菓子を取り寄せていますよね。エルーテ様はそうとは知らず、使用人たちと一緒に休憩の時間に召し上がっていますが……」
「勘違いをしているようですね。果物やお菓子を取り寄せるのは、エルーテのためではありません。私が食べたいから、取り寄せているだけです」
「……今までそんなもの、露ほども興味がなかったと記憶しておりますが……」
 ラルケスはシャルをねめつけた。だがシャルは涼しい顔で受け流す。
「同じものを食べていては飽きるので、たまには普段と違ったものが食べたくなっただけです。それ以外に理由はありませんよ」
「……家令に、エルーテ様がきちんと食事をしているかチェックをさせ、健康管理にも気を配っているでしょう。エルーテ様がくしゃみをしただけで、薬湯か医者を手配させますし……」
「彼女が風邪をひいたら、面倒だからです」
「ラルケス様が付きっ切りで看病をすることになるからですか?」
 目の前の主人は否定をしなかった。以前エルーテが風邪をひいて寝込んだことがあったが、ラルケスが看病をしたのだ。
「……シャル。今日は随分と、饒舌ですね」
「そんなことはありません。……あぁ、そうそう。報告が遅くなりました。どなたに差し上げるのかは全くもって見当がつきませんが、以前ラルケス様がご注文をされていた女性用の石鹸や化粧水が、本日届きました」
 ラルケスは額に右手を当てて、唸り声にも似た返事をした。
「……、わかりました」
「どなたへお持ちすればよろしいですか?」
「……泥だらけになるのが大好きな、ウサギに」
「畏まりました。エルーテ様へお渡しします」
 最近、このような会話をすることが増えた。以前ならば絶対に考えられないことだ。これまでラルケスに、弱みなどなかった。隙もなかったので、彼とのやり取りはもっと淡々としていたのだ。
「言っておきますが、エルーテへの贈り物ではありませんよ。彼女の体の一部は、私のものですからね。ゆえに、自分で自分のものを管理しているに過ぎません」
「えぇ、承知しています」
「食事によって肌の調子が変わってきますし、使用する石鹸も肌のためです」
 シャルは溜息をつきそうになったが、我慢した。
(ラルケス様は、なぜこうも正直ではないのだろう……。もう少し素直になれば、もっと生きやすい世界になるだろうに……)
 体調を気遣うのは心配だから、石鹸や化粧水などを贈るのは、普段女性らしい服装をさせてあげられないから。
 つくづく難儀な性格をしているものだと、シャルは思わずにはいられない。
「……先ほど報告をした『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』についてですが、私のほうでも少し調べておきました。どうやらその愛好会は、昨年の祭りの少し前にできたようなのですが、その頃は四、五人程度のごく小規模な集まりだったようです。しかし、祭りの日に行われたコンテストを契機に、ファンが急増したようです。……まぁ実際、エルーテ様は女神が降臨なされたかのように、とてもお美しかったですからね」
 ラルケスは一気に不機嫌になった。
「その愛好会、どうにかできないんですか。十分、危険分子でしょう。解体させてください」
「残念ながら、今のところどうにかするのは難しいかと。ただそっと遠くから見守るだけの、害のない集団なので。むしろ私が懸念をしているのは、ラインハルデ国の商人です。エルーテ様を気に入ったらしく、ご自身の子息との縁談を考えているという噂が流れています」
「エルーテと?」
「はい。フィルラング家の財政がやや思わしくないことも調査済みらしく、支援も検討しているそうです」
 ガシャン、と何かが落ちる音がした。見ればラルケスの机の上にあったはずのティーカップが、床に落ちて粉々になっている。どうやらお茶を飲もうとして、うっかり落としてしまったようだ。
(珍しい。普段はこんな些細なミスはしないお方なのに……)
 余程動揺しているのだろう。シャルは内心、面白く思った。主人のこのような姿を見るのは、とても稀だからだ。ラルケスは益々、不機嫌になっている。
「今後ラインハルデ国の商人と話をするときは、港にある迎賓館で商談をします。万が一城へ来ても、決してエルーテと会わせないようにしてください。彼女は私が預かっている、大切な客人(ゲスト)なので」
「一言、彼女は私の婚約者です、と言えば解決するのでは?」
「それは、まだできません。婚約お披露目パーティーが済むまで、絶対に口外するなと、エルーテの姉から強く言われているので。私も、未来の花嫁の姉に、今から嫌われたくありませんからね」
 シャルはエルーテの姉であるニーナを思い浮かべた。ラルケスを毛嫌いしており、エルーテへまとわりつく害虫のような扱いをしているのだ。少し前に彼女の結婚が漸く決まったのだが、持参金の出所がラルケスだと知るや否や、結婚しないと言ってイザールを大いに困らせたらしい。結局、イザールがラルケスに少しずつ持参金を返していくということで、その場は収まったそうなのだが、かなりの修羅場だったようだ。
「要するに、ニーナ様はまだラルケス様を認めておらず……、それどころかお披露目パーティーの日までに婚約を破棄させようとしているのですね」
「……ニーナから何通か手紙を貰いましたが、ご丁寧にも毎回、エルーテを諦めてください、と正直に書いてあります」
「困りましたね。どうにかならないものでしょうか……。いっそ、エルーテ様の花を散らしてしまったから責任をとる、と正直に打ち明けてみてはどうでしょう?」
「間違いなく私が八つ裂きにされるでしょうね」
「それは、ちょっと見てみたい気がいたします」
 シャルはティーカップなどを片付けながら、そう言った。


 エルーテを近くもなく、遠くもない距離から眺めている者たちがいた。『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』に所属する、男性や女性たちだ。エルーテは先ほどまで使用人の女性や護衛の兵士たちと一緒に山菜を採りに出かけていたのだが、夕方になる前に城へ戻ってきたのだ。
「エルーテ様」
 愛好会を起ち上げた騎士のアーレンが、エルーテへ話しかけた。偶然その場を通りかかって見ていたシャルは、驚く。というのも、これまでアーレンからエルーテへ話しかけたことは、自分が知る限り一度もなかったからだ。アーレンは長身であり、茶色の髪と目を持つ。顔立ちは整っており、美形に入る部類だ。更に彼は温厚そうな雰囲気があるため、一部の女性から人気がある。
(まさか、エルーテ様に手出しを?)
 なにかするならば、未然に防がなければならない。シャルはさりげなくエルーテへ近づいた。エルーテはアーレンを見て、笑顔を浮かべる。
「アーレン? どうしたの?」
 シャルは怪訝そうにした。エルーテが彼の名前を知っているということは、二人は既に面識があることを意味しているからだ。
(エルーテ様はアルディに会いに、騎士たちが暮らす騎士館へ行ったり、掃除を手伝いに行くこともある。……面識があったとしても、おかしくは……)
 訝しんでいると、アーレンはエルーテへ微笑んだ。
「お忙しいところ、申し訳ありません。もしもよろしければ、助けていただきたいことが、ありまして」
「私でよければ、手伝うよ。どうしたの?」
「実は……、ラスが犬舎を脱走してしまいまして……」
「え!」
 ラスとは、赤褐色の大きな犬のことだ。気難しい性格をしており、エルーテとラルケスにしか懐いていない。
「すぐに見つかったのですが、我々の言うことをきかなくて困っているのです。どうかラスを犬舎へ戻すのを、手伝っていただけませんか?」
 エルーテは頷いた。
「わかった。任せて」
 シャルはなぜラスが脱走したのか、疑問に思った。これまでラスが脱走したことなど、一度もないからだ。エルーテとアーレンに見つからないよう、シャルは後をこっそりつける。そうして到着したのは、裏庭にある池だった。シャルは近くの木に身をひそめ、エルーテたちを窺う。
(あれは確か……)
 池の周囲には『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』に所属する会員が十名ほどいた。全員男性であり、記憶が正しければ、わりと初期から所属している者たちだ。エルーテは彼らの中央を突っ切り、その先にいるラスを見た。
「ラス、どうしたの? 一緒におうちへ帰ろう?」
 ラスはなにかを口に咥えていた。それは、紙片だ。エルーテはそばへ寄ると、ラスの隣へ屈んだ。すると、ラスは無表情ながら尻尾を振る。
(……あの態度、ラルケス様にそっくりだ)
 ラスという名前をつけたのは、シャルだ。ラスの面倒は基本的にラルケスが見ているが、忙しいときはシャルや他の者が世話をしている。最近はエルーテがラスの面倒を見ることが多く、そのせいもあってよく懐いている。
「ラス、なにを咥えているの?」
 エルーテが紙片を口から取ろうとしたが、ラスはぷいっ、と横へ向いた。そのまま立ち上がると、シャルがいる方向へ歩き出す。これに気付いシャルは、今やってきた体を装って木の下から素早く出た。
(ラス……、どうやら私の気配に気づいていたようだ)
 などと、歩きながら感心してしまった。
「どうしたんですか、大勢集まって」
 ラスはシャルの前に立ち止まると、顎を上げた。どうやら、口にしている紙片を受け取れという意味らしい。シャルは紙片を受け取ると、それを見た。どうやら元々は手紙らしく、それが半分に引き裂かれてしまったようだ。これに血相を変えたのは、アーレンたちだった。
「あ、シャル様。その手紙は、私のものなんです。どうか返していただけますか。先ほど、ラスに奪われてしまって……」
 シャルはわりと、勘がいいほうだ。もしも、相手がやましいことを抱えている場合、すぐにわかる。
「この手紙を、ですか?」
 封蝋には印章が押されていた。
(形が崩れているせいで、本来の形がわかりにくいな……)
 封蝋は開封のときに割れる。これによって、開封したかどうかがわかる仕組みになっているのだ。
(……ん? この形はもしや、エルーテ様の姉、ニーナ様の印章……?)
 なぜニーナからの手紙を、アーレンが持っているのか。ラスによって手紙を奪われたとのことだが、脱走の原因はこの手紙ではないかと推察する。
「申し訳ありませんが、こちらの手紙は預からせていただけます」
「え!」
「念のために内容を検閲させていただきますが、よろしいですね?」
「そ、それは……」
 アーレンたちは互いに顔を見合わせ、困った表情をした。エルーテは見かねたのか、シャルへ話しかけてくる。
「シャル。そのお手紙、返してあげられないの?」
「はい。少々、気になる点がございますので……」
「気になる点?」
「はい。……では、私は仕事がございますので、これにて失礼をいたします。エルーテ様はどうか、ラスを犬舎までお願いいたします」
「は、はい……」
 シャルは背を向けると、ラルケスの元へ向かった。


 手紙は半分に引き裂かれていた上に、ラスの涎で文字が滲んでいた。だが、どうにか大体の内容を解読することができた。シャルは胃が痛くなり、苦悩する。
(これは、ラルケス様にお伝えしなければなるまい。だが、伝えたらどうなるか……)
 悩んでいても仕方がないので、ラルケスの執務室へやってきた。だが部屋に入ってすぐに、シャルは後悔する。なぜなら、ラルケスが非常に不機嫌だというのがわかったからだ。ラルケスが手にしているのは、彼が前々から欲しいと望み、やっと手に入れた自慢の白磁の器だ。だが見事に粉々に割れていた。
「……、ラルケス様。どうなされましたか? 確かその器は、新しく作ったコレクションルームに展示していたはずでは……」
「えぇ。磨いている最中に、割ってしまったんです」
 手元が狂って割ったというよりも、叩き割ったように見えた。彼は普段自分のコレクションはとても大切にしているので、自らの手で壊すなど初めてのことだ。シャルは、これは余程のことがあったに違いない、と緊張する。
(また北の大国が攻め入ってくる? いや、それは当分ないはずだ。……では、シュバール国のように、またどこかの国が裏切った? それとも王都でなにか問題が……? まさか、海賊が出てラルケス様の積荷を盗んだとか……)
 色々考えたが、わからなかった。ゆえに、恐る恐るラルケスへ問いかける。
「……珍しいですね。それほどまでに、ラルケス様が動揺なされるとは。なにがあったのですか?」
「ラインハルデ国の商人が、息子と一緒に船でやってきたらしく、エルーテを夕食に招待したいという手紙が届いたんですよ」
 どうやらエルーテ関連のようだった。シャルは北の大国が攻め入ってくるよりも、厄介な大問題だと考える。
(今のラルケス様は、エルーテ様を中心に、物事を考えるときがあるから……)
 しかしながら、ここで疑問が生じた。というのも、ただ夕食へ招待したいという手紙だけで、器を割ったとは考えにくかったからだ。
「夕食に、ですか?」
「えぇ。なんでもその息子は大そう剣の腕前が強いらしく、自分の息子とイザールを勝負させて、エルーテを息子の嫁に、と望んでいるそうです」
 シャルは思わず、ブッと笑いそうになった。必死に無表情を装って我慢するが、とんでもない状況になっている。商人からの手紙を差し出されたので読むが、本当にそのように書かれていた。
「これは……、大変な事態ですね。心中お察しいたします」
 笑いを堪えようとするあまり、声が震えてしまった。ラルケスはシャルを睨みつける。
「随分と楽しそうですね。他の者はどうか知りませんが、私はあなたの表情がわかるんです。隠しても無駄ですよ」
「隠しているつもりはありません。我慢はしておりますが。……で、どうなされるのですか?」
「決まっているでしょう。エルーテは私の大切な客人です。妙な男に手出しをされるわけには、いきません。……そうですね。イザールは、この国一の剣の使い手です。簡単に面会できるような人物ではありません。まずはその男の腕前を、私が試してみるとしましょう。もしも私で勝てないようであるならば、イザールには到底勝てるわけがありませんので」
 シャルは表情は無にしたまま、眉を寄せた。
「私の記憶が確かならば、そのフレリンド王国で最強の剣の使い手に勝った者が、一人だけいたはずですが……」
 ラルケスはシャルへにこりと微笑んだ。
「おや、そうなのですか? 私にはそんな記憶はありませんが」
「……」
「ただの領主に負けるようであれば、イザールに勝つだなんて夢のまた夢。……二度とこんなバカげた妄想を抱かないよう、容赦なく心を叩き折ってあげましょう」
 シャルはここでの感想を迷った。恐ろしい人物だと畏怖するべきか、それとも大人げない主人だと遠い目をしてみるべきか。
「……えぇ。それが、よろしいでしょう」
 これ以上主人の機嫌を損ねないためにも、取り敢えず賛同しておいた。少し落ち着いたラルケスは、シャルが手にしている紙片を見る。おそらく部屋へ入った瞬間から、気づいていただろう。
「ところで、それは?」
 シャルは憂鬱な気持ちで、それを差し出した。ニーナの印章が見える側を上にして。
「騎士アーレンに、ニーナ様が送った手紙のようです。ラスが口に咥えてアーレンから奪ったようで、それを没収してきました」
 ラルケスは手紙を確認した。
「随分と文字が滲んでいて、読みにくいですね」
「おそらく、ラスの涎のせいかと……」
「……、アーレンがなにかをニーナへお願いをし、ニーナがそれを承服したようですが……」
「はい。おそらく、『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』に関することだと思います」
「この手紙を証拠に、解散させることはできないのですか?」
「今のところ、問題は起こしていませんので……。どうしてもと仰るなら、なにかでっち上げて社会的に抹消することも可能ですが……」
「――……、……誰もそこまでしろとは、言っていませんよ」
 妙に不自然な間が空いた。
「でも、気持ち的にはしたいのでしょう?」
「否定はしません。社会的に抹消よりも、遠くの海へ捨てて沈めたいところなので」
 シャルは少しばかり思案した。エルーテは人気があるが、彼女へ近づく人物全てが善人とは限らない。中には先日夜這いをしようとした男のように、危険人物もいる。つまり、アーレンが無害と断定するには、時期尚早ということだ。
「一度アーレンから事情を聞いてみます」
「わかりました。任せます」
 シャルは一礼してから、執務室を後にした。


 人気のない薄暗い裏庭の片隅で、アーレンの背中は地面に叩き付けられた。アーレンは呻き声をあげ、ごほごほと咳き込む。
「ぐっ……」
 彼の正面に立っているのは、両手を背後で結んで直立しているシャルだ。アーレンの服が土による汚れまみれに対して、シャルの服には僅かな汚れもない。
「軽くお手合わせをお願いしただけなのですが、ただの従者にこうもあっさり負けるとは……。騎士として少々気が緩みすぎでは……?」
 涼しい表情で言ったシャルに、アーレンが青ざめた。無理もないだろう。長剣を手に戦ったというのに、シャルは短剣一つで圧倒したのだ。
「いえ、もう、人間の速さではありませんよ……。シャル様に勝てる方は、少ないかと……」
「人聞きの悪いことを言うのはやめてください。私はただのか弱い従者です」
「え! か弱……? どこにいるんです、そんな人。少なくとも私の視界にそんな人はいませんが……」
「寝ぼけているのですか? ここにいるでしょう。腕も背もあなたより細くて低いですし、とても貧弱ですよ。……さて。それでは、話をしてもらいましょうか。ニーナ様になにをお願いしたのか。知っているでしょうが、ニーナ様はエルーテ様の大切な姉君です。その方に、なにを頼んだのか」
「そ、それは……」
 シャルは短剣を宙に放り投げてくるくると回転させ、それをキャッチした。
「くれぐれも、返答にはお気を付けください。うっかり手元が誤って、あなたの眉間に突き刺さる、ということもあり得ますので」
「そ、そんな脅しをするなんて、卑怯ですよ! 暴力反対です!」
「脅し? とんでもない。私は平和的に、あなたから話を聞こうとしているだけです。眉間に穴が開くのがお嫌でしたら、俸給を大幅に減らすとかどうでしょう? 人件費削減にもなりますし、なかなかの名案ですね」
「あ、悪魔だ……」
「違います。私は主人思いなだけの、か弱い従者です。……あなたが暮らしている騎士館の裏で、なにかを燃やした痕跡がありました。あれはラスが咥えていた、残りのもう半分の手紙ですね? あれには、なにが書かれていたのですか?」
「い、言えません……」
「あなたはラルケス様に忠誠を誓っている身でしょう。主人を裏切るおつもりですか」
「そ、そんなつもりは……」
「あなたを騎士に叙任したのは間違いだった、と我が主人に思わせるつもりですか?」
 ラルケスは敵には容赦がなく冷酷だが、自らの懐にいる者に対してはきちんと厚遇している。ゆえに、彼もラルケスを敵に回そうとは本気で思っていない筈だ。
「さぁ、答えてもらいましょうか」
 アーレンは観念したように、項垂れた。
「実は我々は、ある愛好会をつくったんです」
「それは、『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』のことですか?」
「……! ご、ご存じ、だったのですか?」
 なぜか、アーレンは顔を赤くして恥ずかしそうにした。
「……その会について、なにを頼んだのです?」
「わ、我々はエルーテ様のファンなのです。決して害をなそうと思っているわけではありません。ひたすら遠くから愛でて眺めるだけの、健全な会です」
「非公式な上に、それのどこが健全なのかわかりません」
「……それは……、仰るとおりです。こんなことが主君に知られれば、解散させられるのは目に見えています。なので、きちんと公に認めてもらうことにしたんです」
「公に……?」
 嫌な予感がした。
「はい。エルーテ様の姉君、ニーナ様にです」
 シャルは眩暈を感じた。
「……、ニーナ様は、なんと?」
「快いお返事をいただきました。妹であらせられるエルーテ様を、そっと見守って助けてあげてほしい、と。そして同時に、ニーナ様が『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』の、会長になってくださるとのことでした」
「……えっと、つまり……?」
「公に認められた、ということです! だからこれからは、こそこそ隠れて活動をしなくても、いいんです! 堂々とエルーテ様を見てよいのです!」
 シャルは、このまま聞かなかったことにするか本気で悩んだ。しかしながら、これは現実だ。今更聞かなかったことにはできない。
「あなたは、地面に埋められるのと水の中に沈められるのと、どちらがお好みですか? せっかくなので選ばせてあげます」
「なんでそんな物騒な質問をするんですか」
「地面を選ぶなら、今ならサービスで馬糞と一緒に埋めてあげます」
「酷すぎませんか!」
「油と火もオプションで追加できますよ」
「それもう、火あぶりですよね!」
「主君に隠れてこそこそと、とんでもないことをしているからです。あなたのその話を、私はあのラルケス様に報告をしなければならないのですよ。あなたは私の寿命を縮めて、楽しいですか? 私に代わって、ラルケス様へ直接報告をしていただけますか? おそらく剣の試し切り程度では、済まないでしょうが……」
 アーレンは首を振った。
「じゃ、じゃあ、聞かなかったことにする、というのはどうでしょうか?」
「そうですね。不幸にも、あなたはここで転んで死んでいた、と報告をしましょうか」
 シャルは手にしていた短剣を、アーレンに向かって投げる真似をした。アーレンは震え上がり、すぐに謝罪をする。
「申し訳ありません! 嘘です!」
 シャルは深く溜息をついた。
「なんという、厄介なことをしてくれたのです。まだ正式に婚約発表が済んでいない状況だというのに……。これでもしもラルケス様とニーナ様の関係が悪くなったら、あなたたちのせいですよ。あなた方は、エルーテ様を不幸にしたいんですか」
「そんなつもりは……」
 シャルは背を向けると、歩き始めた。ラルケスへどう説明をすればいいのか、憂鬱になりながら。


 シャルがラルケスへ報告をするために執務室の前に到着すると、中にエルーテがいる気配を感じた。同時に声が聞こえてくる。
「夕食にどうですか、と誘われたんです。だから『わかりました。ご招待にあずかります』と、答えました」
「断りなさい。今すぐ」
「え! どうしてですか?」
「あなたが断れない、というのならば、私が断ります」
「そんな失礼なこと、しないでください! ラルケス様、どうしたんですか! いつものラルケス様らしく、ありませんよ!」
 シャルは部屋に入るのをやめた。おそらく、ラインハルデ国の商人がエルーテへ接触し、夕食へ招待したのだろう。
(あの商人……、飄々としているくせに、やることが狡賢い。……というか、なぜこのタイミングで……。せめて、私の報告が先であったならば……)
 エルーテとラルケスの言い合いは、まだ続いていた。
「どうして私の許可なく、勝手に決めるのです」
「ラインハルデ国の商人は、ラルケス様の取引相手ではないですか。いずれラルケス様の妻になる身として、きちんとしておこうと……」
「では、せめて私に先に相談をしてください。……まったく、あなたという人は。下心がある人間とそうでない人間の区別ぐらい、つくようになってください。危なっかしいというか、そんなことだから私はあなたから目が離せないんですよ!」
「わ、私を五歳の子供のように、言わないでください。そんなに危なっかしくありません!」
「五歳の子供のほうが、もっと利口で賢いですよ。少なくとも私のときは、そうでした」
「……っ! ラルケス様の、バカッ! 私、先に夕食に行きますからね!」
 そこで、部屋の扉が開いた。中から出てきたのはエルーテだ。シャルは目礼をする。エルーテも目礼すると、すぐに走って行った。
(エルーテ様はラルケス様のためを思い、夕食の招待を受けた。ラルケス様は彼らの狙いがエルーテ様ご自身だと知っているため、お怒りになった)
 シャルは少し間を置いて、扉をノックした。中へ入るのだが、そこには予想通り、苛々しているラルケスの姿がある。彼は執務机の前に座しているが、今にも誰か殺しそうな気配だ。
(……、これは一度引き返したほうがいいですね)
 シャルは部屋へ入ることを、素直に諦めた。スッ、と音もなく扉を閉めようとする。
「どこへ行くんです、シャル。なにか報告があるのでしょう」
「……お忙しそうだったので、また後程、報告をしようかと思ったのですが……」
「あまりいい報告ではないのでしょう。あなたのその表情と態度を見ていたら、わかります。すぐに報告をしてください」
 シャルは躊躇ったものの、アーレンからきいたことをラルケスに伝えた。ラルケスは全ての話を聞いた後、静かに頷く。
「――とのことです」
「……そうですか。アーレンが……。彼は主君である私に背いたので、騎士の任を解きましょうか」
「……それは、……、カワイソウな気がします」
 一応フォローはしたが、完全に棒読みになってしまった。
「可哀想なのは私のほうでしょう。私に忠誠を誓っているはずの騎士が、こんな不始末をしでかしたのですから。しかも、私にとって不利益になる行為ですよ。……私の騎士が、こんなにも忠誠心が低いとは思いませんでした。もっと人選はきちんとして、教育の他に洗脳をするべきでしょうか」
「まぁ……、洗脳はお勧めしますね。私の心の平穏のためにも。陰たちは全員、ラルケス様のためならば命を惜しみませんが、他の者たちはラルケス様に対して、少々甘く考えているところがありますから」
 陰たちとは、ラルケスの裏の仕事を一手に引き受ける者たちのことだ。彼らの殆どはラルケスによって助けられた者であり、とても忠誠心が厚い。
「仕方がないでしょう。良い領主、というものを演じるのは、簡単ではないのですから」
「そうですね。……では、私は報告を終えましたので、下がらせていただきます」
 シャルはさっさと部屋を退室しようとした。長居をすれば、余計な話に巻き込まれそうだからだ。先ほどエルーテとなにか揉めていたことから、決していい話ではないはず。
「待ちなさい」
「……はい。いかがなされましたか?」
「どうやら今日、エルーテが山菜を採りに城の外へ行った際、商人がエルーテを夕食に招待したい、と接触をしたようで」
「なんと……。では、ラルケス様へ手紙を届ける前に、既にエルーテ様と話をしていた、ということですか?」
「そうです。どうにも抜け目のない、嫌な連中です。……この手紙を、商人に届けてください」
 ラルケスが差し出した手紙を、シャルは受け取った。
「……夕食をお断りするための、手紙ですか?」
「いえ、夕食へエルーテとともに参加をする、という主旨の手紙です」
「ラルケス様もご一緒に行かれるのですか?」
 招待をされたのは、エルーテだけの筈だ。
「えぇ。彼女の望みを叶え、私の望みも叶える。まさに一石二鳥でしょう? 今はこの私が、エルーテの保護者みたいなものですからね。ついでに、ご子息に剣の手合わせをお願いしようかと思いまして」
「……あぁ、それがよろしいですね」
 ラルケスが愉しそうに笑っていた。こういうときの主人は、刺激をしないに限る。シャルは静かに頷いた。


 数日後。
 ラルケスとエルーテは、アリシャスタの港に停泊している貿易船へ訪れた。ラインハルデ国の商人が所有している船だ。その船にある一室にて、食事をすることになった。シャルは従者として付き添い、ラルケスとエルーテの後ろで静かに控える。
(見事な船だ)
 船室には異国の珍しい調度品が置かれており、それらがいずれも貴重で高価なものだというのはすぐにわかった。ラルケスたちはテーブルの前に向かい合うように座っており、商人が用意した豪勢な食事を楽しんでいる。
(これほど似ていない親子も珍しい……)
 商人と、商人の息子が並んで座っていた。本当に親子かと目を疑うほどに、息子のほうはとても美形だ。おそらく、母親の血をとても濃く受け継いでいるのだろう。
(……それはそうと)
 エルーテの今日の容姿は、恐ろしいほど地味だった。一応ドレスを着て、装飾品を髪や肌につけているが、決して美人には見えない。
(ラルケス様がハンナたちに、エルーテ様が絶対に美しく見えない姿にしろ、と命じていましたが……)
 そのせいか、商人の息子も興味がなさそうだった。
(流石は、ハンナたちですね。これは後で、ラルケス様が特別な褒美を出すでしょう)
 父親に視線で合図をされた息子は、億劫そうにした。そしていかにも社交辞令といった風に、エルーテへ話しかける。
「そのドレス姿、とてもよくお似合いですね」
 エルーテは柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。こういう服は着慣れていないので、少し恥ずかしいのですが」
 やや目線を伏せて、照れた。
「着慣れていない? 確かエルーテ様は、フィルラングの領主様のご息女ですよね?」
「はい。でも昔から大人しくしているよりも、駆け回ったり、兄のイザールと探検ごっこをするのが大好きだったんです。そのときの影響か、今もドレスより動きやすい服装が好きで」
「それはつまり、今でも探検ごっこをするのがお好き、ということですか?」
 冗談っぽい問いかけに、エルーテはあどけない表情を浮かべた。
「ふふ。はい、勿論です。今も近所の子供たちと一緒に、探検ごっこをしていますよ」
 エルーテは気さくで、相手に警戒心を抱かせない。優しい口調と明るい笑顔で、いつの間にか視線が外せなくなる。
(あ……、これはダメだ)
 気づけば、商人の息子は完全にエルーテに夢中になっていた。シャルは数秒俯いて、青ざめて震える。
(……あの商人の息子、事前調査では女慣れしていて、しかも美女好きとのことだった。エルーテ様のような女性は、本来なら興味の対象ではない。それなのに、なんということだ。あまりにも陥落するのが早すぎではないのか……)
 息子はエルーテを余程気に入ったのか、ずっとエルーテと会話をしていた。メロメロになっており、先ほどから鼻の下が伸びっぱなしだ。エルーテの隣りにいるラルケスは笑顔で彼の父親と会話をしているが、内心穏やかではないだろう。
(せっかくエルーテ様を、いつもより数倍地味に見えるお姿にしたというのに。……やはりエルーテ様の魅力は、外見を少々変えたぐらいでは、隠せないのか……)
 遠い目をした。胃が痛むが、空腹のせいだろうと思い込む。
「そういえば、エルーテ様とラルケス様はご一緒に暮らしているとのことですが、どういう関係なのですか?」
 商人の息子が問いかけた。
「実はラルケス様と私の兄イザールが、親友関係にあるんです。私は兄の紹介で、現在ラルケス様のお城で行儀見習いを兼ねて暮らしています。あと、これは近々発表する予定なのですが、私とラルケス様は、現在婚約関係にあるんです」
 商人とその息子は知っていたらしく、驚いた素振りを見せなかった。息子はエルーテの手を取ると、両手でしっかり握る。
「もしも私がイザール様に剣で勝ったら、私の妻になる道を考えていただけませんか?」
「え?」
 ラルケスが見たこともないような、変な顔をしていた。表面上はどうにか取り繕っているように見えるが、シャルにははっきりとわかる。
(あのラルケス様のお顔……、画家に描かせて一生保存したい)
 エルーテはすぐに商人の息子から手を引き抜くと、首を振った。
「申し訳ありませんが、それはできません。私が心から愛するお方は、ラルケス様だけですから……」
 はっきりと言って断った。だが息子のほうは諦めきれないようだ。ラルケスはほっとしたのか、先ほどの変な顔から、元の顔に戻っている。
「私はエルーテを、イザールから任されています。もしもエルーテに求婚がしたいというのであれば、まずは私との剣の勝負に勝ってからにしていただけますか」
 息子は微笑んだ。
「わかりました。あなたに正々堂々と勝って、彼女のお兄様に勝負を挑みます。その後は、彼女へ求愛をします」
 相当、剣の腕前に自信があるようだ。エルーテは動揺するあまり、シャルへ視線を向ける。シャルはすぐに安心させるために、エルーテへ頷いた。


 ――三十分後。
 甲板の上で、ラルケスと商人の息子による剣の勝負が行われた。剣は木剣が使われ、実際に切ることはできない。
 その筈なのだが。
「よくその剣の腕前で、イザールに挑もうとしましたね。イザールはこの私より、百倍は強いですよ」
 商人の息子が着用している服は、剣で切り刻まれたようにボロボロになっていた。傷こそないが、ほぼ下着一枚で見るも無残な姿だ。
(ラルケス様……、なんと大人げないのだろう……。というか、ただの木剣で服を切るとは……。あの方は本当に、人間だろうか? あ、いや……、ラルケス様は人間ではなく、悪魔でしたね)
 信じられないような状況を目の当たりにすると、人は平常心を失うようだった。シャルはラルケスは人ではなく、悪魔だったのだと思うことで冷静さを保とうとする。
 商人を見れば、自身の息子が負けたことよりも、エルーテに対して未練がましい表情を向けていた。余程、息子の嫁に欲しかったようだ。その息子はというと、非常に怯えており、蒼白になっていた。エルーテはどこからか毛布を持ってくると、商人の息子へ手渡す。
「ごめんなさい。私の婚約者が、手加減知らずで……」
「い、いえ……、私が身の程知らずだったのです……」
「ラルケス様は、普段はとてもお優しいんです。でも私のことになると、ちょっと正気を失うときがあって……」
 ラルケスは眉を寄せた。
「人聞きの悪い……。エルーテ。私はいつでも、正気ですよ」
 シャルは商人の息子を見て、怪訝そうにした。正気な人間は、木剣で相手が素っ裸になるまで、切り刻んだりはしない、と。エルーテも両手を腰に当てて、むっとしている。
「ラルケス様。これは明らかに、やりすぎです」
「私の婚約者に手を出すからです」
「せっかく今夜、お食事に招待をしてくださったのに……。ラルケス様なら、もうちょっと上手に手を抜くとかできたでしょうに」
「手を抜くだなんて、とんでもない。そんなことをすれば、相手に恥をかかせることになります」
 エルーテが叱ったせいで、ラルケスは臍を曲げていた。エルーテは商人の親子へ深く謝罪をする。悲しそうにしていた父親のほうは、エルーテが話しかけることで機嫌を取り戻した。息子のほうは使用人に付き添われ、船内へ入って行く。毛布一枚で海風にずっと当たっていては、体を冷やすからだ。その後、ラルケスとエルーテは帰ることになった。シャルは黙って二人に付き従う。
(ラルケス様の機嫌の悪さが、ひしひしと伝わってくる……)
 このままでは大喧嘩に発展するのでは、と心配になった。
(それはそうと、木剣で服を切り刻んだラルケス様に、エルーテ様はあまり驚いていないようだったな……。まさか、イザール様も同じことができるのでは……?)
 ちらっと思ったが、それ以上は考えるのをやめた。


 帰りの馬車の中。
(なぜ私がここに……)
 シャルは、ラルケスとエルーテと同じ馬車の中にいた。二人から、同席してほしいと頼まれたからだ。ラルケスはエルーテを見ようとせず、会話もしない。エルーテも先ほどからずっと沈黙しており、とても空気が重い。
(今すぐ馬車の扉を開けて、ここから飛び降りたい……)
 無表情のまま、馬車の扉をじっと見つめた。今すぐ外へ出れば、楽になれる、と。
 しかしながらここで。
「ラルケス様」
 エルーテがラルケスの手を、両手で包み込んだ。
「……なんです。今更機嫌を取ろうとしても、無駄ですよ。私はあなたを、少々甘やかしすぎたと反省しているところなので」
 冷たい声だった。だがエルーテは笑顔を浮かべており、ラルケスの顔を覗き込む。
「大好きですよ。私が愛しているお方は、ラルケス様だけです」
「……その割に、あの男とばかり、喋っていましたね」
「ラルケス様の大切な取り引き相手の、ご子息です。丁寧な対応をするのは、当然です」
「本当かどうか」
 エルーテは身を乗り出すと、彼の頭をよしよしと撫でた。
「寂しくて、不貞腐れたんですね。ごめんなさい。ラルケス様を寂しい気持ちにさせてしまって。どうか許してください。大好きですよ、ラルケス様」
「……あなたはこの私を、一体なんだと思っているんですか」
「私の大事な大事な婚約者様です。ラルケス様こそ、どうして言ってくれなかったんですか? 私が婚約者、と」
「正式に、まだ発表をしていないので……。きちんと筋を通してから、と考えているだけです」
「そんなこと、こだわらなくていいのに」
「あなたは、私にとってなによりも大切な女性なんです。いい加減に扱いたくありません」
 エルーテは微笑んだ。
「普段ラルケス様が私の怒った顔を好き、と言ってくれますが、その気持ちがわかりました。私もラルケス様の拗ねた顔が、大好きです。とても、可愛らしいです」
 ラルケスはなにも答えなかった。エルーテはきちんと座席に戻り、にこにこする。
(……エルーテ様、なんと恐ろしいお方だ……)
 シャルはこれまで、幾つもの命の危機に瀕する状況に見舞われてきた。だが、先ほど見た光景は、これまでで最も恐怖を感じたのだ。
(冷酷無慈悲であるラルケス様の頭を、まるで幼子の相手をするかのように、よしよしと……。しかも、ラルケス様を可愛いと仰るとは……。……可愛いとは、いったいどういう意味だっただろうか? 私が知っている意味と、大分かけ離れている気がする……)
 ラルケスがほんの一瞬、視線を向けてきた。今見た光景は忘れろ、という合図だ。シャルは目礼し、心得ていますと頷く。それとともに再び馬車の扉だけを、見つめた。
(……どうして私は、同じ空間にいるのだろう……。この馬車から飛び降りたい。いや、飛び降りるべきなのでは……?)
 今己にできるのは、ひたすら自分を空気だと言い聞かせることだけ。シャルは、早く城に着いてほしいと願った。


 翌日、シャルは『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』をどうするか、真剣に悩んでいた。ニーナが認めたとなれば、更に入会する者が大幅に増えることが予想できたからだ。執務室でラルケスの補佐を行いながら、憂鬱になる。
「……よく考えてみると、あの愛好会はまるで、宗教のようですね」
 エルーテを女神と崇める、信者たちの図を想像した。正直なところ、たまにシャルもエルーテが女神に見えることがある。
(普段、従者使いが荒い主人の元にいるせいですね……)
 ラルケスはふと、筆記する手を止めた。
「……、陰たちに入会させましょう。その怪しげな宗教団体に」
「え?」
 ラルケスは真顔だった。どうやらシャルの呟きを聞いていたらしい。
「ニーナが関わっている以上、簡単に潰せなくなりました。なら、内部にこちらの手の者を忍び込ませて、動向を探らせましょう。このまま放置しておくわけにも、いかないですし」
「陰に、ですか? 確かに……、隠密活動や諜報活動を得意としていますが」
「陰たちも『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』に、普段から所属しているようなものでしょう。エルーテに知られないよう、こっそり見守っているんですから」
「命を懸けて護衛任務にあたっている陰たちを、『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』と一緒にしては、陰たちに失礼ですよ」
 ラルケスは同意した。
「そうですね。失言でした」
「内部から動向を探らせて、どうなさるおつもりですか?」
「そうですね。弱みを握って、いずれは解散へ追い込む算段へ運びましょうか。いつまでもそんなくだらない会が存在していては、私が不快ですし。そもそも『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』という名前も、気に入りません。なんてセンスのない……」
「それには私も同意します。でも、なにを目的とした会なのかは、わかりやすいですよね」
 会話をしていると、慌ただしい足音が聞こえてきた。その足音からすぐに、エルーテと察する。ラルケスの反応は素早く、すぐになにかあったと気づいたようだ。足音は部屋の前でぴたりと停止し、次にノックの音が響く。
「ラルケス様っ、失礼します」
 部屋へ飛び込んできたのは、やはりエルーテだった。彼女は非常に焦った顔をしている。
「どうしましたか」
 普段通りにラルケスが問いかけると、エルーテはすぐに答えた。
「ラルケス様、あの、相談したいことがあるのですが、今いいでしょうか」
「えぇ」
「『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』って、知っていますか?」
 ラルケスは、たった今初めてきいたかのような反応を見せた。
「……なんです、その……、奇妙な会は」
 堂々と嘘をついた。だがシャルもラルケス同様に、やや驚いたように目を見開く。こういった演技はよくする機会があるので、お手の物だ。
(愛好会については、現在我々も調査中だ。正直よくわかっていない。そんな状態で、エルーテ様に安易に情報を与え、不安がらせないほうがいい。ラルケス様はそう判断をされたのだろう)
 エルーテは震えており、今にも泣きだしそうになっていた。
「さ、さっき、お城の兵士さんたちに尋ねられたんです。『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』というものに入るには、どうすればいいか、って」
 兵士さんたち、と言ったことから、複数から尋ねられたのだとわかった。
「エルーテ様をひたすら見守る……? なんの冗談です?」
「私も最初は、冗談だと思ったんです。でもどうやら本気みたいで……。私、なんのことだかわからなかったので、その方たちに質問をしたんです。そうしたら、私の姉、ニーナ姉様が公認をしている会みたいで……」
「ニーナが?」
「はい。どんな活動をしているのか質問をしたら、私を遠くからひたすら見つめる会、って説明をされて……。ラルケス様、私、どうすればいいでしょうか。いつの間にそんなおかしな会ができていたのか、ちっともわからなくて……」
 ラルケスは席を立ちあがると、エルーテの肩に手を置いた。
「まずは、呼吸を整えて落ち着きなさい。私がその会の者から、直接話を聞いてきますから」
「ご、ごめんなさい、ラルケス様。私のせいで、妙なことになっていて……。ラルケス様にご迷惑をおかけするつもりはなかったのですが、私一人では、どうしていいかわからなくて……」
 エルーテは興奮するあまり、目から涙が零れ落ちた。ラルケスは困惑する。
「エルーテ……?」
「少し前から、視線は感じていたんです。男の人たちに、見られているっていう自覚もあって……。でも、話しかけられるわけでもないし、目があっても微笑まれるだけで……。アルディにきいたら、放っておけ、って言われて……。私、鈍いから、深く考えなかったんです」
 シャルは同情した。ある日突然、自分の存在をひたすら見守る愛好会なるものがあると知れば、ショックは大きいだろう。しかも活動内容も、意味不明で不気味だ。遠くからひたすら見つめられるなど、普通の女性ならば恐怖を感じて嫌悪感を示して当然だ。
(ずっと見られていることを、知っていたとは……)
 理由もなく見られ続けるなど、たまったものではないだろう。エルーテの性格を考えるならば、嫌だとも言えなかったはずだ。
「怖かったでしょうに。エルーテ、よくこの私を頼って相談してくれましたね。大丈夫ですよ。そんなおかしな会は、即座に解散させますから。私があなたを守ります」
 ラルケスはキラキラとした笑顔を浮かべた。とても嬉しそうであり、表情を隠そうともしない。この様子に、シャルは無理もない、と思う。
(『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』を正面から叩き潰す免罪符を手に入れたも、同然だからな)
 エルーテは両手を口元に当てた。
「なぜ、そんな会にニーナ姉様が関わっているのか、わからないんです……」
「きっと、なにかの間違いですよ。あなたの姉が、そんな不愉快でおかしな会に関与しているだなんて、絶対に有り得ません」
 エルーテはそれを聞いて、少し落ち着いた。
「そ、そうですよね。ニーナ姉様がそんなことをするわけ、ないですよね」
「えぇ、その通りですよ」
 シャルはここで、ラルケスが次に取る選択がわかってしまった。ニーナへ愛好会の会長をしているという事実を、秘密にしておく、と言うつもりなのだ。つまりは彼女に貸しにしておく、ということだ。
(ラルケス様ご自身は、ニーナ様をゆするつもりも脅すつもりもないだろう。だが秘密を握っているというだけで、ニーナ様への大きな抑止力になる)
 ニーナも最愛の妹から、嫌われたくはないだろう。
 その後ラルケスはハンナを呼ぶと、エルーテを部屋まで送るように頼んだ。そして落ち着くまでそばにいてあげて欲しい、と言ったのだ。エルーテは部屋を出る間際、目を潤ませながら何度も謝っていた。ラルケス様にご迷惑をかけてごめんなさい、と。ラルケスはエルーテを見送った後、すぐに苦悩に満ちた表情を浮かべる。
「あぁ、エルーテ……、可哀想に。とても怖かったでしょうに……。すぐに、彼女の憂いを取り除かないといけませんね」
 嬉々として言うラルケス。
「なぜ、ニーナ様は、そんなおかしな会に関わろうとしたのでしょうか。しかも、公に認めるなど……」
「知りませんよ。どうせ、私への嫌がらせでしょう」
「これまで、ニーナ様はエルーテ様をずっと男たちから守って来たのですよね? そんな会を公認するようには、思えませんが……」
 ラルケスはそこでふと、なにかに思い至ったようだった。執務机の引き出しから、半分に引き裂かれた手紙を取り出す。そして、もう一通別の手紙を取り出した。それは以前、ニーナがラルケスへ送ってきた苦情の手紙だ。遠まわしに、エルーテを諦めてほしい、と書かれている。ラルケスは二つの手紙を見比べた。
「……、ラスの涎のせいで文字が滲んでいて気づきませんでしたが、よく見るとニーナの筆跡とは違いますね。印章は割れているのではっきりと断言できませんが、偽造かもしれません」
「偽造?」
「えぇ。かなり精巧にできていますが。これが偽物だとすれば、手紙を燃やした意味が違ってきます」
 もう半分の手紙が燃やされていたことを、思い出した。当初は、ニーナとのやり取りを隠したいがために、燃やしたのだと思った。だがよく考えれば、それはおかしい。ニーナから会を公認するという内容であるならば、隠すことなくそれを証拠として提示すればいいからだ。だがアーレンは手紙を燃やした。つまりそれは、見られてはまずいことがあったからだ。
「シャル。アーレンの元へ行きますよ」
 ラルケスはシャルを伴って、部屋を出た。


 再び、アーレンを人気のない裏庭へ呼び出した。彼は、ラルケスとシャルの姿に、ビクビクと怯えている。
「アーレン。一体どういうことか、説明をしてもらいましょうか。ニーナから受け取ったと偽った、あの手紙について」
 ラルケスが質問をすると、アーレンは泡を吹いて気絶しそうなほど、真っ青になった。
「そ、それは……」
「印章の偽造は、重罪ですよ。手紙の偽造も。わかっていますね?」
 その問いに対し、アーレンは俯いた。
「し、……仕方がないじゃないですか。これしかもう、方法がなかったんです」
「……どういう意味です」
「エルーテ様に恋をした者は、例外なく遠方に飛ばされます。ならば遠くから眺めるだけにしようとしても、アルディに邪魔をされたり、ハンナたちに邪魔をされたりします。たまにうまく成功して遠くから見ていたら、今度は通行人に不審者扱いされたり……。覗き魔だとか、変質者って、言われるんですよ」
「事実、そのとおりでしょう。それのどこに、否定できる要素があるんです」
 シャルはエルーテの身になって、更に同情した。一人のか弱い少女を、遠くから男たちが延々と見続けているのだ。その状況を頭に描くが、かなりのホラーだった。
(エルーテ様、なんとおいたわしい……)
 アーレンは目を潤ませた。
「我々は、エルーテ様になにもしません。遠くからそっと、見守りたいだけです。ただそれだけなのに、もしもラルケス様が知れば、解散させるでしょう。あの会は、我々の唯一の心の拠り所なのに。だから、我々は会を守るために、こうするしかなかったんです」
「つまり、公認さえしてもらえれば、堂々とエルーテを見られる、と考えたというわけですか?」
 ラルケスが憤怒の表情を浮かべた。アーレンは腰を抜かし、地面に尻をつく。
「……っ」
「そんなつまらない身勝手な理由のために、エルーテが嫌な思いをしたとは」
「だ、だって、仕方がないじゃないですか。どうしても、彼女をずっと見ていたかったんですっ。ただ見るだけなら、いいじゃないですか!」
 アーレンは逃げようとしたが、陰たちが現れて立ち塞がった。普段ラルケスの護衛をしている者たちであり、同時にシャルが信頼をしている者たちでもある。ラルケスはアーレンの正面に立つ。
「あなたたちの『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』というくだらない会のせいで、エルーテがどれだけ怯えて青ざめていたか、知らないでしょう。彼女は目に涙を浮かべ、相当なショックを受けていました。あなた達は己のしたいことを優先させ、一人の女性を深く傷つけて泣かせたんですよ」
 ラルケスは腰の剣を抜くと、アーレンの喉元へ突きつけた。
「ひ……っ」
「エルーテはあなた方の欲望のはけ口ではありませんし、いいように消費される道具でもありません」
 ラルケスが剣をふるった瞬間、周囲に真紅の血が飛び散った。アーレンの体が、剣によって斬られたからだ。それとともに彼は倒れ、気を失う。その一部始終を、シャルは冷めた目で眺めていた。本来ならば殺されても仕方がないが、そうすれば誰がこの問題に関わっていたのかわからなくなる。ゆえに、彼は生かされたのだ。ただ情報を吐かせるためだけに。
(なんという、愚かなことをしたのだ。よりによって印章や手紙を偽造するとは……。重大な問題に発展するところだ。さすがに、冗談では済まされない)
 シャルは恭しく、ラルケスへ頭を垂れた。
「後の処理は、お任せください。印章の偽造品を作った者についても、ただちに調べあげます」
「お願いします。あと、愛好会は解散させておいてください。手段は問いません。もしも妙な行動をする者がいれば、厳しく罰するように。当然、今回の件に関わった者にも」
「承知しております。当然です」
 シャルはラルケスの剣についた血を布で拭った。ラルケスは鞘に剣を収めるが、その表情は未だ晴れない。
「やはり、騎士の人選はきちんと行い、躾と洗脳をある程度したほうがいいかもしれないですね」
 まるで悪魔を髣髴とさせるような、冷酷な目をしていた。
「そうですね」
「私は先に戻ります。後は頼みましたよ、シャル」
「はい。お任せを」
 シャルは陰たちとともに、すぐにその場の片づけを行った。


 アーレンが陰たちに連れて行かれた後、シャルは愛好会を解散させるため、移動していた。誰が所属しているのか、事前に調べたリストがあるので、まずはその者達の元へ向かう。
 その道中――
 なにやら争うような喧噪が聞こえた。寄り道をしている暇はないが、念のために確認をしに行く。するとそこに、なぜかボロボロになったアルディがいた。どうやら大人の男性三人と、喧嘩をしていたようだ。周りにはなにごとかと集まってきた者たちが、大勢いる。
「エルーテのこと、遠くからずっと眺めて、気持ち悪いことするなよ!」
 アルディが大声で言った。
「ちょっと眺めていただけだろ! それに俺たちは『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』に入っている会員だ。エルーテ様の姉君である、ニーナ様公認のな! だから、エルーテ様をどれだけ見ても、許されているんだよ、俺たちはな!」
「エルーテがどれだけ嫌な思いをしたか、知りもしないで! あいつ今日、凄く強がっていたけれど、真相を知って震えていたんだぞ! それに、少し前から色々な人にただじっと見られ続けることを、気にしてた。それなのに……っ、お前らは毎日毎日、どこへ行くにもエルーテを追い回してっ。エルーテが優しくて文句が言えないのをいいことに、この卑怯者!」
 アルディが大人の男性相手に、殴りかかった。だが大人三人とアルディでは、明らかにアルディの方が不利だ。現にアルディが、一方的に痛めつけられている状況。シャルは見かねて、観衆の脇を通り抜けた。そして、地面に倒れたアルディを蹴ろうとした男の足を、逆に引っ掛けて転がす。他の二人も平手で顔を叩いて吹っ飛ばし、地面に転がした。これにアルディは、茫然とする。
「シャ……、シャル様……」
 周囲の者たちもしん、となっていた。三人の男たちは気絶しており、動かない。これにシャルはしまった、と自身を咎めた。
(弱すぎる……。ちょっと軽く叩いただけなのに……)
 アルディがやられた分、やり返そうとしたのだ。ちょっと反省をさせようと。
「……仕方がないですね。気絶はしていますが……」
 シャルは倒れている男の胸ぐらを掴むと、もっと殴ろうとした。だがアルディが止める。
「シャル様、いくらなんでもそれは、外道すぎます! そういうの、しちゃダメですよ!」
「でも……、これぐらいしないと、あなたの気は済まないでしょう。私も殴り足りない気分ですし……」
「い、いえ! 俺のことはもういいです! 大丈夫ですから……!」
「そうですか?」
 シャルは男から手を放すと、周囲に集まっている者たちを見た。結構な人数が集まっている上に、非常に注目を浴びている。これにシャルは、彼らに話をするのに丁度いい機会だと考えた。
「エルーテ様の姉であるニーナ様に、『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』というものが承認された、とのことですが、デマなので騙されないように。あと、愛好会は本日をもって解散させます」
 そんな、とざわめく声が聞こえた。どうやら見物していた者の中にも、愛好会に所属している者がいるようだ。シャルは言葉を続ける。
「か弱い女性を相手に、不躾に遠くからじっと見つめ続けるだなんて。よくもそんな恥ずべきことが、平気でできますね。エルーテ様は、見世物ではありません。普段我々に気軽に接してくれますが、とても繊細な年頃の、一人の女性なんです。今後もしもエルーテ様を隠れて見る者があれば、厳しい措置をとります」
 シャルは、地面に座っていたアルディに手を貸すと、立ち上がらせた。
「あ、ありがとう、ございます。シャル様……」
「エルーテ様を守ってくださり、ありがとうございます。アルディ、かっこよかったですよ」
 アルディは悔しそうに俯くと、落ち込んだ。
「で、でも、やられてばっかりで、俺全然強くなくて……」
「それは、これからの課題ですね。先ほどのことは、ラルケス様にお伝えしておきます」
 アーレンのような者を騎士に叙任したことを、ラルケスは悔いているだろう。だがアルディのような者もいる。彼は将来、立派な騎士になるだろう。
(まぁ、アルディもエルーテ様を慕っているので、高潔な精神を持っている、とは言い難いですが……)
 だがエルーテを守ろうとしたことは、評価するべきだろう。シャルは、アルディをエルーテのそばに置いたことは正解だった、と思った。


 数日後。
 『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』を無事に解散させ、偽造に関わった者たちも全員捕らえられた。
「嬉しそうですね、ラルケス様……」
 執務室にて、いつものようにラルケスの仕事を手伝っていた。ラルケスは頗る上機嫌であり、軽く笑む。
「えぇ。商人の息子の件も片付きましたし、あのくだらない愛好会も解散させたので。ずっと部屋で落ち込んでいたエルーテも、今日はラスを連れてハンナたちと遊びに出かけています」
 エルーテは今回のことについて、とても胸を痛め、食事も喉を通らないほどに憔悴した。エルーテの落ち込みようは、見ている方が辛くなるほど、とても酷かったのだ。
(この件がエルーテ様の耳に入る前に、解決できればよかったのに……)
 シャルは責任を感じた。ラルケスはエルーテへ簡単に説明をしたのだが、昨年の祭りの前から愛好会があったと知って、ぞっとしていたのだ。そんなにも前から誰かに見られ続けていたなど、信じられない思いだっただろう。救いだったのは、この件にニーナは関わっていない、ということだ。それがわかると、エルーテはほっとしていた。
(ニーナ様が関わっていなくて、本当に良かった。もしも関わっていれば、ラルケス様とニーナ様の関係が、今以上に悪化するところだった)
 エルーテはラルケスに、どうしてこのような会ができたのか、という質問をした。彼は、エルーテを応援している一部の行き過ぎた者たちによる行為だった、と告げたのだ。勿論これは、かなり曖昧にぼかした表現だ。中には純粋に、応援しようと愛好会に入った者もいるだろう。だが大半は、エルーテを性の対象として見ていた者たちだ。もしもエルーテがこの事実を知れば、再び寝込みかねない。そう考え、ラルケスは真実を話さなかったのだ。
「元気になられて、良かったです」
「えぇ、本当に。……まぁ、私としてはもう少し、部屋にいてもらいたかったんですが」
「なぜですか?」
「また、変な男に狙われるかもしれないからです。彼女はちょっと、大人しくしているぐらいがいいんです。私の心の安寧のためにも」
 とは言いつつも、エルーテが元気になったことを一番喜んでいるのは、ラルケスだ。エルーテが食事をしないときは、彼も食事をしなかった。それほどまでに彼女が心配で、不安になっていたのだ。
「エルーテ様は、幸せ者ですね。ラルケス様に、こんなにも愛されて」
 エルーテが元気になったことで、ラルケスもいつもの調子に戻っていた。彼は休憩の時間に、コレクションの一つである白磁の皿を布で磨く。
(ラルケス様はエルーテ様と一緒に過ごすようになってから、穏やかな表情をするようになった。これは、いい変化なのでしょうね)
 と、ここで執務室の扉がノックされた。シャルは部屋の扉を開いてすぐに応じるのだが、そこにいたのは家令だった。家令はラルケスへ、用件を伝える。
「ラルケス様。お手紙が届きました。ニーナ様からです」
「ニーナから?」
 ラルケスはトレーに手紙を載せられた手紙を受け取った。家令は部屋を出ていき、ラルケスはすぐに手紙を確認する。
「これは……」
 ラルケスの表情が険しくなった。シャルは主が読み終わった後に、手紙を読ませてもらう。
〝先日、ラルケス様の騎士をされているアーレンという方から、奇妙な手紙をいただきました。『エルーテ様をひたすら見守る愛好会』というものを、公で活動できるように承認してほしい、という恐ろしい内容でした。丁重にお断りさせていただいたのですが、一体これはどういうことですか? 私の可愛い妹のエルーテを、ひたすら見守る愛好会だなんて……。あまりの気味悪さに、総毛立ちました。あなたは本当に、私の大切なエルーテをきちんと守ってくれているのですか? とてもではないですが、信じられません。エルーテに苦労をかけて、泣かせているのではないのですか? もしもそうなら、今すぐエルーテを返してください。あと、今回の件を既に嫁いだ姉たちに相談をしました。その結果、『ウィストリアム公爵絶対に許さない被害者の会』を作ることになりました〟
 シャルは手紙を読んで、笑ってしまった。いけないと思いつつも、笑いを堪えることができなかったのだ。ラルケスは恨めしそうに、シャルを見る。
「随分と楽しそうですね。私は全く、楽しくありませんが……」
 項垂れるラルケス。シャルは主を憐れんだ。どうやらアーレンは印璽や手紙の偽造を行う前に、ニーナ本人へ手紙を送っていたようだ。彼女はすぐに断ったようだが。おそらくこのときの手紙を元にして、印璽を偽造し、文字を真似たのだろう。

「ニーナ様は、エルーテ様の夫となる男性について、とても理想が高いのですね。ラルケス様以上となれば、最早超人しかいないのでは、と思います」
「……今回のことは、私の責任です。アーレンを騎士に選んだことも、臣下たちを統率できていないことも、エルーテを危険にさらしていたことも。ニーナから毛嫌いされて恨まれても、仕方がないでしょう」
 シャルは首を振った。
「ラルケス様のせいではありません。全てを背負おうと、しないでください。それに私は、ラルケス様がいかに聡明で素晴らしい方か、よく存じています。……ニーナ様にラルケス様の良さが少しでも伝わるよう、私も尽力いたします」
「そうでなければ、困ります」
 シャルには家族がいない。ゆえに、ラルケスのことを家族のように、大切に思っている。ラルケスへ愛を教えたのはエルーテだが、シャルへ愛情を与えたのはラルケスだ。たとえ本人にそのつもりはなくとも。ゆえに、シャルは彼にとても感謝をしている。
「……それはそうと、『ウィストリアム公爵絶対に許さない被害者の会』とは、随分とインパクトのある名前ですね。ラルケス様は現在、フィルラングの領民たちからエルーテ様を奪い去った悪魔として噂されているようです。このことから、『ウィストリアム公爵絶対に許さない被害者の会』に入る者たちが多そうですね」
 ここで、バリンッという奇妙な音が響いた。音のした方へ視線を向ければ、ラルケスが磨いていた皿を真っ二つに割っていた。
「全く……。この程度のつまらない嫌がらせ、私は痛くも痒くもありませんよ」
「こんなことがエルーテ様に知られたら、またエルーテ様が寝込みそうですね」
「そうなる前に、どうにかします」
 シャルは割れた皿を片付けつつ、不機嫌そうに拗ねた顔をしているラルケスを見た。
(……なるほど、私もエルーテ様のお気持ちが、少しわかった気がします)
 商人たちとの夕食後、馬車に乗って城まで帰ったのだ。その際、エルーテはラルケスに向かって可愛いと言っていた。
「我が主は、可愛らしいお方ですね」
 予想外すぎる言葉だったのか、ラルケスが変な顔をした。シャルは満足そうにする。
「急になんです……、気持ちの悪い……。熱でもあるんですか?」
「いえ、私はいたって正常です」
「……念のために、後で医者に診てもらってください。あなたが具合を悪くして倒れたら、私が困るので」
「わかりました」
 シャルは小さく頷いた。
 未だ暫くは、平穏な日常とはいきそうになかった。

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