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​恋に落ちていた

 リオノーラはアラステアと共にドゥヌカ城へと戻ってきた。シルヴェストルとセドリックも一緒であり、二人はリオノーラとアラステアにずっと付き添っている。
 城門を通って城の正面玄関へ馬車が到着したにも関わらず、誰も出迎えに現れない。それどころか殺伐とした異様な空気が漂っており、リオノーラは怖気づいてしまう。侍女のコリーンと駆け落ちをし、長らく行方が分からなくなっていたアラステアの兄であるルパート。
 ――ルパート様が戻ってきた。
 それが意味するところを、リオノーラはわかっていた。だから、これからのことを考えて、どうしても不安にならずにはいられない。
 ――ルパート様が戻ってきたということは、私とアラステアとの婚約話は……。
 解消になるかもしれない、と考えかけて、リオノーラは首を振った。まだわからない、と。しかしながら、どこかで現実を直視している自分がいた。
「リオノーラ。行くぞ」
 アラステアに手を引かれ、馬車を降りた。彼の手は力強く、こんな時であっても迷いがない。
 無数の蝋燭の明かりに照らされた豪奢な玄関ホールへ入れば、その異様な空気がより一層際立った。侍従の姿もなく、ひっそりとしている。気配がないわけではない。だが、出迎えを誰かに(```)禁じられているのは一目でわかる有り様だった。
「城の留守を任されているはずの家令も出迎えに現れないなんて。……元々このドゥヌカ城は、兄貴が跡を継ぐ予定だったからな。次期当主となる兄貴の命令には逆らえないんだろうが……」
 やれやれと言わんばかりに溜息をつくアラステア。リオノーラはそれを横目で眺めて、不思議そうにする。というのも、ルパートが戻ってきたことを彼は一度も喜んだ素振りを見せないからだ。
「……アラステア。もしかして、ルパート様とあまり仲が良くないの?」
「そうだな。仲はよろしくないな。口癖のように金食い虫だとか役立たずって言われていたし」
「――え?」
 リオノーラの知るルパートは温厚で、おっとりした人物だ。だから、ルパートが弟とはいえ、アラステアへそんな悪口(あっこう)を述べる姿は想像できなかった。そんなリオノーラの考えを読み取ったアラステアは、片眉を上げて自嘲めいた笑みをこぼす。
「別に珍しくない話だろ。跡取り以外の次男や三男なんていうのは、通常ならば財産相続をすることができず、養子に行くか聖職者になるか、あとは俺みたいに自分で働いて稼ぐしかないんだから。……まぁ、兄貴が俺を金食い虫、って罵った理由はわからないでもない。留学をしている間はお金を仕送りしてもらっていたし、貿易事業を起こす際だって、父から金を借りたからな。それも今はきちんと謝礼を含めて返済したが」
「そうだったの……」
 一人で異国へ留学するなど、相当の苦労があっただろう。彼についてまだまだたくさん知らないことがあると、リオノーラは落ち込んでしまう。いつか、彼の口からその話を聞く機会は訪れるのだろうか。リオノーラはこれからの話し合い如何では、その未来は永遠に訪れることはないと予想する。
「まぁ……、兄貴が嫌いだって本気で思った決定打は、お前が理由だけれどな」
「え?」
「いや、なんでもない。行くぞ」
 アラステアに手を引かれて、ルパートの部屋へ向かった。その間アラステアは何も喋ることはなく、リオノーラも黙って歩を進める。
 ――まるで氷の上を歩いているみたい。
 初夏だというのに、体が冷え込んでいくような錯覚がした。
 一歩踏み出すごとに、足がとても重くなっていくのだ。
 まるで、全身が凍り付いていくように。
 ――行きたくない。
 リオノーラが心の中で抵抗を見せたところで、現実に抗えるわけもなく、ルパートの部屋へと到着してしまった。せめて心の準備をさせてほしい、とアラステアへ願おうとしたが、彼は何の躊躇もなくルパートの部屋の扉をノックする。
「ルパート、俺だ。入るぞ」
 断りもなく、アラステアはルパートの部屋へと入った。リオノーラはアラステアと一緒に手を繋いでいたため、少しばかり引っ張られるような形で室内へ足を踏み入れる。
 ――瞬間、窓から入り込んできた光に僅かに目が眩んだ。
 視界に慣れようと幾度か目を瞬かせ、そこで背の部分に蔓薔薇が透かし彫りにされた椅子へと座ったルパートに気付いた。彼の隣にはコリーンが椅子に座っているが、リオノーラとアラステアに視線を合わせないようにしている。
「――久しぶりだね、アラステア、リオノーラ」
 あまりにも優雅な微笑みとともに挨拶をされ、リオノーラはたじろいだ。というのも、これまで二人が駆け落ちをしていたとは、思えないほどに口調が軽やかだったからだ。リオノーラはルパートが持つ独特の空気に呑まれそうになるが、アラステアは違った。
「一体、今までどこに行っていたんだ。どれだけ周りに心配をかけたのか、わかっているのか」
 無事を喜ぶよりも、彼はまず非難することを選んだようだった。つまり、身内だからこそ厳しい態度で接しようとしているのだ。リオノーラは、アラステアらしい、と考える。いくら仲があまりよくない兄弟とはいえ、アラステアの性格からして無事を喜んでいないはずはないのだ。
「すまなかったね。それについては謝罪をするよ。でも、もう問題はない。私は戻ってきたからね」
「……どういう意味だ」
 アラステアは隠すことなく、不愉快そうに顔を顰めて見せた。ずっと彼と生活をしていたリオノーラでさえ、はっきりと怖いと感じるほどの怒気。
「どういう意味も何も。私が不在の間、城の管理をしてもらったことは感謝しているよ。でももうお前はお払い箱だ。リオノーラの婚約は予定通り進ませてもらう。彼女は私の妻となる女性だからね」
「そんなわけないだろうっ。ふざけるな!」
 逆上するアラステアを前に、ルパートはわざとらしく溜息をついて首を振った。
「ふざけているのはお前だよ、アラステア。この城の侍女に聞いたよ。お前、結婚式もまだだっていうのに、リオノーラに手を出したそうだね」
「だったらなんだ」
 アラステアは間髪入れずにはっきりと答えた。悪いことをしたとは思っていないと言わんばかりの態度に、ルパートはやや呆れた顔を浮かべる。
「私はお前の使い古しでも気にしないけれども、万が一お前の子供を彼女が妊娠していたら、堕胎(おろ)してもらうよ。彼女は、この城の跡取りである男児を生んでもらう『道具』だからね。あぁ、でも、きちんと役目さえ果たしてくれるならば、アラステアと間違いを犯したことは不問にしよう」
 リオノーラは血の気を失って、顔面蒼白になった。それは傍から見ても、きちんと立っているのが不思議なほどに。
 そしてアラステアもまた、強い嫌悪感を示す。
「お前、何を言ってるのかわかっているのか」
「わかっているとも。政略結婚とはそういうものだ。お前も貴族の端くれならば、我がグレンヴァース家とフレイドル家の結婚がいかに大事なものかわかっているだろう。フレイドル家が結婚をしたいのは、古くより血を繋ぎ、忠誠を誓う臣従達がいる我がグレンヴァース家だ。臣従を誓う家が一つもない、ましてやたかだか伯爵の位しか持たないお前の家ではない」
 長男がいる場合、如何なる理由であろうとも、財産は全て長男が受け継ぐ。それは、法律で決められていること。相続権を譲ったり、金で売買できるようなものではないのだ。ゆえに、グレンヴァース家の全財産を受け継ぐルパートと、その財を一つも受け継ぐことのできないアラステアとでは意味合いが大きく異なってくるのだ。
「……ッ」
「私とリオノーラの間には愛なんてものは微塵もないが、彼女には私の妻としてその責務をきちんと果たしてもらいたいと思っているよ」
 その責務が、『道具』として彼の子供を産むこと。リオノーラは逃げ出したくなった。
 アラステアはぎりっ、と奥歯を噛み締めている。
「なんとなく兄貴の本性はわかっていたが、その腐りきった性根に反吐が出る」
 ルパートは全く堪えていない様子だった。
「アラステア。お前は留学をしてから、言葉遣いが本当に悪くなったね。もっと兄である私を敬ってもらいたいものだ」
「お前のどこに敬える要素があるっていうんだよ」
 ルパートはにこり、と場違いなほどの上品な笑みだけを返した。
「――さて、話は以上だ。そこの彼女だけ置いて、私の城から出て行ってもらおうか。ここへ居座るつもりならば、衛兵を呼ばせてもらうよ」
 まだルパートの城ではない。けれども城の主である二人の父は遠方におり、代理で城の管理を行う者は順当にいけばルパートとなる。
 アラステアは舌打ちをすると、リオノーラを置いてあっさりと部屋から出て行った。
「アラステア……!」
 リオノーラは驚くと、アラステアを追いかけようとした。だが、その前にルパートが椅子から立ち上がった。ウォルナットのテーブルに立て掛けてあった黒い杖を取ると、それを持ってリオノーラへとゆっくり近付いていく。元々体の弱かったルパートだが、七年前に見た時よりもやつれ、眼差しはどこか暗く淀んでいる。歩き方もどこかぎこちなく、微かに背を丸めるようにして立っていた。
「リオノーラ。最初に言っておく」
「な、なんでしょうか」
「コリーンは私専属の世話係として、これからもずっと傍にいてもらうつもりなんだ。君と結婚をしても、ずっとね」
 その言葉にリオノーラは面食らった。というのも、堂々と浮気の宣言をされたも同然だからだ。
「な……」
「アラステアの手前、君には跡取りを産んでもらうと宣言をしたけれど、私は君との間に子供を作るつもりはない」
 リオノーラは嫌な予感がした。彼が次に告げる発言がよくないものだと、はっきりとわかったからである。しかしながら、問わないわけにはいかない。
「じゃ、じゃあ、跡取りはどうするんですか……?」
「コリーンに私の子供を産んでもらい、その子供を私と君の子供として育てる予定だ。表向きは君との子供にするけれども、子育てには参加しなくてかまわない。私とコリーンで育てるから」
 ルパートは、まるで今日の天気の話でもするかのように、軽やかにそう告げた。リオノーラはこの現状を、悪夢だとしか思えない。
「そんなこと、できるわけが……。私とコリーンとでは、髪色も違うし。生まれてきた子供が金髪だったら」
「君のご両親は鮮やかな金髪を持っているじゃないか。それなのに、君は金髪ではなく、白とも銀ともわからぬ色合いをしている。君から金髪の子供が生まれた、となっても何もおかしくはないだろう?」
 反論することができなかった。幼いころより、ずっと不満を持っていたのだ。両親は美しい金髪を持っているのに、なぜ自らは金髪に生まれてこなかったのだろう、と。
「それは、そうですが……」
「君の家と私の家に、亀裂なんて生みたくないだろう? 我がグレンヴァース家は君の家と縁が切れたとしてもあまり痛手は負わないが、君の家はきっと違う。君の両親が困ることになってもいいのかな? そんなわけはないよね? 君はいい子だもの」
 完全なる脅しだった。リオノーラは体を震わせながら、目に涙を浮かべてしまう。
 本来ならば、こんな非常識な話が通用するわけがない。けれども、目の前の男性はその非常識な話を現実にしてしまうだけの力を持っている。それが、わかってしまった。
「……っ」
「外では、君と仲睦まじい夫婦を演じてあげるよ。だから、君もその努力をしてほしい。……どうしても私とコリーンのことが気に食わないというのであれば、弟と浮気をしてくれて構わないんだよ? もちろん、そんなことができる勇気があれば、の話だけれど」
 浮気をした妻は、不貞を働いたという烙印の屈辱を与えられた後、夫に捨てられるのだ。そして浮気相手の男性は、去勢されるか、体の一部を切断されるか、処刑されこともある。
 そのリスクを知りながらも火遊びに興じる貴族は多いのだが、リオノーラはしようとは思えなかった。同時に考えるのは、もしもリオノーラがアラステアと浮気をしようものならば、目の前の男性は嬉々としてリオノーラとアラステアを切り捨てるということ。でなければ、今彼が告げた話が抑止力にならないからだ。脅しとは、本当に実行するからこそ、その効果を発揮する。
 先ほどルパートが話した通り、リオノーラの家と彼の家の繋がりがなくなった場合、大打撃を受けるのはリオノーラの家である。両親や故郷の領地に住む者達を案じるならば、グレンヴァース家との繋がりを断ってはならない。そして、次期領主となるルパートの機嫌を損ねることも、絶対にできないのだ。つまり、コリーンとルパートが恋仲にあろうとも、リオノーラには糾弾する権利さえないということ。
 ――こんな屈辱的なことって……。
 ふとぞわりとした視線を感じてコリーンのほうを見れば、怨嗟がこもった眼差しでリオノーラを睨み付けていた。身分の違いから、愛する相手と一緒になれないコリーン。もしもリオノーラがルパートと結婚をすれば、彼女は立場的にはルパートの愛人、という形になる。それがいかに屈辱的なことか、世間に疎いリオノーラでも察することができた。けれども、リオノーラもまた、屈辱的な扱いを受けているのだ。二人の気持ちを理解しようとは思えないし、ましてやコリーンに同情するつもりもない。
 リオノーラはその場の空気を吸うことにさえ嫌気がさし、ルパートの部屋を飛び出した。そのまま無我夢中で廊下を走る。
 ――無理よ。耐えられないわ。
 これからの生活を想像しただけで胃から苦いものがこみあげて、強い吐き気を催した。リオノーラは青い顔をしたまま、正面玄関へ続く広い廊下へやってくる。するとそこに、アラステアがじっと待っていた。
「リオノーラ。大丈夫……、じゃないよな」
 アラステアの顔を見た途端、ほっとしてしまった。たとえ彼であったとしても、リオノーラの状況を好転できるはずもない。わかってはいるが、彼の顔を見ただけで安堵したのだ。
「アラステア……、わ、私と一緒に、逃げよう……?」
 とんでもないことを口にしてしまった。そんなことができるわけがないことは、リオノーラが一番よくわかっている。けれども、アラステアの前では虚勢を張ることも本音を偽ることもできなかったのだ。
 そうして縋るようにアラステアを見上げれば、彼は冷静な顔立ちをしていた。驚いた素振りすら見せない。
「逃げるってどこにだよ」
 至極真面目な回答だった。
「ど、どこでもいい。アラステアが一緒なら、私、どこでもいい……っ」
 目に涙が浮かび、語尾がくぐもってしまった。
「全部の身分を捨てて逃げるのか? 無理に決まっているだろ。貴族の生活しか知らないお前に、庶民の暮らしなんてできるわけがない。お金を稼ぐっていうのは、大変なことなんだぞ。水仕事をすれば手だって荒れるし、暖炉のあるような家には当然住めない。お前、襤褸切れのような服を着て、手に肉刺(まめ)をたくさん作るような力仕事もできないだろ」
「できるわ! ここにいるぐらいなら、そっちのほうがずっといいもの!」
 本音を漏らしてしまった。リオノーラは、両親のことを大事に思っている。守りたいとも思っている。だがしかし、この現状を受け入れる覚悟などできなかった。
 ――こんなの、子供のように駄々をこねているだけだって、わかっているわ。
 頭では理解できても、気持ちが追いつかないのだ。
 アラステアといえば、呆れたように目を細めていた。だがそれも瞬きをする間のことであり、すぐに悩ましげな表情へと変化する。
「……、まぁ、お前と駆け落ちっていうのも悪くはないな」
「え……?」
 嘘とも本気ともわからぬ表情をしているアラステア。リオノーラは、心臓がどきりとしてしまう。
 ――アラステア、もしかして私と……。
 一緒に逃げてくれるのだろうか。
 そんな淡い希望を抱いた刹那――。
「だが俺はお前と駆け落ちをするつもりはない。大体、そんなことをしても根本的な解決にはならないだろう」
 彼の言う通りである。彼の言葉は正論だと理解しながらも、リオノーラは落胆してしまう。
「そう、ね……。困らせるようなことを言ってしまって、ごめんなさい……。結局のところは、私がたった一人で耐えればいいだけの話なのよね。アラステアは、関係ないもの……」
「なんだよ、関係ないって」
「だって、私と絶対に結婚をしなければいけないわけではないし、他の女性と結婚しようと思えばできるもの!」
 彼にこのような発言をしたいわけではないのに、非難めいた口調になってしまった。だが、リオノーラは思うのだ。はじめから責任をとるつもりではないのならば、なぜ抱いたりしたのか、と。リオノーラを置いていくのならば、最初から触れ合わないほうが良かったのだ。
 そうして、二人の間に気まずい沈黙が訪れてしまう。
 ――私、最低だ。
 自分で自分のどろどろした感情に、辟易してしまった。なんと醜いのだろうかと、心の中で自らを罵る。流石にアラステアにも愛想を尽かされて嫌われてしまっただろう、と俯いた。
「俺も、信用ないんだな」
「そういう、わけじゃ……」
「とりあえず、お前はこの城で待っていろ。必ずお前を迎えに来るから、それまで信じて待っていろ」
 リオノーラは顔を上げてアラステアの方へと向いた。彼が指示した微かな希望に、縋りたくなってしまう。
「迎えにって……、いつ来るの?」
「それはわからない。だが、約束する。必ずお前を迎えにくる、って」
 確証が欲しかった。必ず迎えにきてくれるという、確証が。
「じゃあ、私を愛してるって言って。アラステアが愛してるって言ってくれたら、あなたを信じて待っているわ」
 せめてたった一言。その一言さえあれば、アラステアの迎えに来るという言葉がたとえその場限りの嘘だったとしても、信じて待っていられると思えた。
 けれども、アラステアは表情に暗い影を落とす。
「……以前にも言っただろう。俺に愛を求めるな、って」
 リオノーラの体が震えた。
「どうして……?」
「どうしてもだ」
 なぜ、愛を求めてはいけないのか。リオノーラにはこれが最も理解ができない。想いが通じ合っているならば、愛を求めることが当然ではないのか。
「じゃ、じゃあ、アラステアは、私のことを愛していないのに抱いて、愛していないのに結婚をするつもりだったの?」
「……だったら、どうするんだよ」
 吐き捨てるかのような冷たい声に、リオノーラはくらりと眩暈を起こしてしまった。体が傾いで倒れそうになるが、どうにか踏ん張る。
 ――アラステアのことが、わからない。
 彼に近づけた気がしていたのだ。彼は素直ではないだけで、本当は好意を持ってくれているのではないかと、期待をしていた。けれども、それは浅はかな勘違いだったのだろうか。
「よく、わかった。アラステアなんて、大嫌い!」
 勢いに任せてそう言い放つと、リオノーラは背を向けてその場から走り出した。


 リオノーラが走り去った後、アラステアは拳を握って廊下に一人で立ち尽くした。
「追いかけられるものなら、とっくに追いかけている」
 追いかけたところで、リオノーラを余計に怒らせてしまうことは目に見えていた。なぜならば、アラステアはリオノーラへと告げるべき言葉を持っていないからだ。
 ――愛している。
 その言葉を告げることは、最早できないのだ。
「どうしてリオノーラのことになると、うまくいかないんだろうな……」
 右手を左胸の上に当てて、ぐっと上衣を握りしめた。以前にも、リオノーラを何度か怒らせたことはある。だがそれは時間が解決してくれると、然程懸念をしていなかった。しかし、今回は違う。
「大嫌い、か……。久しぶりに聞いたな」
 七年前、リオノーラに無理矢理口付けをした時にも、同じことを言われたのだ。しかしながら正直なところ、それはあまり堪えていなかった。むしろ、大嫌いと言ったことを謝られた時のほうが、アラステアにとって辛い出来事となっていたのだ。
『アラステア。さっきは、大嫌いって言って、ごめんね』
 森で迷子になったリオノーラは、崖から落ちかけた。アラステアは必死に手を伸ばし、一度はリオノーラの手を掴んだのだ。しかしながら、リオノーラは二人同時に崖から落ちることを回避するために、自らアラステアの手を放してしまった。
 ――大嫌いだと言ったことを謝罪してから。
 あの時のことを、アラステアはずっと忘れることができなかった。ついさっきまであったはずの温もりが消えた恐怖。それはアラステアの心へ大きな傷を残し、事故以降、重度の不眠症になってしまった。そんなアラステアが薬に頼ることなく、心穏やかに睡眠をとることができるようになったのは、リオノーラと一緒の寝台で眠るときだけ。不眠症が完治したのかと思ったが、それは大きな間違いだった。なぜならば、少し前に領地の視察を行うために十五日間リオノーラと離れたが、初日から眠ることができなかったからだ。
 ――我ながら、リオノーラに依存しすぎだろ。
 リオノーラとの心の距離が縮まったかと思えば、それを全て自らの手で台無しにしてしまう。
 先ほどのように。
 ――それにしても、リオノーラと俺が既成事実を作れば、兄貴も踏みとどまるかと思ったが。
 リオノーラの生家であるフレイドル家がアラステアの家であるグレンヴァース家にもたらす利益は、多大なものだ。それを知っているからこそ、ルパートはリオノーラを露程にも思っていないにも関わらず、結婚すると言っているのだ。いずれグレンヴァース家の全権を譲り受けるルパートとしては、リオノーラの家がもたらす益を何がなんでも手中に収めたいのだろう。
 リオノーラを抱いてもルパート相手に何の牽制にもならないかもしれないと予想をしていたが、アラステアとしては踏みとどまって欲しかったと思わざるを得ない。
「アラステア様」
 名前を呼ばれてはっとし、背後へ振り返った。すると少し離れた場所に、セドリックが静かな面持で控えていた。彼は、アラステアの信用に足る数少ない人物。
「セドリック。幾つか予想し得る中でも、最悪な部類に入る事態となった」
「はい」
 遅かれ早かれこうなるのではないかと、アラステアは前以って想定をしていた。というのも、兄のルパートが城から持ち出した金が遅くない内に底を尽くのは、目に見えていたからだ。しかもルパートは体が弱い上に、貴族以外の暮らし方を知らない。ならば、住む家もなく、働くこともできず、先立つものがなくなったルパートは、必ずドゥヌカ城へ戻ってくる外(ほか)ない。
「俺としても強硬手段なんて取りたくはなかったが、こうなった以上はどうしようもない。すぐに出立するぞ」
 リオノーラを他の男に奪われることも我慢できないし、それがリオノーラを不幸にするような相手であるならば余計に我慢できなかった。それがたとえ血の繋がった兄であったとしても。
 アラステアは、最も愛しくてやまない女性を思い浮かべた。
「俺はリオノーラにただ笑って傍にいて欲しいだけだというのに、いつも怒らせてばかりだな」
 その小さな呟きは誰に聞かれることもなく、宙に掻き消えた。


 アラステアがドゥヌカ城から出ていき、半月が流れた。城の中に居場所のないリオノーラは、人目を忍ぶように庭園へと訪れていた。リンデンの並木道の奥にある円形階段の上へ腰かけ、ただただぼんやりとしてしまう。リオノーラとしてはすぐにでも故郷にあるアロア城へと戻りたかった。だが、アロア城へ戻れば帰省の理由を話さなくてはならない。リオノーラとしては、その覚悟がまだできていなかった。現状ではアラステアとの婚約話がどうなるのかは、両家で相談をしなければわからない。だがリオノーラの予想通りならば、元々の婚約者であるルパートと結婚をすることでこの話は納まるだろう。
『とりあえず、お前はこの城で待っていろ。必ずお前を迎えに来るから、それまで信じて待っていろ』
 アラステアの言葉が脳裏に浮かんだ。彼を待っているわけではない。だが、一日に何度も彼を思い出してしまうのだ。その度に胸がチクチクと痛くなる。
「アラステアなんて、待たない……。大嫌いだもの」
 泣くつもりなどなかったのに、目から涙が零れてしまった。アラステアと最後に会った日、リオノーラは庭園で泣いたのだ。あの日以来気持ちを切り替えることができず、今もずっと引きずっている。
「リオノーラ様、また泣いているのですか?」
 その声に、リオノーラは驚いて目を瞬かせた。いつの間に現れたのか、リオノーラの真横にシルヴェストルが座っていたのだ。
「シルヴェストル……」
 ドゥヌカ城で唯一味方なのは、シルヴェストルだけだった。彼女だけは噂などに惑わされず、リオノーラの傍にいて支えてくれている。
「そろそろ、何があったのかお話してくれませんか?」
 シルヴェストルを信用していないわけではなかったが、あの日のことは打ち明けていなかった。それほどに、精神的に堪えていたのだ。シルヴェストルも無理に聞き出そうとはせず、リオノーラが落ち着くまで黙ってくれていた。
「……実は」
 リオノーラは拙いながらも、あの日起きた出来事をシルヴェストルへ相談をした。アラステアとの婚約が白紙に戻りそうなことや、アラステアと喧嘩別れをしてしまったことも。
「大嫌いって、言ってしまったのですね」
 リオノーラは頷いた。愛していないのに抱いたのかと問い詰めた後、だったらどうするんだよと言われてしまったのだ。
「うん……」
「アラステア様の態度にも問題はあると思いますが、否定はされていませんよね」
「そうだけれど……、もしも違うなら否定するでしょう?」
 シルヴェストルは穏やかに微笑んでいた。
「アラステア様を怒らせるような発言を、されたのではないですか?」
 そんな覚えはない、と言おうとして、リオノーラは口籠った。
『そう、ね……。困らせるようなことを言ってしまって、ごめんなさい……。結局のところは、私がたった一人で耐えればいいだけの話なのよね。アラステアは、関係ないもの……』
『なんだよ、関係ないって』
『だって、私と絶対に結婚をしなければいけないわけではないし、他の女性と結婚しようと思えばできるもの!』
 リオノーラがこう発言した後、『俺も、信用ないんだな』と、悲しそうにしたのだ。
 シルヴェストルはリオノーラの表情を読み、リオノーラの顔を覗き込む。
「心当たりがあるようですね?」
「うん……」
「では、次に会ったときに、謝らないといけませんね」
「そうね。アラステアに、大嫌いって言ったことを、謝るわ。……でも」
「どうかしましたか?」
 リオノーラは膝の上で両手を結んだ。
「アラステアは、私のことを愛していないのよ。愛を求めるなって、いつも言うもの。婚約の話が白紙になって、よかったのかもしれないわ」
 シルヴェストルは不思議そうにしていた。
「リオノーラ様は、アラステア様が愛を告げられないことを、ご存知ないのですか?」
 それは、奇妙な質問だった。まるでアラステアが愛を告げない理由を、リオノーラが知っているかのような発言。
「知らないわ……。何か理由があるの?」
 シルヴェストルは少しばかり思案した。
「七年前。リオノーラ様は崖から落ちたときのことを覚えていますか?」
 どうして彼女がその話を知っているのか。リオノーラの記憶によれば、彼女は駆け落ちをしたコリーンの後に、ドゥヌカ城で働き始めたのだ。ならば、七年前のことを人に聞かない限り知っているはずがない。
「誰かに、聞いたの? 七年前の事故のこと」
「誰にも聞いていませんよ。七年前、私はあの場にいたので、知っているんです」
「嘘よ」
「嘘など申しません。……リオノーラ様とも、七年前に一度お会いしているんですよ」
 そんなはずはない、と首を振りかけて、脳裏を何かが過った。それは、彼女とよく似た女性。琥珀の髪や青緑色の瞳が色鮮やかなのはそのままで、けれども体に青い光を帯びていたのだ。衣服も、まるで絵画に描かれた女神が着るような、袖のない白のチュニック姿だった。
「……崖から落ちるとき、あなたを見たわ」
 アラステアの手を放した後、リオノーラは崖下へ転落した。けれども、真下から吹き上げる風によって落下速度が弱まったのだ。目を開けた瞬間に視界へと飛び込んできたのは、シルヴェストルの姿だった。
「リオノーラ様は、私の眷属を助けてくださいました。だから、私もリオノーラ様をお助けしたんです」
「眷属? 仲間、ということ?」
「はい。白いユリの妖精のことです」
「それって……、元気がないユリの花に、私が水をあげたこと?」
 森の中で、不思議な光るユリの花を見た。だが元気がなさそうに見えたため、リオノーラは水を与えたのだ。
「はい。あの時、私は無傷でリオノーラ様をお助けしたかったのですが、咄嗟のことだったので地面へ墜下(ついか)する速度と衝撃を弱めることしかできませんでした」
「どうやって?」
 シルヴェストルが右手を軽く振ると、それまで無風だったというのに風が吹いた。リンデンの葉を揺らし、リオノーラの真横を吹き抜けていく。
「私には風を自由自在に操る力があるんです。シルヴェストルの意味は『森の者』。私はこの城の裏手に広がる森で暮らす、風の妖精です」
 彼女の言葉は、リオノーラをとても驚かせた。民話やおとぎ話の世界にしかいないと思っていた存在が、すぐ目の前にいるからだ。しかしながらそれと同じぐらい、心の中で納得をした。どこか普通の人とは異なる気配を持っている彼女。リオノーラは、それは彼女が妖精だからなのだと、説明のしようがない感覚で理解する。
「どうして森で暮らしているあなたが、この城で勤めようと考えたの?」
「人の暮らしに興味があったので。あと、大きくなったリオノーラ様を間近で見たかったんです。七年前の事故以来、この城へは訪れなかったでしょう? なので、城で働いていればいずれはリオノーラ様に会えると思って、ここで働いていたんです」
「そう、だったの……。でも、どうやってドゥヌカ城へ侍女として働くことができたの?」
 どこか信用の置ける貴族の推薦状でもなければ、勤めることなどできないはず。
「大人の秘密です」
 にこりと、嫣然たる笑みで拒否された。リオノーラとしても、これ以上深く追及するのは藪蛇になりそうだ、と話を戻す。
「アラステアのことを教えてくれる? どうして、愛を告げられないのか」
「それは、リオノーラ様も知っているはずですよ。リオノーラ様なら、思い出せるはずです」
 シルヴェストルがリオノーラの額へ指先を当てると、まるで暗示にかかったように、リオノーラの意識は七年前の過去へと誘われた。


 崖から落ちた。そう思った次の瞬間には、強い衝撃が全身を打ち付けた。
 ――痛い。
 声に出したかったが、できなかった。ヒューヒューという、風のような音がうるさいぐらいに耳に響いており、何も見えない。地面はとても冷たく、手足も動かなかった。
 ――痛い、痛い。
 やがて、ヒューヒューという音は風の音などではなく、自分の呼吸音なのだとわかった。このまま死んでしまうのだろうか。そんな不安と恐怖で心がいっぱいになる。だがそれよりも。
 ――アラステア。
 彼は、どうなったのだろうか。無事なのだろうか。瞼さえろくに開かぬ状態では、彼がどこにいるのか確かめようもない。
「リオノーラ!」
 誰かが駆けてくる足音がした。その声の主を忘れるわけがない。アラステアだ。しかしながらリオノーラはぴくりと動くこともできなかった。背中を打ち付けた衝撃から呼吸も浅く、声を発することもできない。
「おい、リオノーラ! しっかりしろ、リオノーラ!」
 体を軽く揺すられたが、反応ができなかった。
 ――アラステア、大丈夫。私は無事だから、心配しないで。
 そう言いたいのに、意識だけはっきりしていて、体は動かない。次第にアラステアの様子がどこか緊迫したものになっていくのがわかる。
「……そんな。嘘だろ、リオノーラ」
 アラステアの震える声。
「リオノーラ、死ぬなよ! 死ぬな!」
 大声で叫ばれたが、やはりリオノーラは何も言うことができなかった。体を動かすことのできないもどかしさ。あの高さから落ちたのだ。ならば体が無事であるわけがない、とリオノーラも思った。けれども意識ははっきりしているし、落ちた時の衝撃以外に痛い部分はない。だから、自分が死んではいないことだけ確信できた。
「リオノーラ……ッ、なんで。どこも怪我はしていないのに……」
 目を開くことはできないが、彼が泣いているのがわかった。悲しませたくないというのに、涙を拭ってやることもできない。
 そうして暫くすると、どこからともなく地面を踏みしめる足音が聞こえてきた。なぜか唐突に周囲の空気が冷え込んでいき、何かこの世のモノではないおぞましい気配が立ち込めていく。
「おや、何やら妖精達が騒がしいから来てみれば。人間の子供がいるなんて」
 聞こえてきた声は、女性のものだった。声だけを聞くならば、二十代か三十代。リオノーラは捜索に来た大人だろうかと考えるが、傍にいるアラステアが警戒しているのを感じ取って。そうではないと知る。
「……魔女、だな」
「そうだよ。私は魔女だ。……その娘、崖から落ちたのかい?」
「あぁ」
 ――魔女。
 リオノーラはそんな異形の存在がいるとは、信じられなかった。けれども、アラステアは言っていたのだ。北の森には魔女や妖精などの、人ならざる者達が住んでいる。だから近づいてはいけない、と。
「私がその娘を生き返らせてあげてもいい」
 耳を疑うような提案だった。
「な……、それは、本当か?」
「あぁ。でも、代償があるけれどね」
「どんな、代償だ?」
 リオノーラは、死んではいない、とアラステアへ訴えようとした。けれども、やはり肉体は言うことを聞いてくれない。まるで自分の体が自分の体ではないかのように、指一本動かせないのだ。
「お前の魂だ」
「んな……っ」
「何を驚くことがある。人を一人生き返らせるのだから、格安の条件だと思うけれどね。……あぁ、でも私は子供には優しいから、お前にチャンスを与えてやってもいい」
 まるで、これからゲームでも始めるかのような、愉しそうな声が森の中に響いた。不気味な鳥の鳴き声が反響し、震え上がりそうになる。
「チャンス、だと?」
「そう。私がお前に、心から愛する相手に、永遠に愛を告げることができない呪いをかける。もしもお前がそのルールを破って愛を告げれば、お前は死んでしまう」
「……っ」
「愛を告げることができなければ、教会で結婚することもできない。お前は永遠に孤独となる」
 リオノーラは焦った。そんな条件を受け入れる必要はない、と。リオノーラは死んではおらず、生きているのだから。
 けれども――。
「そんなことでいいのか。……わかった。リオノーラを生き返らせてくれるというのであれば、天使だろうが悪魔だろうが、祈ってやる。この場合は魔女、ってことになるが」
 アラステアは何の躊躇いもなく承諾してしまった。どうしてもっと用心深く行動をしないのか、リオノーラは心の中で彼を怒る。
「なんて迷いのない目をする子供だ。あぁ、でも、嫌いではない。……そうだ。もう一つ条件を加えてやろう」
「なんだよ……」
「もしも将来、お前に愛する人ができたとしよう。その人物と寸分の疑いもなく互いに愛し合っていると信じられた状態で愛を告げることができたならば、その呪いは解かれる。呪いが解けた後は、お前の命が脅かされる心配はない」
「随分と気前のいい条件がいいんだな。相思相愛の状態で愛を告げたら、呪いが解けるなんて」
「そんなことはない。人は疑心を抱く生き物だ。ほんの僅かな疑いも持たないなど、できるわけがない。お前が疑いを持たずとも、相手はお前の愛を疑うかもしれない。……お前が愛を口にするなんて、永遠に無理だろうよ」
 相手は本当に何の疑いもなく自分を愛してくれているのか。
 永遠に最期の時まで愛し合っていられるのか。
 本当にこの人でいいのか。
 僅かにそんな考えを心に抱いた時点で、既に疑いを持っていることになる。
「構わない。たとえ微かな望みだとしても呪いが解ける可能性があるならば、俺は受け入れる」
「そうか」
「確認だが、手紙でも愛を告げられないのか?」
「あぁ、ダメだ。この呪いを他の誰かに相談するのも、禁止する。もしも破れば、お前はその場で死んでしまう」
「そうか」
「さて、話は終わりだ。今すぐその娘を生き返らせてやろう」
「待ってくれ」
 アラステアは制止した。そして動かないリオノーラの頭を撫でつける。
「お前が助かるなら、俺は何も望まない。一生好きだと気持ちを伝えられなくても構わない」
 切ないまでの声色。リオノーラは彼がこれから何を言おうとすることを、止めたくなってしまう。
「リオノーラ。お前に言うことができないかもしれないから、一生分の気持ちを込めて伝えておく。俺はお前のことが大好きだ」
 その告白に、リオノーラは驚いた。彼に嫌われているとずっと思っていたからだ。
 彼はそんなリオノーラの戸惑いも知らず、更に言葉を重ねる。
「リオノーラ。お前を、愛している。これからもずっとずっと、愛している」
 リオノーラは泣きそうな気持ちでいっぱいだった。けれども涙は出ない。いつも彼は、顔を合わせる度に嫌なことをしてくる。けれども、リオノーラが他の誰かに虐められたときは助けてくれた。そして、森に迷ったリオノーラを真っ先に見つけ出してくれたのも、彼だったのだ。
 ――アラステア、アラステア……。
 リオノーラにはまだ、愛という難しい感情はわからない。けれども、胸を占める想いはとても温かく、じんわりと心に沁み渡っていく。
「……リオノーラを、生き返らせてほしい」
 アラステアの思いつめたような声の後、魔女が聞き慣れない言葉で何かを唱えた。それとともに、リオノーラの意識は沈んでいったのだ。
 そうして次に意識が戻ったとき。
 リオノーラはアラステアによって背負われていた。鬱蒼とした森の中を歩いている最中であり、日が差し込まないことからとても薄暗い。
「……アラ、ステア……」
 消え入りそうな声で名前を呼べば、アラステアは歩を止めた。
「目が覚めたのか、リオノーラ……」
「うん……。崖から落ちる夢を、見たの……。とても、怖かった」
 ぼんやりと霧がかかったかのように、リオノーラの思考ははっきりとしなかった。
「そうか……」
 背負われているせいで、アラステアがどんな表情をしているのかはわからなかった。だから、リオノーラは不安になってしまう。
「アラステア……?」
 アラステアは深く息を吸い込むと、リオノーラの体を背負い直した。
「夢だ。これは夢だ。だから忘れろ。お前は悪い夢を見ていただけなんだ」
「夢……?」
「あぁ。全部、忘れろ。そのほうがいい」
 リオノーラの意識は再び朦朧としてきた。
「これは、夢……」
「そうだ。だから、忘れるんだ。お前は悪い夢を見ていただけなんだから……」
「……うん」
 魔女が出てきたことも、アラステアが恐ろしい取引きをしたことも、きっと全て夢なのだ。
 リオノーラはアラステアの言葉を信じて、眠りに落ちた。


 七年前に起きた出来事を思い出したリオノーラは、両手で口元を覆って呆然とした。なぜこれほどまでに重大な事実を忘れていられたのか。自分で自分のことが信じられず、わなわなと体を震わせてしまう。
「アラステア……」
 子供の頃から、ずっと繰り返し見てきた悪夢がある。だがその悪夢の最後は、いつも誰かが安心させるかのように声をかけてくれたのだ。その声を聴くと、リオノーラは恐ろしい悪夢を全て忘れることができた。
『夢だ。これは夢だ。だから忘れろ。お前は悪い夢を見ていただけなんだ』
 その言葉を告げた人物は、アラステアだった。リオノーラは、夢の中でも彼に守られていたのだ。
 リオノーラが自失状態に陥っていると、隣にいるシルヴェストルが声をかけた。
「思い出したようですね。……ごめんなさい。私がアラステア様を止めることができればよかったのですが、魔女と妖精の間で不可侵の決まりがあるのです。なので、魔女がすることを私は黙って見ていることしかできませんでした」
 シルヴェストルのせいではないと、リオノーラは首を振った。彼が呪いを受けることを止めるられなかったのは、自分のせいなのだから。
「どうして魔女は、私が死んでもいないのに生き返らせるなどという話をしたのかしら」
「魔女は甘言が上手で、悪巧みが好きなのです。人を騙すことなんてなんとも思っていませんし、誰かが不幸になる様を見るのが最上の喜びなんです。あと、幾ら魔女が魔法に長けているとはいえ、死者を生き返らせることなんて絶対にできません。そのような力を操ることができるのは、神と呼ばれる存在だけですから」
「そうなの?」
「えぇ。あと、リオノーラ様が崖から落ちた際に無事であるにも関わらず体を動かせなかったのは、おそらく魔女が体を仮死状態にする魔法をかけていたからでしょう。森に住んでいるあの狡猾な魔女ならば、それぐらいお手の物ですから」
 そうなのだ。もしもリオノーラがあのときに無事であることを証明できたならば、アラステアへ呪いがかけられるのを阻止できたはずなのだ。けれども、それは実行できなかった。
 シルヴェストルは、魔女に騙されたと気づいたときにはもう全てが手遅れなのだと、口を濁す。
「アラステアに、伝えないと。魔女の呪いは偽りだって」
「いいえ、リオノーラ様。それは違います。魔女がリオノーラ様を生き返らせたという話は嘘ですが、アラステア様にかけられた呪いは本物です。リオノーラ様ならば見たことがあるかもしれませんが、アラステア様の左胸の上には、魔女が刻んだ呪いの刻印があるはずです」
「え……?」
 アラステアの左胸の上にある、禍々しい痣。それを、はっきりと覚えていた。彼の胸に、黒い炎を纏った剣の形の痣があったのだ。彼は初め、その痣をリオノーラに見られることをとても嫌がり、隠そうとした。
「リオノーラ様がアラステア様へその事実を伝えても、事態は何も変わりません。……むしろ、そんな出来事があったからリオノーラ様は負い目を感じて自分の傍にいてくれるのだと、アラステア様は思われるでしょう」
「そんなことはない!」
「リオノーラ様がそう思われなくても、アラステア様は違うかもしれません。魔女がかけた呪いを解くには、互いの愛情に偽りがなく、純粋なものでなくてはいけません。……リオノーラ様は、アラステア様のことを愛していますか?」
 リオノーラは迷うことなく頷いた。
「私は、アラステアを愛しているわ」
 一体いつから彼に心が惹かれていたのか、正確にはわからない。汚いものを見せまいと、子供のころに目隠しをしてくれたアラステア。彼は、こんな自分を助けようと魔女と取り引きを交わしてしまったのだ。再会してからもいつも何かと気遣ってくれ、狩猟園でも濡れることを厭わず川に飛び込んでくれた。
 彼の行動の端々にたくさんの愛情を感じていたというのに、どうして察せられなかったのか。
 ――アラステアのことが、好き。大好き。
 こんなにも狂おしいほどの感情を持ちながら、今頃恋に落ちていたことに気付くとは、なんと自らは愚かなのだろうか。彼のことで一喜一憂するのは、全て彼に愛情を抱いているからだというのに。
 そうしてリオノーラは、アラステアと別れる前に述べた言葉を思い出して、とてつもない自己嫌悪に陥った。
『じゃあ、私を愛してるって言って。アラステアが愛してるって言ってくれたら、あなたを信じて待っているわ』
 彼は、言わなかったのではない。
 言えなかったのだ。
 そして更にぞっとするのは、もしも彼があの瞬間にリオノーラへ『愛している』と告げていれば、彼は死んでいたかもしれないということ。なぜならあの瞬間のリオノーラは、彼の愛情に疑念を抱いていたからだ。
 知らなかったとはいえ、リオノーラはアラステアへと残酷なことをしてしまった。彼に死んでほしいと言ったも同然なのだから。
 ――ごめんなさい、アラステア。
 リオノーラは両手で顔を覆って涙を流した。

 

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