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プロローグ
その日は、青い青い月の夜だった。湖面に煌めく星々が映し出され、夜空がもう一つ現れたかのよう。芽吹いたばかりの草木が春の訪れを告げており、ニオイスミレが至るところに咲いている。
しかしながらリオノーラにはそんな景色をうっとりと楽しむ余裕はなかった。なぜならば、目の前にいる男性に強引に薄茶色の壁へと突き飛ばされ、そのまま逃げることは許さないとばかりに両肩を押さえつけられたからである。
「残念だったな。お前の許嫁は兄貴じゃなくてこの俺だ。お前はこの俺の妻になる運命なんだよ。どれだけお前が拒もうとな……!」
そう告げた男性は、顔を怒りで朱に染めていた。短く切り揃えられた黒髪は立ち上がるように整えられているため、額と形の良い眉がはっきりと見える。燃えるような灰青の瞳は鋭く細められており、リオノーラの心を恐怖で包み込む。
「拒むだなんて……。私はただ、突然のことに混乱をしているだけで。アラステアは、嫌じゃないの? 私と結婚だなんて」
これ以上彼を怒らせるのは避けたかった。彼によって無理やり外へ連れてこられたのだが、周囲に助けを求められるような人影はない。体が自然と震え、眦にも涙が浮かんでしまう。
「嫌も何も、拒否できると思っているのか。これは、家同士の結婚なんだぞ。それとも、そんなことさえわからないほど、お前はバカなのか?」
彼の言うとおりだった。この結婚は昔から決められていたことであり、個人の身勝手な理由で破棄できるようなものではないのだ。
「わ、わかっているわ、それぐらい……」
「へぇ……? だったらいいが」
リオノーラは掴まれている肩が痛くて、身を捩ろうとした。だが彼の左手が目に入った瞬間に、体を硬直させてしまう。彼の左手は裂傷と細かい刺し傷の痕があるのだが、その傷がリオノーラのせいでできたものだと知っているからである。そしてその視線に気づいた男性は、リオノーラの肩から両手を隠すように下げると、忌々しそうに舌打ちをする。
「あ、あの、アラステア」
リオノーラが言葉を発するのを遮るように、アラステアが真剣な眼差しでリオノーラを見た。
「最初に宣言しておく。俺は今後お前に恋人へ囁くような甘い言葉は吐かないし、愛を語ることもない。そのつもりでいろ」
それは、愛のない結婚をすると言われたも同然だった。
アンカー 1
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