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目隠し
――夢だ。これは夢だ。だから忘れろ。お前は悪い夢を見ていただけなんだ。
唐突に誰かの声が頭の中で響き、リオノーラ・フレイドルは勢いよく寝台から起き上がった。自分でも知らず知らずの内に呼吸が乱れ、まるで水をかぶったかのように全身に冷や汗をかいている。
「また、あの夢……」
リオノーラは、もう何度繰り返し見たかわからない夢に溜息をついた。夢の詳細についてはいつも覚えていないのだが、誰かに夢だと幾度も言われて目を覚ますことだけわかっていた。いつもとても悪い夢を見いた気がするのだが、誰かのその声を思い出すと、夢の内容を忘れてしまうのだ。
リオノーラは天蓋から吊るされている深緑色の分厚い布を開くと、寝台から下りて見慣れた自分の部屋を見回した。窓の外は快晴であり、丁寧に磨かれた木の床に光が反射していた。ユリのレリーフが施されたウォルナットのテーブルの上には、昨晩用意した宝石箱がある。
「あぁ、そうだ……。今日は」
婚約者であるルパートとの挙式をどのようにするか、グレンヴァース家へ行って相談をする日だということを思い出した。少しばかり陰鬱な気持ちになったが、ぼんやりとしている暇はなかった。今日はいつもよりも少し早くに目が覚めてしまったが、もうじき侍女達がやってきて身支度をすることになる。リオノーラはテーブルの前へ立つと、宝石箱を手にした。宝石箱は黒檀(こくたん)で作られており、表面に鼈甲(べっこう)と金メッキで草花の象嵌(ぞうがん)が施されている。だが、左側に傷がついていた。壮麗な箱には似合わぬ、不格好な傷。リオノーラはその傷を懐かしい思いで愛しげに撫でてから、箱を開いた。そうして中から装飾品を取り出すと、テーブルの上へ並べた。
リオノーラの生家であるフレイドル家は、古くより続く由緒正しい伯爵家である。臣従を誓ってくれている家は十を超えており、評判もいい。肥沃に富んだ土地のおかげで毎年豊かな実りであり、高級食器や船の材料となる希少な錫(すず)が採れることから財力もある。
そんなフレイドル家に爵位の第一位である公爵家との縁談話が持ち上がったのは、今から凡そ十一年前のこと。
リオノーラは両親と黒い大型の馬車に乗りながら、物憂げな表情で外の景色を眺めた。
これから向かう先はグレンヴァース公爵領にあるドゥヌカ城と呼ばれる場所。
今日のために、リオノーラはこれ以上ない程に着飾っていた。プラチナブロンドの髪は編み込んで一つにまとめ上げており、そこへエメラルドがはめ込まれた銀細工の髪飾りをつけている。髪をおろさないのは、金髪の両親と異なる髪色をコンプレックスに思っているからである。伏し目がちな瞳は紫であり、まるで蘭(オーキッド)を思わせた。生来のおとなしい気性も相まって一見して地味な印象だが、透明感のある色白の肌やくっきりとした二重、更には艶やかなチェリーブロッサム色の口元が少女の可憐さと清純さを強調している。そして今日のために仕立てられた青いドレスにはところどころ網目状のレースが縫い付けられており、その上に小花が細かに刺繍されていた。大きく開いた首元には貝(シェル)を用いて作られた花のネックレスがあり、フレアスリーブの袖からは金細工の腕輪がのぞいている。
「リオノーラ。疲れていないかい? もうそろそろ到着するからね」
向かいの席に座っているリオノーラの父親であるアーマンドがそう言った。まだ春先で肌寒いことから、やや厚いこげ茶色の上着を羽織っており、襟元には立派な白いスカーフを巻いていた。仕事には厳しい父ではあるが、妻や娘に気遣いを忘れない家庭的な人物である。
「挙式が楽しみねぇ」
どこか幼さの抜けない母のカーラは、袖の部分に大きなプリーツのついた緑色のドレスを着用していた。カーラのドレスも今日のために仕立てたものであり、腰には金で作られたベルトを巻いている。
両親はどちらも金髪であり、青い目を持っていた。憂鬱な気分のリオノーラと違って両親はとても上機嫌そうであり、一週間ほど前からずっと浮かれているのだ。
リオノーラはもやもやした気持ちを抱えたまま、外の景色を眺めた。窓の外は平原が続いているのだが、その中にいくつものニオイスミレが咲いていた。リオノーラは思わず釘付けになり、父のアーマンドもほぅ、と感嘆の息を漏らす。
「さすが、スミレの街と呼ばれているローンブルクだな。日暮前に到着して良かった」
紫色の五枚の花びらをつけたニオイスミレが、至るところに咲いていた。リオノーラは、生まれて初めてローンブルクに訪れたときも、ニオイスミレの咲く頃だったと思い出す。そうして暫く馬車が街道を進むと、大きな石造りの壁が見えた。その向こう側には赤い瓦屋根がたくさんあり、石積みの塔もある。川に架けられた橋を渡って開かれた扉の奥へ入れば、そこはもうローンブルクの街中だった。ローンブルクは防御壁に囲まれた城塞都市であり、夜は防御壁の扉が閉ざされるのだ。地面は石畳で覆われており、赤い瓦屋根が印象的な木組みの家々が並んでいる。流通も盛んなことから道を往来する人も多く、賑やかな印象を受けた。だが暫く大通りを道なりに進むと、街を抜けて平原をまっすぐに往くこととなった。その先にあるのは薄茶色の壁を持つ煉瓦造りの城と、巨大な城壁。ローンブルクにあるドゥヌカ城は二重の堅牢な城壁に囲まれた城として有名だった。城壁の奥には広大な原生林が広がっており、一般人の立ち入りは一切禁じられている。
「あんなに大きかったかしら」
リオノーラは幼い頃の記憶と照らし合わせたが、城壁の奥にある城がとても大きく見えた。幾つもの円塔があり、青い屋根に小窓がついている。リオノーラがそんな荘厳な城へ見惚れていると、馬車が城壁の門前へ到着した。御者が門前に立っている衛兵へ話をすると、すぐに巨大な鉄扉が鎖の音とともに開かれる。そのまま再び馬車が動き出すのだが、突然飛び込んできた光にリオノーラの目が僅かに眩んだ。恐ろしい程に澄み切った湖面に反射された光が、リオノーラの顔を照らしたのだ。そしてその湖のすぐ傍に、湖へ突き出した岩山の上へ佇むドゥヌカ城があった。左右に設けられた春の花々が咲き乱れる花壇を過ぎると、城の正面へ到着する。出迎えたのはドゥヌカ城の主であるフレッド・グレンヴァース公爵と、城に仕える従者や騎士達。
「久しぶりだな。フレイドル伯爵」
そう言って温かな笑みを浮かべたグレンヴァース公爵は、ところどころ金糸で刺繍が施された青紫色の服を着ており、その上からマント状の上着を重ねて着用していた。左右に白髪の混じった黒髪はややくせ毛なのか、上へ向かってはねていた。そんなグレンヴァース公爵へ、馬車から降りたアーマンドは丁寧に挨拶を返す。
「お久しぶりです、グレンヴァース公爵。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「うむ。カーラ夫人も元気そうで何よりだ。その後ろにいるのは……」
リオノーラは父のアーマンドにエスコートをされて、馬車から降りた。
「お久しぶりでございます、グレンヴァース公爵様」
「やっぱり、リオノーラか! とても美人になったものだ。さぁ、長旅で疲れただろう。中へ入ってゆっくりするといい。これからの話もあることだしな」
リオノーラは、少し怪訝そうにした。というのも、婚約者であるはずのルパート・グレンヴァースの姿がどこにも見当たらなかったからである。
「ルパート様は? もしかしてまたご体調が優れず、寝室でお休みになっておられるのですか?」
ルパートの名を出した途端、侍従達や騎士達の表情が一瞬強張って空気が張り詰めたような気がした。だがグレンヴァース公爵は頷きながら、リオノーラへにこりと微笑む。
「そのことについても話をしよう。さ、中へ。今日はとてもおいしいお菓子を用意させたんだ」
質問をはぐらかされたかのような気がした。だがそれ以上会話を続けることができず、リオノーラは両親とともにドゥヌカ城の中へと招かれる。
城内はとても豪奢だった。柱の一つ一つに細緻な彫刻が施され、透かし彫りがなされた壁は金メッキで彩られている。天井も高く、閉塞感など全く感じない。天井にはシャンデリアはないものの、壁につけられた幾つもの燭台の蝋燭が、玄関ホールを明るく照らしていた。奥へ進めば二手に分かれる廊下に出るのだが、グレンヴァース公爵は迷わず右側へ進んだ。リオノーラは長いドレスの裾を踏まないように気を付けつつ、足元に敷かれた青い絨毯を踏みしめる。母のカーラといえば、廊下の壁に掛けられた絵画を見ては、立派ねぇ、と呟いていた。
そうして客室へ到着すると、リオノーラ達は奥に配置された赤いソファーへと勧められた。すぐに使用人がやってきて、柑橘の香りが豊かなブレンドハーブティーとジンジャービスケットがオークの丸テーブルの上へ並べられる。それを見たグレンヴァース公爵は、使用人へ下がるように命じた。リオノーラは不安になって両親を見るが、二人は和やかな様子でお茶を頂いている。だから、リオノーラはきっと思い過ごしだと自分へ言い聞かせた。しかしながら、グレンヴァース公爵の改まった表情に気づいて息を呑んでしまう。
「リオノーラ。挙式のことなのだけれど、君に謝らなければいけないことがある」
「なんでしょうか」
「非常に言いにくいんだが、長男のルパートが半年前に亡くなってね。此度の縁談を一度解消させてもらいたいんだ」
リオノーラは大きく目を見開いた。婚約者であるルパートが亡くなったなど、信じられなかったからである。だが、ルパートという青年が、昔から体が弱かったことは知っていた。病弱ゆえに、屋敷の外へ出ることが少なかったことも。
「ご病気で、ですか?」
リオノーラの記憶が確かならば、ルパートの葬儀に呼ばれた覚えはない。否、そもそもグレンヴァース家ほどの有名な貴族の子息が亡くなったならば、噂になってもいいはず。
「まぁ、ルパートのことはもういい。それよりも、今後についてなのだが」
グレンヴァース公爵は言葉を続けようとしたが、それはノックもなしに唐突に開かれた扉の音によって遮られた。勢いよく開かれた扉の外から現れたのは、長身の男性。灰青の瞳は険しく細められており、形の良い眉は僅かに吊り上っていた。鼻は高く、唇もほどよく肉厚。やや短い髪の毛は立ち上がるように整えられており、形の良い額がはっきりと見えた。黒羅紗で織られた上着の裾部分には金の総飾りがついており、裏地にはサテンが使われている。細かなビーズや刺繍が施された胴着は壮麗であり、膝上まである特徴的な牛革の黒いブーツは異国のもの。肩からは赤紫色をしたビロードの薄手のマントを羽織っており、とてつもない存在感があった。均整のとれた細身の肉体は服の上からでも十分に引き締まっていることがわかり、歩き方こそ傲慢なれど、立ち居振る舞いは貴族そのもの。
リオノーラは、彼の放つ鮮やかな気配にあてられて、見惚れずにはいられなかった。そんな彼はというと、部屋へ入るなり一番にリオノーラへと視線を向けた。そして、皮肉な笑みを口元に浮かべる。
「リオノーラじゃねえか。十七歳にもなったならば少しは乳臭さも抜けて女らしくなっているかと思いきや、相変わらず地味でぱっとしない顔立ちだな」
予想もしなかった乱暴な言葉を耳にしたリオノーラは、表情を強張らせた。同時に、そんな言葉を使うのはたった一人だということに思い至り、恐る恐る口を開く。
「もしかして、アラステア、なの……?」
アラステア、と呼ばれた人物は、ニッと口元に笑みを浮かべた。そして右手を腰に当てて頭を少し後ろへそらし、肩を竦めてみせる。
「幼馴染の顔を忘れるとは、お前も随分と偉くなったもんだ」
アラステア・グレンヴァース。グレンヴァース公爵の二人目の息子であり、リオノーラの婚約者であるルパートの弟。リオノーラからすれば三つ年上なのだが、年が近いことから幼い頃は接する機会が多かった。
「会うのは七年ぶりだもの……。わからなくても、仕方がないわ」
「ハッ! どうだか。ルパートとの結婚が楽しみで浮かれていたんじゃないのか?」
リオノーラは眉を寄せて困惑した。たった今、婚約者のルパートが亡くなったと聞かされたばかりなのだ。そしてそのルパートの実弟である彼にそんなことを言われれば、黙り込むのも無理はない。そんな様子を見兼ねたグレンヴァース公爵は、アラステアを睨み付けた。
「アラステア。隣国のフレリンド王国にいたお前に手紙を送ったんだが、どうやら行き違いになってしまったのかもしれないな。実は――」
アラステアは面倒そうに溜息をついて髪の毛を左手で掻き上げた。
「事情なら手紙で大方わかっている。ルパートの代わりに、俺がリオノーラの婚約者になればいいんだろう? 俺の方は異存はない」
リオノーラは聞き間違いだろうか、と我が耳を疑った。彼が一体何に異存がないのか理解できぬまま、両親へ助けを求めるようとする。だが、なぜか父のアーマンドは諸手を挙げて喜んでいた。
「あぁ、良かった。君のような立派な方にうちの娘を貰っていただけるとは! これでリオノーラは安泰だ」
母のカーラも涙ぐみながら頷いていた。リオノーラだけは未だ会話に追いつくことができず、恐る恐るアラステアを見上げる。
「じょ、冗談よね? あなたと私が……、その、婚約だなんて」
「俺はお前をからかうために隣国からわざわざ戻ってくるほど暇じゃない。俺としては、むしろ感謝してもらいたいもんだがな。兄貴に手を出されているかもしれない女を、嫁に貰ってやるんだから」
酷い侮辱だった。だがリオノーラには言い返すことはできない。というのも、アラステアではなく別の男性が婚約者だったとしても、おそらく同じことを思われたからである。
「わ、私は、ルパート様と恥じるような行為は何もしてない。神に誓って清らかなままだわ」
非難めいた口調でそう言うと、アラステアは片眉を上げて興味深そうに口元へ笑みを浮かべた。
「へぇ……。ならよかった。俺も、どうせ抱くなら初めてのほうがいいからな」
彼の放った言葉の意味こそわからなかったものの、辱められたということだけリオノーラは理解した。しかも、両親やグレンヴァース公爵の前である。リオノーラは、怒りと恥ずかしさで顔が真っ赤になってしまう。だが、唐突にグレンヴァース公爵がソファーを立ち上がった。全員そちらへと注目をする。
「どうだろうと思って不安だったが、なんの問題もないようだな。あとは若者二人に任せて、我々は出て行こうか」
これにアーマンドとカーラも満足げにソファーから立ち上がった。カーラはリオノーラへとにこりと微笑みかける。
「リオノーラ。それじゃあ、ママ達は屋敷へ戻るから、あとはしっかりやるのよ」
「え? お母様?」
「ほら、唐突に婚約者が変わってしまって、あなたも戸惑っているでしょう? だから、二人の仲を深めるには、時間が必要だと思うの。お互いを知りあう時間がね」
「ま、待って、何を言っているの?」
「これからアラステア様とこのお城で暫く暮らすことになるけれど、アラステア様にきちんと尽くすように。あ、荷物はこちらへ先に届けておいたから、あなたは何も心配しなくても大丈夫よ」
引き留めようとしたが、グレンヴァース公爵とリオノーラの両親は客室を出て行ってしまった。アラステアはリオノーラの前に立つと、右手でぐいとリオノーラの顎を強引に持ち上げる。
「これから俺とお前は、ここで一緒に生活をすることとなる。手っ取り早く言えば、式を挙げるまでに仲を深めろ、ってことだ」
そんな話は聞いていなかった。しかも、未婚の男女が一つ屋根の下で暮らすなど通常はありえない。
「グレンヴァース公爵は、了承しているの?」
「あぁ。俺達のために、当分別邸で暮らすそうだ。今頃馬車に乗り込むところじゃねえのか?」
その言葉通り、外から馬の嘶く声がした。リオノーラはソファーから立ち上がると、部屋を飛び出して、なりふり構わず正面玄関へと向かう。
「お父様、お母様……っ」
置いて行かれるのは嫌だと、リオノーラは正面玄関の大きな木製の扉を開いて外へ出た。すると丁度、自分が乗ってきた馬車が城壁の門を通って出て行く姿が見えた。グレンヴァース公爵が乗っているとみられる立派な装いの馬車も、城門をくぐり抜けて出て行ってしまう。これにリオノーラは愕然として青ざめた。
「なんで……」
「まだわからないのか。お前と俺は、まんまと嵌められたんだよ」
もう夜になっていた。春だというのにまるで冬のような冷たさの風が吹き、リオノーラは両手で自らの腕を掻き抱く。否、それは寒さからというよりも、これから先を考えて不安になったため。
「どうすればいいの?」
「何がだ」
「だって私、これまでずっとルパート様と結婚をするために教育をされて、育ってきたのよ? それなのに、突然こんな……」
口からつい出てしまった本音。だが、リオノーラは同じ立場に置かれた彼ならば、理解をしてくれると思った。だから期待を込めて彼へと振り返るのだが、予想に反してアラステアは不愉快そうに眉を顰めていた。そしてリオノーラの腕を強引にとると、大股で歩きだす。
「ちょっと来いっ!」
「アラステア? っぁ、痛いっ。アラステア!」
人気のない湖がある方へ連れてこられたかと思えば、そのままリオノーラの体は城の壁へと押し付けられた。冷たい壁の質感が、背を通して伝わってくる。何をするのかと目で訴えようとするも、アラステアによって両肩を押さえつけられてしまった。
「残念だったな。お前の許嫁は兄貴じゃなくてこの俺だ。お前はこの俺の妻になる運命なんだよ。どれだけお前が拒もうとな……!」
顔を朱に染めるほどに彼が怒っていることがわかり、リオノーラは体が竦んだ。
「拒むだなんて……。私はただ、突然のことに混乱をしているだけで。アラステアは、嫌じゃないの? 私と結婚だなんて」
アラステアの真剣な表情が恐ろしくて、体が震えて涙が浮かんだ。
「嫌も何も、拒否できると思っているのか。これは、家同士の結婚なんだぞ。それとも、そんなことさえわからないほど、お前はバカなのか?」
これは、十一年前より定められていたことなのだ。個人の勝手な理由で婚約を破棄できるものではないし、婚約者を選ぶこともできない。頭の中では理解できているが、心がついていかないのだ。
「わ、わかっているわ、それぐらい……」
「へぇ……? だったらいいが」
リオノーラは掴まれている肩の痛みから逃れようと、身を捩ろうとした。だが彼の左手が目に入った瞬間に、動けなくなってしまう。というのも、彼の左手には裂傷と細かい刺し傷の痕があるのだが、その傷はリオノーラのせいでできたものなのだ。そんなリオノーラの視線に気が付いたアラステアは、両手を後ろへ下げた。そのまま顔を顰めて舌打ちをする。
「あ、あの、アラステア」
「最初に宣言しておく。俺は今後お前に恋人へ囁くような甘い言葉は吐かないし、愛を語ることもない。そのつもりでいろ」
アラステアはそれだけを明確に告げて、踵を返して去って行った。一人残されたリオノーラは壁にもたれかかったまま、ずるずるとその場に座り込んでしまう。
「アラステアと、結婚だなんて……」
リオノーラは両膝を抱えると、そのままスカートへ顔を伏せた。そうしてリオノーラは、まるで湖に照らされた星の輝きに導かれるように、幼き日のことを思い出した。
リオノーラが初めてアラステアと出会ったのは、十一年前の六歳の時のこと。
リオノーラが暮らしているフレイドル伯爵領のアロア城は、ロナ川と呼ばれる大きな川を見下ろすことができる高台にある。小さいながらも壮麗な城館であり、白亜に輝くその城は白い宝石とも謳われているのだ。城の手前には美しい緑の庭園が広がっているのだが、小さなピンクのカスミソウ(ジプシーディープローズ)が満開だった。城の裏側には白い花やシルバーリーフばかりを集めた自慢のホワイトガーデンがあるのだが、リオノーラはそこが好きでよく一人で散歩をしていた。そしてその日も、リオノーラは一人で花を愛でていたのだ。
「アルンクスの花がいっぱい」
密集した白い小花が、まっすぐに伸びた一つの茎からいくつも垂れるように咲き乱れていた。緑と銀の生地が合わせられたお気に入りのドレスに身を包んでいたリオノーラは、雨上がりの泥濘(ぬかる)んだ地面に気を付けながら、その白い花へ手を伸ばそうとする。だが、背後から近づいてきた足音に気づき、ゆっくりと振り返った。そこにいたのは、黒髪の見慣れぬ少年。足元まで隠れる灰色の長衣は貴族が着るものであり、裾には赤い糸で幾何学模様の刺繍が施されていた。胸元には燃えるように赤いルビーがはめ込まれた青金のブローチがあり、腰には飾り帯が巻かれている。どこか鋭さを含んだ灰青の澄んだ瞳は見開かれており、誰かがいるとは思わなかった、と言わんばかりの表情をしていた。
「……っ」
リオノーラは初めて見る人物に驚いてしまい、そのまま走って逃げだした。だが少年もすぐにリオノーラを追いかけて走り出す。
「待て!」
どうして少年が自分を追いかけてくるのかわからず、リオノーラは怖くてたまらなかった。慣れ親しんだ庭のはずなのに、全然見知らぬ場所のように思えてしまう。早く両親の元へと気持ちが焦るが、普段走ることのないリオノーラは、ホワイトガーデンを抜け出る手前で少年によって手を掴まれてしまった。恐怖で悲鳴をあげることさえできず、強引に引っ張られると同時に少年の方へと振り返らされてしまう。そこで、自分の手を握っている少年の手の甲から血が出ているのを見た。
「……それ」
無意識にこぼれた声に、少年も手の甲へと視線を落とした。
「あぁ、さっき剣葉に手が当たって切ったんだ」
「じゃあ、手当てをしたほうがいいよ」
「こんなの、舐めておけば治るだろ」
リオノーラは少年の手を握り返すと、引っ張った。
「こっちへ来て」
「え? おい……!」
ホワイトガーデンを出た先は、ハーブガーデンが広がっていた。日常で使う様々な薬草が植えられている場所である。そこに、白い四枚の花びらからなるスイート・ウッドラフの花があった。茎の節に三枚以上の葉をつける輪生の植物であり、乾燥させると干し草のようないい香りがするハーブのなのだ。亜麻の衣類に香りをつけることで害虫除けにも使用されるし、花は食べることもできる。そして葉は、傷薬にも用いられているのだ。リオノーラはそんなスイート・ウッドラフの細い葉を数枚千切ると、それをよく揉んでから少年の傷口へ塗布した。
「本当は磨り潰して塗ったほうがいいんだけど」
「いや、これでいいよ。ありがとうな」
少年ははにかんだ様子で笑った。リオノーラも警戒心が解け、顔を赤くして照れてしまう。
「わ、私、リオノーラ。あなたはどこから来たの?」
「俺は、アラステアだ。グレンヴァース領から来た。このアロア城に用事がある、って父上に連れてこられたんだ」
「そうだったの。さっきはごめんなさい。逃げたりして」
「いや、構わない。しっかし、変わった色の髪の毛だな。人間だって思わなかった。こっちも確かめて思わず走って追いかけたけれど、驚かせて悪かったな」
リオノーラは自らの銀とも白とも言い表せない髪を、隠すように手で押さえた。そして気まずそうに目を伏せる。
「お父様とお母様は綺麗な金の御髪なのに、私はこんな変な色なの」
「そうか? 俺は真珠(パール)みたいで美しいと思う。プラチナ色の髪だなんて、俺だったら自慢してる」
リオノーラは顔を上げて、少年の顔を凝視した。
「そんなこと言われたの、初めて。ありがとう」
「あぁ。だから、髪の色なんて気にしなくていいと思うぜ」
アラステアはリオノーラの頭をよしよしと撫でた。リオノーラは大嫌いな自分の髪色を褒められて、彼はなんて優しくていい人なのだろうかと感激してしまう。
「あっちにね、私が一番大好きな花が咲く木があるの。今から私がお庭を案内してあげ……」
言い終える前に、遊歩道を歩いてきた人物によって声をかけられた。リオノーラの父親であるアーマンドだ。
「リオノーラ、ここにいたのか。アラステア様と一緒とは、丁度良かった」
「お父様!」
アーマンドのやや後ろには、見知らぬ男性二人がいた。どちらもアラステアと面差しがよく似ているが、一人はアーマンドよりも年上とみられる中肉中背の男性だった。もう一人は色白で、細身の若い男性。二十歳前後に見え、さらりとした艶やかな黒髪に薄い灰色の瞳をしている。彼は襟を折り返した丈の短い暗紫色の外套を、上半身へ巻くように羽織っていた。首元には襞のような襟飾りをつけており、胴より下は緑色の下衣(ショス)を穿いている。
「君が、リオノーラだね。初めまして。私はルパート・グレンヴァース。子爵だ。よろしくね」
ルパートと名乗った男性は、随分と物腰が穏やかだった。リオノーラは父親であるアーマンドの後ろへ隠れてしまい、返事をすることができない。これに、アーマンドが苦笑してしまった。
「申し訳ありません、人見知りをする娘で。リオノーラ。こちらの方は、フレッド・グレンヴァース公爵様だ。そちらにいるルパート様とアラステア様の、お父様だよ」
「……え? でもさっき、子爵って言ってた」
「貴族が持つ爵位は、一つの家に一つだけとは限らないんだよ。グレンヴァース公爵様の家はね、子爵の爵位も持っておられるんだ。そしてルパート様は継嗣(けいし)だから、二番目の爵位を儀礼称号で名乗っておられるんだよ」
もう一度ルパートを見ると、彼と目が合った。優しい笑顔を向けられ、リオノーラは恥ずかしくて顔を逸らしてしまう。これに、グレンヴァース公爵は楽しげに喉を鳴らした。
「ふふ。初々しいことだ。これなら、何も問題はなさそうだな」
何のこと? とくるりとした目を瞬かせながら父の手を引っ張れば、すぐに教えてくれた。
「リオノーラ。実はね、お前と将来結婚してくれるというお婿さんが決まったんだよ。ルパート様が、お前の許婚になってくれるそうだ」
「え?」
唐突なことに、リオノーラはどうしていいのかわからなかった。ルパートはどう見ても二十歳前後であり、かなり年齢が離れているように見えたからである。
「あぁ、そうだ。せっかくだから、ルパート様を連れて、庭園をご案内してあげるといい」
アーマンドの背より引っ張り出され、リオノーラはルパートの前へ強引に立たされた。ルパートはリオノーラを怯えさすまいとするかのように、体を屈めて手を差し出す。
「愛らしいお姫様。私に庭園をご案内していただけますか?」
リオノーラはルパートの手に自らの手を重ねると、こくりと頷いた。そうして彼を連れて庭園の奥へ行き、一緒に散策をする。
「ルパート様は、何歳なのですか?」
「アラステアと十歳離れているから、今十九歳だよ」
「私が大きくなる頃には、ルパート様はもっと年をとってますね」
「ふふ、そうだね」
他愛もない会話をしながら庭園を二人で歩いていると、リオノーラが大好きな木の傍へとやってきた。その木はマートルと呼ばれ、葉は清涼感を含んだ爽やかな香りがするのだ。五枚の白い花びらは丸く、細い糸のような雄蕊(おしべ)は放射状に広がっている。
「このお花、私が一番好きなお花なんです。マートル、っていうの」
「へぇ、このお花が君が一番好きな花なのか。とても可愛らしいお花だね。まるで君のようだ」
リオノーラは頬を赤くした。ルパートはマートルの花がついた枝を手折(たお)ると、それをリオノーラへと差し出す。
「ルパート様?」
「どうぞ、お姫様」
マートルの枝を受け取ったリオノーラは可憐な笑顔を浮かべた。
「あ、ありがとうございます……、ルパート様」
「どういたしまして。それでは、皆のところへ戻ろうか」
こくん、と頷いて、リオノーラはルパートと一緒にハーブガーデンまで戻った。アーマンドとグレンヴァース公爵はホワイトガーデンの入り口手前で楽しげに立ち話をしていたが、二人が近づくと温和な雰囲気で出迎える。
「あぁ、戻ったか、リオノーラ」
リオノーラは頷いた。アラステアも少し離れた場所にいることを知り、彼の傍へ駆け寄る。
「見てみて、ルパート様がくれたの」
アラステアにも見てもらいたかった。自分が大好きな花を。だが彼はリオノーラを睨み付けると、その手を叩いてしまう。
「こんなもの俺に見せるな!」
「あ」
手にしていたマートルを、リオノーラは落としてしまった。マートルはぬかるんだ地面へと叩きつけられ、白い花も緑の葉も泥だらけになってしまう。これを見たアラステアは、しまったという顔をしていた。だがリオノーラは泥だらけになったマートルを見て悲しくなってしまい、両手で顔を覆って泣いてしまう。
「……っ」
グレンヴァース公爵は右手で額を覆って項垂れた。だがすぐにアラステアのそばへ行き、怒鳴りつける。
「一体何をしているんだ、お前は! すぐに謝れ!」
アラステアはぷい、と横を向いて唇を尖らせた。
「俺、悪くねえし」
「お前が悪いんだろうが!」
リオノーラの父であるアーマンドがまぁまぁ、ととりなした。ルパートは呆れ果てており、アラステアは益々臍を曲げて無視を決め込む。
この一件により、リオノーラにとってアラステアとの初めて出会いは、最悪なものとなった。
そんな出来事のあった数日後――。
リオノーラ宛てに差出人不明の手紙と花束が贈られてきた。花束は真っ白なマートルの花だけを束ねたもの。手紙には一言こう書かれていた。
『リオノーラが一番好きな花を捧げる』
リオノーラは、すぐにルパートが花を贈ってくれたのだとわかった。というのも、リオノーラが一番大好きな花が何かを教えたのは、ルパートだけだったからだ。
「ルパート様……」
リオノーラは幸せで胸がいっぱいになった。
リオノーラがルパートの許婚になってからというもの、グレンヴァース公爵家へ呼ばれることが多くなった。そして許婚に決まってからもうすぐ一年が経とうとしていたこの日も、グレンヴァース侯爵家が開いた昼食会へ呼ばれたのだ。
グレンヴァース公爵領にあるドゥヌカ城は大きな湖のそばにあり、水辺には鴨達が悠々と泳いでいる。ドゥヌカ城の裏にあるリンデンの並木道の奥には石積みの円形階段があるのだが、そこを上がればキングサリの枝や葡萄の枝が巻き付いた大きなパーゴラがあった。パーゴラとは蔓性の植物を巻き付けさせて日陰を作る、木材を組んだ棚である。キングサリは大きな黄色の花の房を幾つも垂れさせて咲くのだが、リオノーラが訪れた日は満開だったのだ。
「すごく綺麗」
昼食会には他の貴族達も呼ばれていた。その殆どが家族連れであり、子供連れも多かったのだ。だがリオノーラは人の多い場所が苦手だったため、裏庭へ逃げてきた。
「リオノーラ」
名前を呼ばれて振り返ると、アラステアが立っていた。リオノーラはパーゴラの柱の背後へ隠れて警戒してしまう。というのも、また何かよからぬことをされるのではないかと思ったからである。リオノーラは年明けにも雪の降り積もったドゥヌカ城へ訪れていたのだが、アラステアによって顔面に雪玉をぶつけられたのだ。アラステアに大笑いされたこと、忘れたりはしない。
「……なに」
「へー。水色のドレスか。ダサいし、ちっとも似合わねえな!」
やはり笑うアラステア。リオノーラは、アラステアのことが会う度に嫌いになってしまう。今日着ているドレスは母と一緒に選んだものであり、綾織り布が使われた高価な服なのだ。
「ルパート様は、よく似合っているねって、褒めてくれたもん!」
悔しくてそう言えば、アラステアの笑い声がぴたりと止まった。険悪な顔をしており、リオノーラへと走る。
「なんだよ、こんなものっ!」
また酷いことをされてしまうとリオノーラが身構えた瞬間。
ドレスの裾が大きく宙を舞っていた。アラステアが両手で捲り上げたのだ。
「へーぇ。スカートの中ってこうなっているのか」
膝下まである亜麻の下着を見られ、リオノーラは唖然となった。
「な……」
アラステアはスカートの裾から手を放すと、またもや笑った。
「ははっ、スカートの中もダサいな!」
そう言い残して、アラステアは走り去っていった。リオノーラは顔を真っ赤にして怒るが、どうしようもない。
「なによ、ばかっ」
大人しく両親の元へ帰ろうとした時、リオノーラはなぜか嫌な気配を感じて振り返った。
リオノーラが両親達のいるテラスへと戻った時、ドレスは土で汚れ、髪の毛はぐしゃぐしゃに乱れていた。テラスにある大理石のテーブルの上は、昼食会のために用意された食事や酒が並べられており、正装姿の給仕達が世話にあたっている。
「あらあら、どうしたの、リオノーラ。転んだの?」
母のカーラが心配して声をかけたが、リオノーラは泣きじゃくっているために答えることができなかった。これにグレンヴァース公爵はまさか、と言わんばかりに椅子から立ち上がる。
「アラステア! またお前かっ!」
テラスへと先に戻っていたらしいアラステアは、グレンヴァース公爵ではなくリオノーラを見たまま目が離せなかった。泣いているリオノーラへ詰め寄ると、頭をくしゃりと撫でつける。
「泣かなくていい。俺に任せろ」
何かの確信を抱いているかのようにそう言って、アラステアはどこかへ走って行ってしまった。リオノーラが止める間もない。
そうして再びアラステアが戻ってきたとき――。
彼の姿は擦り傷だらけであり、そして彼以外の三人の少年達も怪我をしていた。三人の少年達は客人として招かれていた貴族の子供達であり、泣きじゃくっていたのだ。グレンヴァース公爵はアラステアの仕業だとすぐにわかり、客人達への謝罪に追われることになったのだ。その後は、案の定日暮れまで怒号が飛ぶことになったのである。
グレンヴァース公爵の説教が終わって客人達が帰った後、リオノーラはアラステアと一緒に客室にいた。アラステアは怪我の手当てが終わっても部屋の中央にあるテーブルの前へ座ったまま動こうとせず、むすっとしている。リオノーラはそんなアラステアへ近づくと、恐る恐る声をかけた。
「痛い?」
「痛くない」
「本当に?」
アラステアは足や手に包帯を巻いていた。顔にも擦り傷がある。リオノーラはアラステアの包帯が巻かれている左手を、軽く突いてみた。するとアラステアは体を震わせて体を前へ曲げる。
「痛いな! 何するんだよ!」
「やっぱり、痛いのね」
アラステアはしまった、とばかりに顔を背けた。リオノーラはアラステアの手を撫でながら、彼がどうしてこんなことをしたのかを考える。
「私のためにしたんでしょう?」
パーゴラの下でアラステアと別れた後、リオノーラは見知らぬ少年達に囲まれて、苛められたのだ。ただ髪の色が気持ち悪い、という理由だけで。だがそんなことを言えば両親は悲しんでしまうし、せっかくの昼食会が台無しになってしまう。だからリオノーラは本当のことが言えなかったのだ。しかしながら、アラステアには何があったのかわかってしまったようだった。
「別にお前のためじゃねえよ。勘違いすんな」
「そうなの?」
「あと、勝手に俺以外の奴に苛められてるんじゃねえよ」
やはり彼はリオノーラのためにしたのだとわかった。
「ありがとう、アラステア。でももう無茶はしないでね。アラステアに何かあったら悲しいから」
お礼を述べると、アラステアの顔が見る見る内に真っ赤になった。彼は自分でもそれがわかったのか、慌ててリオノーラから顔を背ける。リオノーラはそんなアラステアの赤くなった耳を見て、くすりと笑った。彼にも可愛いところがあるのだと。
そんな穏やかな空気に包まれたところで、部屋の扉をノックする音が響いた。室内へと入ってきたのは、ルパートと金髪に緑の瞳を持つ美しい女性だった。金髪の女性は焦げ茶色のお仕着せを着ていることから、侍女だとわかる。
「コリーン・アボット。兄貴専属の世話役だ」
まるでリオノーラの疑問を察したかのように、隣にいたアラステアがぼそりと呟いた。つい今し方顔を赤くしていたとは思えぬほどに冷淡な顔立ちとなっている。だがそんな表情の変化を知らないルパートは、アラステアの近くに寄る。
「喧嘩をしたんだって? いけないじゃないか、そんなことをしては。どうしてお前はいつも面倒ばかりかけるんだ」
「うるさいな」
「なんだ、その反抗的な態度は。少しは反省したらどうなんだ」
アラステアは無視を決め込もうとした。だがそんな態度が許せなかったのか、ルパートはアラステアの腕を掴んで椅子から立たせようとする。しかしながら、突如ルパートを襲った激しい咳により、それはできなくなった。すぐ傍にいたコリーンは、ルパートの体を支えながら、近くにあった椅子へと座らせる。
「ルパート様、これを」
コリーンは茶色の小瓶に入った液体を白い布へと染み込ませると、ルパートへ手渡した。室内にはその液体のものとみられる強い清涼感の香りが漂う。ルパートは白い布を鼻と口元に当たるように置き、苦しそうに呼吸をした。アラステアは椅子から立ち上がると、リオノーラの手を引いて部屋から連れ出す。
「兄貴も、弱っている姿をガキのお前に見せたくないだろ」
リオノーラは驚きのあまり、血の気を失っていた。あの部屋に留まっていれば、気を失うほどに。
「ルパート様は、ご病気なの?」
「昔から体が弱いんだ。いつも咳が出たら、コリーンがあぁやって喘息にきく薬を用意してる。父上がコリーンをいつも兄貴の近くにいさせているのは、そのためだ」
「……大丈夫かな、ルパート様」
「いつものことだから、お前は何も心配しなくていい」
リオノーラは小さく頷くと、アラステアの手を握り返した。そのまま会話が途切れてしまうのだが、リオノーラはその重たい沈黙に耐えかねて、懸命に話題を探す。だがアラステアと共通の話など何も思いつかない。
「そ、そういえば、このドゥヌカ城の近くに大きな森があるよね。アラステアは森に入ったことある?」
ぴたり、とアラステアの足が止まった。長い廊下に人の気配はなく、しんとしている。
「北の森には絶対に近づくなよ」
「どうして?」
「あそこは、昔から魔女だとか妖精だとか、人ならざる者達が住み着いている場所なんだ」
からかわれているのだろうか、とリオノーラはアラステアの表情を真剣に観察した。だが茶化している様子は見られない。
「本当に、魔女とか妖精がいるの?」
「俺も見たことはないけれど、いるって言われている。北の森に住む魔女は願いをなんでも叶えてくれる代わりに、とんでもない要求をするらしい。妖精はいたずら好きで、森に入った者を迷わせるそうだ。俺も、最初は子供が森の中へ勝手に入ったりしないように戒めるおとぎ話かと疑っていたけれど、どうも違うみたいだ」
「そうなの?」
「あぁ。このドゥヌカ城がこんな鄙(ひな)へ建てられたのは、森を監視する為だって言われている。森へ勝手に人が入らないように、この一帯を公爵家の所有地として管理しているらしい。……絶対に、森へは近づくなよ。いいな?」
アラステアへ強くそう言われ、リオノーラは怯えた面持ちで頷いた。
――そうしてマートルの花が咲き乱れる頃。
再び差出人不明の人物から、リオノーラへマートルの白い花束が届けられた。リオノーラはルパートが贈ってくれたのだと、自らの寝室にある花瓶へ花を飾ったのだ。
「なんて素敵な方なんだろう」
自分が好きな花を覚えていてくれていたのだ。リオノーラの心が温かくなった。
こうしてあっという間に三年の月日が流れ、リオノーラは十歳になった。幼さはそのままに、清らかで愛らしい少女へと成長したのだ。プラチナブロンドの髪は編み込んで一つにまとめ上げており、光に当たればうっすらと虹色の光沢を放った。派手な顔立ちをしているというわけでもないのに、なぜか神秘的な美しさがあったのだ。
そんなリオノーラは、両親とドゥヌカ城へ訪れていた。もう幾度目となる訪問である。グレンヴァース公爵は快く出迎え、客室でもてなすこととなったのだ。両親とグレンヴァース公爵は肌触りの良いソファーへ腰かけながら、リオノーラにはわからない仕事の話などをしていた。リオノーラはただ行儀よく座り、失礼がないようにしていたのだ。後頭部につけている青いリボンが歪んでいないか、時折気にしながら。
「リオノーラは今日も可愛いなぁ。ところで、さっきから手にしているその箱は……」
グレンヴァース公爵がリオノーラへと微笑みかけた。彼が着目をしているのは、リオノーラが先ほどから両膝の上に抱えている黒い箱。黒檀で作られており、金メッキや鼈甲で草花の象嵌がされているのだ。
「ルパート様がくれたの」
「ルパートが? でもその宝石箱は……」
今年もマートルの花が送られてきたのだ。そして花束と一緒に送られてきたのが、宝石箱だった。リオノーラはアーマンドへと話しかける。
「お父様。ルパート様にお礼を言いに行ってもいい?」
アーマンドは頷いた。
「あぁ、行っておいで。でも、あまり長居はしてはいけないよ。ルパート様は今日も体調を崩されているそうだから」
「はい」
リオノーラは頷くと、笑顔で客間を後にした。両腕に宝石箱を大切に抱え、逸る気持ちを抑えながら廊下を進む。
「なんて、お礼を言おうかな」
ルパートがいる部屋が近くなると、リオノーラはお淑やかに歩くことを意識した。背筋をぐっと伸ばし、足音を立てないようにする。そのままルパートの部屋の前へ来たとき、扉が少し開いていることに気が付いた。リオノーラは扉を開こうと手を伸ばすが、隙間から見えた奥の景色に動きを止めてしまう。
室内にいたのは、ルパートと侍女のコリーン。だが二人はなぜか抱きしめあっていた。
「君の金髪は、世界で一番美しいね」
ルパートがコリーンの髪を撫でながら告げた。彼は恥ずかしげに俯こうとしたコリーンの顎を指で捉えると、顔を近づけていく。そうして互いの唇が触れ合う寸前。
――唐突にリオノーラの視界が真っ暗になった。
同時に感じるのは、目の前を覆っている熱と柔らかな肌の感触。
「リオノーラ、黙ってこっちに来い」
耳元で誰かが囁いた。ルパートの部屋の前から引き離され、突き当りの奥の廊下で視界が開ける。
「アラステア……?」
どうやら彼が両手でリオノーラの視界を遮って、目隠しをしたようだった。なぜ彼がそんなことをしたのか。質問する間もなく、アラステアはリオノーラの手を握った。そのまま城を出て、裏庭にあるパーゴラまで連れていかれる。
「あそこで、何をしていたんだよ。リオノーラ」
厳しい口調で問い詰められ、リオノーラは怯んだ。持っている宝石箱を抱え直し、それをアラステアへ見せる。
「ルパート様がこの宝石箱を送ってくださったから、そのお礼をしようと思って……」
「ハァッ? ルパートだぁ?」
なぜか素っ頓狂な声をあげるアラステア。
「う、うん。毎年、花を贈ってくださるの。それと一緒に、この宝石箱も届けてくださって……」
アラステアは右手で自らの髪の毛をくしゃりとかきあげると、腹立たしそうに舌打ちをした。だがリオノーラが手にしている宝石箱を取り上げると、それを地面に向かって投げつける。
「なんだよ、こんなものっ!」
宝石箱は音を立てて、円形階段を転がって落ちた。リオノーラは悲鳴を上げて真っ青になる。
「何をするの、アラステア……!」
慌てて宝石箱を拾いに行こうとしたが、アラステアによってパーゴラの柱へと突き飛ばされた。背中を打ち付けた痛みで呻き、思わず顔を顰めてしまう。すぐに体勢を整えようとするのだが。
――何か温かいものが唇へと触れた。
どうしてアラステアの顔が目の前にあるのか。状況を理解するより早く、彼がリオノーラから離れる。
「お前のことが嫌いだから、初めてのキスを奪ってやった。お前なんか、俺のことばっかり考えて、忘れなければいい」
そこでようやく、リオノーラは初めての口付けを彼に奪われたのだと知った。強烈な失望感と悲しみが綯い交ぜになり、アラステアを突き飛ばす。
「アラステアなんて、大嫌いっ!」
リオノーラは一刻も早く立ち去りたくて、走り出した。城壁の門を潜り抜けると、当てもなくただ進み続ける。前々から彼が自分に酷い嫌がらせをすることはわかっていた。けれども、先ほどのはいくらなんでも許せないと思ったのだ。
「アラステアの、ばかばかばかっ」
涙で視界が見えなくなって、リオノーラは手の甲で拭った。そこで、アラステアに入ってはいけないと言われていた森の手前に立っていることを知る。大きなオークの木やブナの木などが生えており、足元も野草でいっぱいだった。リオノーラは引き返そうとする。だが、そこで突風が吹いた。それとともに髪に結っていた青いリボンがほどけ、森の中へ入ってしまう。
「お母様がくれたリボンが」
一瞬、森の中へ入るのを躊躇った。だがリボンをなくしてしまったと言えば、母は悲しんでしまうだろう。
「森に魔女とか妖精がいるのも、きっとアラステアが私を怖がらせようと、嘘をついたのよ」
そうに違いないと、リオノーラは森の中へ足を踏み入れた。森の中は思ったよりも薄暗くて不気味だが、木々の香りを胸いっぱいに吸い込めば、多少気分が楽になる。念のために怪しげなものがないか探ったが、特に見当たらなかった。
「えと、リボン、どこに落ちたのかな。そんな遠くに行ってはいないと思うけれど」
突如、鳥が木々から飛び立つ羽の音がした。リオノーラはびくりと体を震わせ、怯えてしまう。
「早く、森を出ないと」
真っ直ぐに森を歩くと、青い布が草に引っかかるようにして垂れ下がっていた。リオノーラはすぐに拾い上げようとするが、どこからともなく現れた狐が青い布を口に銜えて持って行ってしまう。
「ま、待って! それ、私のっ」
狐を追いかけて、森の奥へ向かった。狐はリオノーラが追ってきているか確認するように、振り返るのだ。そうしてかなり奥まで来たとき、狐が銜えていた布を口から放してどこかへ消えてしまった。リオノーラは布を拾い上げると、ほっとする。だがすぐに、とてつもない不安に襲われた。というのも、自らが一体どこから来たのか道がわからなくなってしまったからである。
「どうしよう……」
泣きそうになったところで、正面にうっすらと光る何かが見えた。恐る恐るそちらへ近づくと、そこに萎れている大きなユリの花があることに気が付く。真っ白で、花被片(かひへん)が六枚あるユリ。リオノーラと同じぐらいの伸長があり、近くに立っただけで香(かぐわ)しい匂いが鼻孔いっぱいに広がった。
「このユリのお花、光ってる……?」
だが、元気がないように見えた。リオノーラはどうしようと周囲を見回し、大きな岩から清水が湧き出ていることを知った。そちらへ移動して両手で清水を掬い取ると、ユリの花まで運んで根本へかける。それを何度か繰り返したところで、不思議なことに萎れていたユリの花が元気になる。
「よかったぁ」
だが、ここで改めて自分の状況を思い出した。森の中で迷子になってしまった自分のことを。
「お父様、お母様……」
心細くなって涙声になったところで、声がした。
「リオノーラ! どこにいるんだ、リオノーラ! 返事しろっ!」
その声の主を、リオノーラは知っていた。アラステアである。
「アラステア!」
「そっちか! 待ってろ、今すぐそっちへ行ってやるから」
リオノーラはアラステアの声がした方向へ走り出した。腰の高さまで伸びた茂みをかき分けて、一心に向かう。
「アラス……」
声を出そうとしたが、できなかった。その理由は、あるはずの地面がなく、険しい崖になっていたからである。リオノーラは、咄嗟に上半身を捻って片足で踏みとどまろうとした。だが一度前へ倒れた体勢を戻すのは難しく、リオノーラは落ちてしまう。
「……っ!」
ぎゅっと目を閉じたのだが、何かが自分の右手を掴んだ。その反動でリオノーラはか細い悲鳴を上げ、同時に崖からぶら下がった状態となる。
「……っく、リオノーラ、絶対に暴れるなよ……っ」
アラステアだった。リオノーラの右手を掴んでいるのだ。
「アラステア……」
「絶対に引き上げてやるから、待ってろ」
彼はそう言ったが、リオノーラの体を右手で掴んでいるだけで精いっぱいのように見えた。彼の左手はどうしたのかと視線だけを移動させるのだが、そこでリオノーラは蒼白になる。というのも、二人が崖に落ちないように彼が掴んでいた物は、大きな鋭い棘があるブラックベリーの木だったからである。ブラックベリーの蔓は木質化していて太く、頑丈そうに絡まっていた。熟した黒い実は、枝が揺れただけでぼとぼとと取れてしまう。だがその蔓を握っているアラステアの左手は血まみれであり、今もどんどんと血が滴り落ちているのだ。
「アラステア……、血が……」
「これぐらいどうってことない。お前は何も心配しなくていい。俺が助けてやるから、待ってろ」
こうしている間にも、どんどんとアラステアの手から血が流れた。リオノーラは崖下を見る。うっすら霧のようなものがかかっているが、底は見えている。おそらく、三階相当だと予想した。
「アラステア、手を放して」
「何を言って、そんなことができるか! いいから、黙ってろ!」
片手で引き上げようとするアラステア。だが、リオノーラでさえも、それは無理なことだとわかった。そしてブラックベリーを見れば、蔓が今にも折れそうになっている。このままでは二人とも崖下に転落してしまうのは明白だった。
「アラステア……」
リオノーラは右手の力を抜いた。すると、どんどんとアラステアの手から滑って抜けていく。
「おい、何をしている! しっかり掴まってろ! リオノーラ!」
リオノーラは恐怖を押し隠して、アラステアへと微笑んだ。
「アラステア。さっきは、大嫌いって言って、ごめんね」
――その瞬間、リオノーラの体は崖下まで落下した。
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